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ぼくが千歳支社発電所統括部北ブロック潮間発電所特任所長になったのにはもちろんそれなりのわけがある。ただぼくはどこかそれを巻き込まれ事故のように思っているふしがあった。直接的なことでいえば、会社の役員の娘を泣かせてしまっただけなのだが、気がついたらそうなってしまっていたし、一方でぼくの首が飛ばなかっただけでもずいぶん温情だ、とも思った。それについてもいろいろわけがあるのだろう。ともかく、ぼくは発電所のことなど何もわからないままこの扉をくぐることになったことだけはたしかだ。
「お待ちしておりました」
慇懃にぼくを出迎えたのは痩せぎすの女性職員だった。発電所関連施設――つまり、ここ一帯のことだろう――のとりまとめをしているという。名刺にはシオマエネルギーエージェントと書かれていた。発電所を含む、潮間の電力関連の設備はすべてこの会社に嘱託されて管理運営されている。先ほどまで乗ってきた潮間電鉄もそのひとつだ。いわゆる第三セクターという形態の会社である。
「関東電力の方はここ最近ずっとひとりだけですが、今回もあなただけということでよろしいですか」
「ええ、そうと聞いています」
市ノ瀬主任はふ、と鼻で笑った。この施設をまとめているというプライドの現れだとしたらむしろ頼もしかった。それくらいでなければこれほど大きな発電所をぼくひとりでとりまとめることなど不可能だ。
「基本的な管理業務は我々で行いますのでご心配なく。あなたの業務は関東電力との連絡と、非常時の対応だけです」
眉間に刻まれたしわが神経質さを際だたせている。彼女はおそらくぼくと同じくらいの背丈だろう。ヒールのぶんだけぼくよりだいぶ背が高い。だから少しだけ見下ろされている形になる。対してぼくは返す言葉もないし、特に言いたいこともないからなにも言わないので、はたから見てぼくが仮にも「特任所長」とは思われないかもしれない。
「もっとも重要なことをお伝えいたします」
彼女はそう言ってぼくのほうを向いて、視線を刺した。
「何があっても、退任の日までここに居続けること。これを私はあなたに要求します」
主任の眉がつり上がった。きっとほんとうにそう思っているらしかった。
「それ以外は好きにしてくださって結構です。可能な限り協力させていただきます」
おそらくこれも、にわかには信じられないけれどほんとうにそう思っているように見える。噂に聞くよりはずっと優しいと思った。口調の問題だろうか。
「ありがとうございます」
彼女はぼくの返事を聞いて少し驚いたようだった。一瞬だけ動きが止まり、思いだしたかのように同じ方向に歩き出す。
「では執務室に案内します」
しかし実際のところここまで歩いてきているので目的地は目の前だった。けれども主任は眉ひとつ動かさずに扉にカードをかざしてロックを解除した。もしかするといつもそうなのかもしれない。
「カードは後ほどお渡しします」
執務室は思っていたより大きかったがあまりにも机が多すぎて少し手狭だと感じた。ここのほぼすべての従業員の机が入っているらしく、書類が今にもこぼれ落ちそうなほど積み重なった机に座っているひとたちの間で、いかにもほとんど使っていないであろう机には容赦なく書籍や書類が積み重ねられていた。
ぱんぱん、と手をたたいて注目させる主任はさながら中学校のベテラン教師だ。
「みなさん、新しい所長が来られました」
彼女はそうひとこと告げた。場からは静かに拍手だけが向けられる。思っていたよりも歓迎されているような気がした。
「特任所長の石本です。なにもわからないまま潮間にまいりました。よろしくお願いします」
なんとなく頑張りだとかそういうものは求められていないような気がしたので、いくつか用意していた言葉をひっこめた。ほかのひとより若干だけれど神経質な気があってよかったとこういうときだけ思う。もちろん、報われるはずもないし実際報われたことはない。むしろ仇となったことのほうがたぶん多いだろう。
拍手はまばらに終わって、彼らは再び仕事に戻った。こちらを見る者はだれもいない。むしろ、心地がいい。
「いつもこんな感じですか?」
「ああ、どうでしょう。それはあなたのこれからのお仕事にもよると思います」
「そうですか。市ノ瀬さんはまっすぐにものをいっていただけるので助かります」
あえて思ったことをそのまま言った。案の定主任は全く表情を変えなかったが、少し動きが止まったのでたぶん動揺したのだろうと思う。
「失礼ですが、石本さんおいくつですか?」
「今年で三十二になります」
「はあ。ずいぶん、お若いんですね」
彼女はため息をついた。三十代でこの職に就いた人間をぼく以外に知らないから、その理由はなんとなくわかった。明らかに年下になる、ぼくへの接し方を考えているようだった。
