第3話 水仙の泉


 ――ボッ、パァン!!


 耳元で乾いた音がして、私の横で三島みしま先生の顔が弾け飛ぶ。

 彼に肩を抱かれていた私は、その身体に引かれるように一緒に倒れこんでしまう。そして倒れると同時に視界に黒い渦が見えた。


 その渦は空中でグルグルと収縮していき、黒い薔薇の蕾のような塊になって地面に落ちた。そこから流れるように黒髪がふわりと伸びて、扇のように広がる。巻きついて閉じた華弁のようだったスカートのプリーツが広がり、それが人の形に咲いた。


 背筋がきれいに伸びて、手も足も細く、白い。

 長い艶やかな髪が揺れて落ち着くと、その彼女は私の方を見た。


 いつの間にか暮れて伸びていた校舎の影が辺りを覆っていて、空には薄化粧の青白い満月が覗く。私はその陰に浮かぶような白い肌、その闇に沈むような黒い髪を見ると、その生徒が昼休みに見た、あの森に佇んでいた人だと気付いた。


 彼女がいつからあの暗い森に居て、いつからその闇の中を覗いていたのかは分からない。しかし日が暮れるのを待ちその中から出てきた彼女の瞳は、まるで深淵を望むかのように大きく開き、黒かった。


 私はその彼女の顔をまじまじと見て、驚き息を飲む。

 彼女のその白い顔も、黒い瞳も髪も、神秘的な位に綺麗で人間離れしている。しかしその目の形、頬のライン、そして鼻筋も小鼻の膨らみも、私が毎朝鏡の奥に見ている物とまるで瓜二つなのだ。


 私は彼女の顔を見て、まるでドッペルゲンガーに出会いそのまま魂を抜かれてしまったのかのように、動くことができない。


 しかし私が驚いているからと言って、向こうの方はそうではなかった。彼女は手に持った黒い鞘の軍刀をカチャカチャと鳴らし近づくと、先ほど蹴り飛ばされ私の横に横たわっている三島へと手を伸ばす。


 彼女が長い制服の袖から白い手首を伸ばし彼の喉元へ近づけると、突然、昏倒したと思っていた彼の腕が伸び、その手首を掴んだ。


「なんだよ……酷いじゃないか? いきなり人の顔を蹴り飛ばすなんて」

「っ……!?」


 三島はそのまま手を引いて引き寄せようとしたが、彼女は素早く手首を返しすり抜ける。


 彼は顔面に黒い靴墨が付いて目や鼻から血を流していたが、それを手で拭うと元通りの顔がそこにはあった。確かに強く蹴り飛ばされ、足が浮き、地面へ倒れこんだはずだった。普通なら顔面や首の骨さえ危ういような、強い衝撃を受けたはずだったのに。


「……まったく。しかも、よりにもよってお前とはな」


 三島は手を着いて立ち上がろうとする。

 その人を一瞥いちべつし、どうやら何か因縁がある様な事を言っていたが、既に彼女はその場にいない。いつの間にか私たちの背後に回り込んでいたようで、フラフラと立ちあがろうとする彼の背を蹴ろうとし――しかしガッと、また彼の手に掴まれてしまった。


 その私に似た髪の長い生徒は素早く、そして強いようだが、三島の腕は今度こそそれをがっちりと捕えて離さない。いつのまにか、彼の腕は木の幹のように膨れ上がり、それどころか指の先には黒く鋭い爪が、腕には太く濃い体毛が生えていた。


「待ってろよ、夜。すぐにこの出来の悪い、お前の……このっ、クソッ暴れるなっ!!」


 彼は彼女を捉えたことで余裕の表情を見せ私に話しかけるが、すぐにその顔面へ彼女のもう片方の脚で蹴りが入れられる。しなやかな脚が鞭のように、余裕を見せる彼に襲いかかる。その足先は私には見えないほどに速かったが、ボッボッと風を含んだカーテンを叩くような音が聞こえ、スカートの揺れで大まかには見て取れた。


