第29話「たはむれをやめよ」

 葵アズミだ。


 僕のことを「優くん」と呼ぶのは、葵家あおいけのふたりだけ、ママンは元ヤンキーだから、僕のことを呼ぶ時は呼び捨てか「お前」のどっちかだ。


 そして僕は、アズミと聡美さんの声を聞き間違えたりはしない。


「なんで、うちにいるのかなー、アズミちゃーん」


 僕はキッチンで料理をしているアズミの背中に話しかけた。


「ん? 陽子さんいたから入れてもらった。またすぐ出かけていったから、今はいないけど」


 アズミは振り返ることなく、背中で答える。


「なんでうちで料理してるの?」


「だってお母さん、夜勤明けで寝てるんだよ。料理の音で起こしたら可哀想じゃん」


「あ……ああ、そういうことか……」


「それに……これ優くんのために作ってるんだよ。もうすぐできるから椅子に座って待ってて」


 そう言って、一瞬振り返ったアズミの顔を見ただけで、僕の胸はドキドキドキドキ……学園で女子たちに囲まれていた時には一切感じなかった胸の高鳴りを、僕ははっきりと感じていた。


「ありがとう。でもその前に着替えてくるね。制服のままで食べるのもアレだから」


「ああ、そっか。そうだよね、ごめんごめん」


 僕は自分の部屋に戻って、グリーンジャケットの制服から部屋着に着替えた。


 本当は上杉軍の『』のTシャツを着たかったが、以前アズミに「ダサい」と言われたのを覚えていたので、無地の無難なTシャツにした。


 それにしても……


 変な女だらけの学園から、命からがら家に帰ってきたら、アズミがご飯作ってくれているとか、何これ?