「石本さん、これは嘱託としての意見でもなく、私個人の、文字通り老婆心ながら言わせていただきたいのですが」
老婆心、というところで笑うべきかどうか迷ったが、全く表情を変えていないのでかみ殺した。
「このまちに、あまり関わらないほうが幸せだと思います」
かみ殺した笑いの味は甘くはなかった。
「ご忠告ありがとうございます。聞かなかったことにします」
ふしぎなことに、ぼくは主任の言葉を受け入れながらも自然に自分の意思を伝えることが出来ていた。よく考えれば相当に気にすべきところで、おそらく主治医にも報告すべきだったのだが、そのとき気がついていないものを報告しようにも無駄なことだ。
「早くあるべき居場所に戻れるといいですね。あなたはまだ戻る場所があると思いますから」
主任はぼくがここに来た理由を知ることがないし、知るつもりもないだろう。もしかすると、それを真っ先に表明しているからこそ、ぼくは彼女をまともに受けとめることが出来たのかもしれなかった。
「そうですね、そうであればよいのですが」
そう言ってぼくは「所長」と書かれた机に腰を下ろした。うそをついたことだけ、ほんの少し後悔した。
南山駅にほど近い宿舎はむかしながらの3LDKで、ひとり暮らしの家財道具をすべて荷ほどきしてもがらんとするくらい広く、すぐに飽きてしまったからなんとなく外をぶらつくことにした。荷造りも荷ほどきも苦手だ。わずかな荷物のはずなのにもう円い月がだいぶ高くまであがってきてしまっている。雲が多いせいか薄い雲が月にかかって円い虹を広げていた。青白い光は吐いた息を寒々と照らす。階段になった細い道から崖の下に降りて、回り込むように伸びた道を延々と下り切り通しの道をさらに下っていく。崖の上と下でかなり高低差があるらしく坂道は少し急だと思えた。降りていった先は感触からして砂だろう。真っ暗になったので念のため持ってきた小さな懐中電灯を照らして先を進んだ。やっぱり砂だった。
なぜか進まなくちゃいけないような気がした。その先がぼんやりと明るいからだろうか。いや、きっと、暗くたって急いだだろう。それだけは確かだった。砂の上は踏みしめるのが難しくて何回も転びそうになる。いつも、そうだった。しばらく進んで月の光が射し込んできたとき、今までと明確に異なる、じゃりっ、と音がした。
目を疑った。地面は月の光を照らし返していて、まばゆく輝いているように見える。踏んだ感触が少し硬いと思って足元をもういちど見ると、粒が少し大きくなっていてひとつひとつがちいさな球になっていた。月の光に照らされて白く輝いている。これが一帯を覆い尽くしているから浮いているように見えるのだ。あまりにも月並みだけれど、幻想的、という言葉以外に表現のしようがないと思った。無数の星がここに降り注いだとしてもきっとこんな景色にはならないだろう。ぼくはその粒を手にとって月にかざした。見かけどおりで、月の光を反射していたのではなく、ため込んでいた光を放出していたようだった。
これは、そう。
真珠のようだ、と思った。
わたしね、真珠好きなの。
聞こえてはいけないひとの声がした。からだが震えている。耳をふさいだ。無駄だとわかっていてもそうせざるを得ないのだ。
彼女はここにいない。ここには、いない。
いては、いけない。
両手を通して警笛が聞こえた。列車が崖の上を通り過ぎてようやく思いだした。
昼間、ここで人が倒れているのを見た。警察官が立っていたのがちょうどこのあたりだった。だからあれは、厳密には砂浜ではなかったことになる。ここはそれすら忘れてしまうほどにきれいだった。ぼくはここにいてはいけないのかもしれなかった。いや、そもそも来てはいけなかったのかもしれない。これだけ美しい場所なのにだれもいないし、だれも来ないことが気になった。怖くなった。身体じゅうから変な虫が這い出てくるような気がした。来た道に光をなげ、全速力で駆け抜けた。宿舎の扉を閉めて動悸を押さえようとうずくまる。彼女は関係ない。それと引き換えの異動のはずだ。ぼくはもう真理に関わりたくないけれどだれもそれを真に受けてくれる人がいない。彼女は美しくて賢くてだからしたたかだし怖かった。ただただ、ぼくは彼女が怖かった。ほんとうのことをいえばそれだけだった。右耳にあしらわれた真珠のイヤリングは真理が振り向けばそれに従って揺れる。まるですべてが彼女の思うがままに動かせるかのようだった。世界のすべてを思うように動かせると思いこめるひとに、ぼくは二度と見つかりたくなかった。だからこうして、このまちにまでたどり着いたのだ。
けれど、彼女が潮間に現れたら、いったいぼくはどこへ逃げればいいのだろう。逃げた先に待ち受けるであろう真珠のように輝くあの浜辺は、それを教えてくれるようには思えなかった。
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