 三島は忌々しそうにそれをもう片腕で払うが、巧みに隙を突かれ先ほどのように捕える事は出来ない。


「いい加減にしろっ!」


 彼は怒りを露わに、掴んでいた彼女の右足を握りつぶし、肘を曲げて引き寄せる。

 爪が食い込み肉が裂ける音がして、手首を捻り彼女の骨を砕く。青白い彼女の肌から真っ赤な血が流れ、その部分から突き出た白い骨が見えた。


 だがしかし、彼女はそれで止まる事はなく、むしろ引き寄せられた反動と、彼の腕が曲げられた事を利用して肘の内側に強い蹴りを入れた。


 おそらく肘の腱を打たれたのだろう。ビクッと三島が身体を震わせ、肘を庇うように背を曲げる。

 そして彼女は身体を捻り、手を地面に付くと這うようにして森の方へ――


「そうはっ……させるかっ!!」


 すぐにそれに気付いた三島が、彼女を追いかけ脇腹に蹴りを入れる。

 彼女の身体がガクンと、くの字に曲がり空中に浮き上がった。長いスカートも髪もその衝撃で引き伸ばされ、その少し先の地面に水を吸った手ぬぐいのように叩きつけられた。


「このっ……お前ガッ! オ前ゴトキがっ……」


 すぐさま三島がそれを追い、力なく横たわる彼女を足蹴にし始める。


 校舎の影はますます長く濃くなり、黒ずくめの彼女が顔をうつ伏せて横たわると、輪郭をはっきりと捕える事が出来ない。そして、いつの間にか三島の体毛が濃くなり、その背も大きくずんぐりとしたものへと変わっていた。


「ハッハッハッ……マッテロよ、夜……すぐにオマエヲ、俺ノものニシテヤルから……」


 振り向いた三島の顔は、既に人間のものではなかった。

 目玉という形がはっきりと分かるほど目尻も目元も裂け、らんらんと輝く黄色い瞳が見える。鼻面が伸び、黒くなった先端が湿り気を帯びてヒクヒクと痙攣しているのが見て取れた。


 全身や顔までも濃い体毛に覆われ、何故か頭頂部の部分だけが染めたように黒く、他は灰や白、濃い黒の縮れた太い毛が斑に生えている。そして黒くなった皮膚の見える部分、目元や耳、唇の端などからは角の様な、樹木の枝の様な、細かな黒い突起が幾つも生えていた。


「ミロ……マタ俺ニサカラウ馬鹿ヲヒトリ、コワシテヤッタ……よる、オマエは俺ニ逆ラッタリシナイヨナ?」


 耳まで裂けた口を縁取っている、黒いヒダのような唇がクチャクチャと音を立てて開かれる。そしてその奥からはいかにも粘膜といったピンク色の口内と、赤い歯茎から薄黄色の牙が覗く。


 時々聞こえるハッハッという声は、彼が笑っているのか、その割けた口では自然とそういう呼吸になってしまうのか判断がつかない。しかしその奇妙な仕草は私の喉や身体を縮こまらせ、彼に感じる古くなった油のような、生温かい臭いを連想させた。


「ハッハッハッ……そうダヨナ、オ前ハ黙ッテ俺ニ従ウヨウナ、イイ娘ダモンナ? ソレニ比ベテコノ馬鹿トキタラ、ナンデ俺ニ勝テルナンテ思ッタンダロウナ……?」


 私が声も上げられず黙っていると、そう言って一人で受けてヒッヒッヒと引きつるように笑った。その手には哀れな彼女の白い脚が握られており、もう片脚はバレエの踊り子のようにぐったりと開かれ垂れている。


 彼女のショーツやスカートと一緒に捲れた白いスリップには、黄色がかったピンクの血尿が染みており、流れ出してもいた。そして露出した下腹部や腿には、腫れあがった紫の痣が幾つも出来ている。


 本当に何故、あんな化け物に戦いを挑んだのか。

 彼女も普通の人と比べて恐ろしく強かったが、あの三島と名乗っていた人外はそれ以上だった。あの先輩の示したように、彼に逆らうべきではなかったし、抵抗するべきでもない。


 この教師の悪い噂も聞いていたが、こんな文字通りに人を外れたことが出来るのなら、彼がなにを要求したとして、拒むことは出来ないだろうし、その意味もないのだろう。どうして私に彼が執着するのかはわからないが、もはや私には彼のしたいままに任せるしかないのだ。

