第30話「押し入れの中」

 入学式から10日ほど経ったある日の夜。


 僕は懐中電灯片手に、押し入れの中に入っていた。


 あの日、なぜ隣の部屋の『アノ声』が聞こえてきたのか、その理由が知りたかったが、入学式の直前や直後は忙しくて、なかなか調べる暇がなかった。


 でも、ようやく学校にも慣れ、余裕ができてきたので、押し入れの中を調査しようという気になった。


 押し入れ調査中に、ママンに部屋に入ってこられたら、理由を説明することができず困るので、ママンが寝たのを確認してから調査を開始した。


 僕は懐中電灯で押し入れの壁を照らした。


 壁のどこかに穴でも開いているのではないかと、入念にチェックしたが、どこにも穴は開いていなかった。


 その他にもあれやこれや調べてみたが、すべては徒労に終わった。


 結局、僕は『アノ声』が聞こえた理由を突き止めることができないまま、押し入れから出ようとした。


 その時……


「ああ、アズミちゃん、会いたかった」


 この声は忘れもせぬ、


 桃井瑠美ももいるみの声だ。


「ちょ、瑠美さん、気が早すぎだよー」


「だってー、久しぶりにアズミちゃんに会えたんだもーん。嬉しくてつい」


「だからって、そんないきなり……」


「だって、アズミちゃんのおっぱいって、服の上から触っても、すごく気持ちいいんだもーん」


「あっ……そんな……」


 これはいけない。


 間違いなく、これから『おっぱじめる』やつだ。


 そう言えば夕方、聡美さんが夜勤に出かけるところに出くわしたんだっけ。


 お母さんが夜勤でいない時にカノジョを部屋に連れ込んで『そういうこと』をするとか、アズミよ、お前もなかなかな女だな。


 なんにせよ、今日の僕はこの間みたいに盗み聞きなんかしないのだ。


 速やかに押し入れから出ることにしよう。


「こっちの方も触っちゃおっかなー」


「あっ……そっちはまだダメだよ、お風呂に入ってからね」


「えー、ガマンできないんだけどー」


「ガマンしてよー、瑠美さん、大人なんだからー」


「私、未成年だし」


「でもアズミよりは大人だよー」


「アハハハハ」


 なのに、どうしたことか。


 まるで呪いにでもかけられたかのように、僕の体は動かない。


 押し入れの中から自分の部屋に戻るという簡単なことが、なぜかできない。


 やがてふたりの声は消えた、お風呂に入りに行ったのだろう。


 このタイミングで押し入れから出ればいいのに、なぜか体が動かない。


 このままじっとしていては、また『アノ声』を聞くことになるとわかっているのに、動かない。


 本当に金縛りにでもあったかのように、あるいはこの押し入れの中が突然、高重力になったかのごとく、僕は一歩も動くことができないのだった。


「あー、本当に気持ちいいわー、アズミちゃんのおっぱい」


「もう、瑠美さん、さっきからおっぱいばっかり」


「だって最高なんだもん、アズミちゃんのおっぱい」


 僕が動けないでいるうちに、ふたりは部屋に戻ってきたらしかった。


「んっ……でも、おっぱい以外のとこも触ってほしいよ」


「んー? たとえばこことかー」


「んっ!」


「すごいね、まだほとんど何もしてないのに、こんなんなっちゃってるよ」


「いやー……」


「ほら、ベッドに座って」


「うん」


「ここ触られるの気持ちいい?」


「うん……気持ちいい……」


「じゃあ、もうちょっと早く動かしてみるね」


「あっ! イヤ! ダメ!」


「アズミちゃん、『イヤ』『ダメ』『やめて』は『もっとして』って意味なんだよ」


「イヤ……あっ……」


 まったくもって、いったい僕は何をやっているんだろう?


 片想いの相手が、別の女と、何か卑猥なことをしているのを、黙って聞いているだなんて。


 ただ、声を聞いているだけで、のぞき見しているわけではないけれど、どっちにせよダメだよなぁ……


「あっ! ダメ! 瑠美さん、本当にダメ!!」


「ダメじゃないよね、アズミちゃん、気持ちいいよね」


「ああああああっ!!」


 でも僕にだってプライドはあるんだ、今日の僕は絶対に『白い涙』は流さないぞ、そのために、もちろん硬くなっているアレにれもしない。


「すごいねー、アズミちゃん。いっぱい出ちゃったよ」


「ハァハァハァ……恥ずかしい……」


 アズミのどこから何が出たのか、僕にはさっぱりわからなかった。


「でもねアズミちゃん、今日は2回目だし、夜だから、これで終わりじゃないよね」


「うん」


「時間いっぱい、楽しもうね」


「うん……」


 この言葉を聞いてもなお、僕は押し入れの中にとどまり続けた。


「あっ……瑠美さん……そんな……」


「ウフフフフ、アズミちゃん、かわいい」


 あのお嬢様は僕のことを『東洋のルソー』とか言っていたけど、とんでもないね。


 実際は幼なじみの秘め事を盗み聞きして興奮している『盗聴のルソー』だよ。


 ただの変態だ。


 ちなみに、本物のルソーが子供の頃、いたずらをすると女教師にお尻をひっぱたかれることに快感を覚え、わざといたずらをしまくって、お尻叩かれまくっていたっていうのは有名な話、他ならぬルソー自身が『告白』で、そう書いている。


 なんで、こんなこと書いたかって?


 モノホンのルソーと同じように、こっちのルソーも変態ってことだよ、コンチクショー……


「あっ、瑠美さん! イヤ! ダメ! もうやめて!」


「アズミちゃん! アズミちゃん! かわいいねー、アズミちゃん!!」


「ああああああっ!!」


 押し入れの中で過ごす夜は、とてもとても長く感じた。


 でも今日の僕は、体のどこからも涙を流すことはなかった。

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