 新婚夫婦みたいじゃん……


「優くん、ご飯できたよー!」


「う、うん、今行くよ」


 僕が着替え終えるや否や、アズミからの呼び出しがかかり、僕はすぐにリビングへ向かった。


「はい、召し上がれ」


 アズミが作ってくれたのは皿うどんだった。


 そりゃあもちろん、麺は市販のやつだけど、上に乗っかっている具だくさんの中華あんはまごうことなきアズミの手作り。


 僕のために、こんなめんどくさい料理を作ってくれるだなんて、ああ、変な奴らに囲まれて、すさんでいた心が浄化されていく。


「いただきます」


 アズミの作った皿うどんはもちろんおいしいに決まっていた。


 この間の焼きそばにしろ、この皿うどんにしろ、アズミは僕が麺類大好きだということを知っていて、だから作ってくれるのである。


 僕は喜びを噛みしめながら、皿うどんを食べた。


 感激のあまり、危うく泣きそうになっていたが、なんとかこらえた。


「うん、おいしくできてよかったよかった」


 今日は僕だけじゃなくてアズミも、僕の向かいの椅子に座って、自分の作った皿うどんを食べていた。


 ああ、本当にまるで……新婚夫婦の昼下がりみたいな気分だった……残念ながら僕とアズミが本当に『新婚夫婦』になる日は、おそらく永遠に来ないんだけれども……


「ごちそうさま」


「おいしかった? 優くん」


「うん、今日もすごくおいしかったよ。ありがとう」


「エヘヘヘヘ」


 僕が誉めたら、アズミは目を細めて笑ってくれる。


 それだけのことがすごく嬉しい……僕の言葉でアズミが喜んでくれることが、この上もなく、嬉しい。


「それにしてもビックリしたよねー、学校に男子が優くんひとりしかいないなんてー、うらやましいー」


「うらやましいって……」


「だって選び放題じゃん、カノジョ」


「そんな……僕はアズミと違って、そんな簡単にカノジョ作れそうにもないよ」


「そんなことないよ」


 アズミは突然、椅子から立ち上がり、僕の近くにやって来て、両手で僕のほっぺをむぎゅっとつかんだ。


「優くんはもっと自分に自信持った方がいいよ。せっかくいい顔してるんだから」


 そう言うアズミの顔は僕の目の前にあった。


 ちょっと唇を突き出せば、キスできてしまいそうなほどに近かった、もちろんそんなことしないけど。


 しないけど、でも……あの変な女子たちに囲まれていた時にはまったく感じなかった胸の高鳴りを、僕は激しく感じていた。


 心臓の鼓動が速すぎて、このまま死んでしまうんじゃないかと思った……アズミの吐息が僕の顔をくすぐる度に、僕は天国への階段を一歩ずつ登っている気分になった。


「そんなこと……」


「あるよ! 優くんが本気出せばカノジョどころか、二股、三股……」


「誰がかけるか二股なんか!」


 アズミに二股かけるような不誠実な男だと思われているのが悔しくて、僕はついつい大声をあげてしまった。


「アハハハハ、冗談だよ、優くんはそんな人じゃないもんね」


 アズミはようやく僕のほっぺから手を離し、顔も離した。


 やれやれ、これで死なずにすんだわ、と安堵したのも束の間……


「アズミはね、優くんには本当に幸せになってほしいって思ってるんだ」


 アズミは突然、僕のことを抱きしめてきた。


 女子特有の甘い香りが僕の鼻をつく、なんの匂いなのか具体的にはわからないが、すごくいい匂いだ。


 そして何より……


「アズミにカノジョができたことを気持ち悪がったりせず、素直に祝福してくれた優くんのこと、アズミ大好きだから。大好きな人には幸せになってほしいんだよ」


 アズミのFカップおっぱいが僕の胸を圧迫している。


 なんという、名状しがたい感触なのか……


「だからアズミにできることがあったらなんでも言ってね、優くんが幸せになるためだったら、アズミなんでもしてあげるよ」


 じゃあ僕と付き合ってくれよ……なんて言う気力が僕にあるわけもなかった。


 なかったけれど、腹の底では思っている、『これで僕のこと、恋愛的な意味で好きじゃないとか、付き合ってくれないとか、犯罪だと思う』って。


 萩原朔太郎はぎわらさくたろうじゃなくても、こう言っちゃうよ「女よ そのたはむれをやめよ」って……


 でも僕は子供の頃からずっと一緒にいるから知っている。


 葵アズミはこういう女だ。


 悪意とか裏表とか、そういうものはまったくない。


 アズミが心底、僕の幸せを願ってくれているのだということを、他ならぬ僕が一番知っている。


 鴎外おうがい先生の言葉を借りるなら「葵アズミがごとき良友は世にまた得がたかるべし」


 僕がこれから先、日本中、いや、世界中すべての女性と知り合えたとしても、こんなにも僕の幸せを願ってくれる女性には絶対に出会えないことだろう。


 それをレズビアンだからとか、僕と付き合ってくれないとか、そんな理由で邪険にしていいわけがないんだ。


 少なくとも、僕のことをうわべだけしか知らないくせに誉めてくる、あの変な女子たちと比べたら、アズミの方が何千倍何万倍もいいに決まっている。


 僕は太田豊太郎おおたとよたろうと違って、良友アズミのことをまったく憎んでいない。


 むしろ逆。


 今日、変な女子たちに囲まれて、疲れ切ったせいで、僕のアズミへの帰依きえはますます深まってしまった。


 葵アズミこそが僕の救いの神。


 神と付き合うだなんて、罰当たりなことはしなくていいんだよ。


 こうやって、仲の良い幼なじみとして、楽しく暮らしていけばいいじゃないか。


 いいんだよ……


 それでいいんだ!!


 僕はアズミの体のぬくもりを感じながら、自分の気持ちを納得させるのにご執心しゅうしんだった。


「それじゃあ優くん、またね」


「うん」


 アズミは食事と洗い物を終えると、自分の家に帰っていき、その後は何事も起こらない、普通の日だった。


 いろいろなことがあった入学式の日もようやく終わったのだけれども、ベッドの中の僕に、今日という一日を総括するだけの余裕はまったくなく、すぐに寝落ちてしまった。


 眠りは深く、夢を見ることもなかった。

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