 私によく似た彼女の姿は、どうする事も出来ない私の未来の姿そのものだろう。


 私はボーっと彼女を見て、自分の脳裏に湧きあがる感情が恐怖なのだと知った。



 ――だが、


「……お前は考えなしのアホだから、付け入る隙は幾らでも作れると思ったんだ」


 それは私によく似た声だけど、私ならば決して言わないような台詞せいふだった。

 みると、片脚を持ち上げられていた彼女が顎を引いて三島を見上げている。


 彼の吐いた「ハッ」とは、彼女の皮肉に対する笑いだったのか、驚きの声だったのか、或いは単に息だったのか。


 三島の見開かれギョロっとした眼に、彼女が手に握った砂を叩きつける。そして持っていた軍刀の鞘で、またもや脚を握っていた彼の肘の内側を強く打つ。


 そうして作った一瞬の隙をついて、垂れた脚を空中で蹴ってその反動と共に起き上がり、その黒い髪を背になびかせながら、クルっと彼の周りを八の字に駆け、黒貂くろてんのようにすり抜けて森へと逃げ込んでしまった。


「クソッ、クソッ……!!」


 三島は腕をやみくもに振るい、もう一方の腕で目を拭い瞬きを繰り返して振り向くが、彼女は既に姿を消した後だった。


「ハッ! 人ヲ散々バカニシテ、ヤル事ガ子供ジミタ、カクレンボカ? ソウヤッテ時間ヲ稼イデ、傷ガ癒エルノヲ待ツ気ダロ?」

「――そこまで分かっているのなら、数を数えて大人しく待っていろ」


 躍起やっきになって探そうとする三島を嘲笑い、何処かから私と同じあの声がする。

 しばらく彼も周りを警戒して探っていたが、本当にあれだけの傷が治るのを待つ気なのか、彼女は森の中から出てくる様子が無い。普通の人間だったなら、それこそ半年くらいは掛かりそうだったけど。


 もしかしたら彼女は、逃げ去ったのではないのだろうか。

 しかし、さらにしばらく、怒りで興奮状態の三島が地面を蹴ったり唸ったり、隙を見せ始めると、木々の奥から素早く何かが飛び出してきた。


「馬鹿メっ!!」


 丁度背後からきたそれを、三島はタイミングを読んで迎え撃つ。

 彼の鉤爪の並んだ鋭い貫手が、飛んでくる相手の顔面を捕え貫くが――違う!?


 彼は制服を着たそれを地面に叩きつけ、その頭をトマトのように粉砕した。しかし引き抜いた彼の拳に絡まっていたのはベットリと着いた赤い血糊と、濃い茶髪のボサボサの髪の毛。

 そしてその瞬間、彼の後ろから長く黒い髪の少女が、その膝へ飛び蹴りを入れた。


「グガッ!?」


 三島はその衝撃に膝を折り、地に付いてしまう。

 すかさず彼女がその腕を捻り、顎下へ手を入れて引き付け、背筋をエビ反らせる。さらに彼女は容赦なく、踵を上げて膝をつく彼の足首を踏みつけて、バツンっと腱の切れる音が響いた。その後も何度も蹴りを入れ、暴れる彼の伸びた顎を抑えつけ、その姿勢をコントロールする。


 くぐもった声で「放せ」と喚く彼を無視して、彼女は周期的に彼の足首を踏みつけながら、羽交い締めた右手でブチブチと首筋の毛を毟っていく。いつの間にか治っていた彼女の脚には未だ生々しい血の跡が残っており、その足で何度も彼の足首を踏んでいると、またバツンと腱の切れる音が繰替くりかえされる。


「グゾっ……何ヲスル気ダぁ!?」

「私が何者か、お前は知っているんだろ?」


 唸りながら彼が尋ねると、涼しげにその人は答えた。 

 彼女は毛をむしり取って脈打つ血管の見える彼の首を露出させると、その薄い唇を笑うように大きく開いて、白く長い牙を剥いた。


「ヤメろォオオオおおオオぉ!!」


 叫び続ける彼の声に、次第にゴボゴボと泡の立つような音が混じり始める。逃げ出そうともがく彼の喉に噛み付いて、彼女がその血を飲み始めたのだった。


 先ほどまでは力で圧倒していた彼も、今や彼女の拘束を抜けだすことは出来ない。首と肩はがっちりと固められ、足の腱は断たれている。いくら腰をもがくように動かしても、最早どうにもならなかった。

 折れてしまいそうなほどに背骨を反らせ、しかし自分の体重の半分もなさそうな彼女の抱擁を、彼は拒絶する事が出来なかった。


「夜……夜、助けテクれ。お前を庇っテやったダロ? お前をイジメるアイツ等から、助けてヤルッて約束シただろ? だから俺を助けテクレ……俺は、俺ハお前ノ……ガッ、アッ、あっ、あっ、あっ……!」


 彼は私に助けを求め、しかし私が黙って見ていると、次第にひどく苦しみ始める。そして眼の周りや口の端、耳の付け根に生えていた、あの樹木の枝のような黒い突起が伸び始めた。まるで黒い焔のように立ち上り、彼に噛みつく彼女も飲みこんで束なり、一本の太い樹木のように成長を始めた。


 だがそれは彼本来の身長の高さくらいまで伸びると、急に成長を止め固まってしまった。


 そうして、どれほど時が経っただろうか。

 永いようにも、一瞬のようにも思えるほど、それは静止していた。


 突然ボロっと灰の塊のように崩れると、中から人間の姿をした三島教諭が倒れてくる。完全に血の気が無くなって、黄色い蜜蝋のような肌は生きた人間のそれでは無かった。髪こそ黒々としているものの、頬の張りや深く刻まれた皺、生前の彼と比べて驚くほどに老けて見える。それは彼女に血を吸われたからなのか、化け物としての力を失った彼本来の姿なのだろうか。


 彼がその身を晒し倒れると、その後ろの灰の塊が中から崩れ彼女が現われる。艶やかな髪も、滑らかな肌も、左右に振って手で払うと、すっかりその灰が落ちてしまった。


 出てきた瞬間は人形の様だと思ったその顔も、しかし彼女がフーッフーッと息を吐くと次第に怒りを溜めたように、険しいものへと変わって行く。


「くそっ……このっ、このっケダモノがっぁ!! うぁっ……うわあああっっ!!」


 突然、彼女は横たわる三島の亡骸なきがらを掴むと、恐ろしい力で激しく振りまわし地面に何度も叩きつけはじめる。すでに戦いは終わったと思っていたのに、半狂乱になって暴れはじめる彼女を見て、私はさらに恐怖して顔が引きつるのを感じた。


 手足がバラバラに動き、壊れたマリオネットのように三島の亡骸は振り回される。彼女はその遺体に「呪われたケダモノめ」「うす汚い人でなし」と呪詛じゅそを吐きかけ、乱暴に、何度も何度も地面に叩きつける。


 次第に三島の手足はボロボロに擦り切れていき、薄いピンクの筋肉の断面や、白い砕けた骨が覗く。そしてついに耐えられなくなった彼の背広が縫い目に沿って引き裂け、彼の身体が校舎の壁に叩きつけられた。


「ヒッ!!」


 先ほどの闘いでは現実味が無さ過ぎて感じていなかったが、人の形をしたそれが煉瓦レンガの張られた壁を打ち手足を広げて跳ねるのを見ると、思わず声が出てしまった。その中には確かに命というものが入っていて、先ほどまでは自分の欲望や意志を持ち、生きた人間として活動していたのだ。


 生前、彼の手は私を何度も撫でまわし、私に尊大に語りかけ、彼は私の身体を自らのものにしようとしていた。そして今、ただの肉の塊として横たわるそれを見ていると、私は胃が捩じり上げられるような吐き気を感じ、胸の奥が苦しくなる。


 しかし彼女はそれで大人しくなることも無く、また彼を追いかけて飛びかかった。

 何度も何度もその身体を踏みつけ、蹴り上げ、鈍い音を辺りに響かせる。彼の髪を掴んでその頭を煉瓦の壁に押し付けると、力一杯そこにこすりつけ始めた。


 彼の頭が壁にめり込んだ様にすり減り、熱で柔らかくなった薄ピンクのクレヨンを塗ったように壁の色が変わり、パタパタと頭皮の付いた皮がめくれ上がり始める。そして彼女は大きく振り被り、勢いよく彼の骸を壁に叩きつぶした。


「あっ……あっ、あっ、あぁぁあああ! うわぁぁあああ! ぁぁぁああっ!」


 その時一瞬見えたMRIの画像のような、彼の血の気を失った灰色の脳の断面を見ると、私はその画が脳に焼きついて、ずっと恐怖の象徴のように記憶されてしまうような気がして、悲鳴を上げた。


 半狂乱に声を上げ、頭の中を真っ白に塗り潰そうと必死になる。そのフラクタル図形のように不可思議な、或いはロールシャッハテストのインクの染みのように対称的な模様が、私たちの意識を生む魂の座だと理解してしまうと、私は人間という存在のゲシュタルトを完全に崩壊させられてしまう気がした。

 私は自分が壊れて、完全に正気を失ってしまう気がしたのだった。


「あーっ! あぁあああーっ!! あーっ、あっ、あっ……うっ、ぅうっ……!」


 その場にうずくまって、息の続く限り声を上げた。

 今までずっと呼吸は浅くなっていたようで、すぐに酸欠になって目に星が浮かぶ。だけど、そのまま完全に無防備な状態で、もしも彼女の気に障ってこの場で殺されてしまっても、それは救いのように思えたのだ。


 しかし彼女は私を殺すことはなく、しばらく泣きやむのを待って話しかけてきた。


「……なぜ、こんなところに居る?」

「なっ、なんでって……だって、わたしっ。私、あの人に呼ばれて」


 私は意識が朦朧もうろうとしていたが、聞かれた通り答え、三島に殺されおとりに利用されたあの茶髪の先輩へ指をさした。


「ちがう。そんな事ではない! なぜ前は、この学園にいるのかと聞いたんだ」

「それは、私……だって、この学校に居る母の知り合いが、学費を出してくれるって……推薦して、くれて……」


 私の母は死んでいる。父親もどこの誰かは知らない。

 しかし母も通っていたというこの学校に、どうやら生前の母の知り合いがいたようで、私はその人の好意によって通わせてもらっていた。預けられていた親戚の家でもあまり相手にされず、寮に入れて生活費も出してくれるという申し出は、私にとって願っても無い事だった。


「そんな理由でか? 悪い事は言わんが、奨学金でも、バイトでもして他の学校へ行け。親や親戚に頼るのだって恥かしい事ではないし、働くのだって無理ではないはずだ」


 どうして突然、そんな話しをするのだろう……

 奨学金はどうやら勝手に申し込まれ、親戚のなにかに使われてしまっていた。私にはその返済だってあるのに、このまま中卒で資格もなしに、まともな暮らしの出来る仕事は望めないはずだった。


 たとえこの学校を出たからと言って、余裕のある仕事に付けるなど楽観視しすぎているくらいなのに。


 だけど彼女は私の境遇もあまり理解してはいないようで、言いたい事を言ってくれる。


 私には顔の瓜二つの彼女が自らの何なのかはわからないし、どうして助けてくれたのかもわからない。なのに突然親身になったかのように、女性に生まれることの虚しさやこの世の罪について説いたり、シスターになって出家してでも、この学園を出ていくように私を説得しようと試みる。


「――すくなくとも、こんな所に居るのではまともな人間では居られない」


 彼女は苛々を抑え、唸るような声で言い放つ。おもむろに三島の所に歩いていって、その遺体から何かを漁りはじめる。

 彼の潰れた頭の中へ手を差し入れて、何かを取りだそうとしているようだった。


「見ろ。これがこの学園に蔓延はびこっている病原だ……」


 そう言って彼女が手に握っていたのは、雨の日に出てくる大きなミミズのような、もっと頭や尾が細く尖ったような、巨大な線虫のようなイキモノだった。


 その虫は透明で薄い皮膚の上から、筋肉や内蔵、青い血管が見えて脈打っている。彼女は親指と人差し指でそれの頭を抑えて持っているけれど、その尻尾は螺旋のように捻じれて振り回され、滅茶苦茶に暴れてのたうっている。


 おまけに彼女の細い手首にヒタヒタと、針のように伸びた尻尾の先で、突き刺すように何度も触れていた。


「アハハッ……何それ?」


 あのような寄生虫が私にベタベタと抱きつき触れていた三島教諭に付いていたのなら、恐ろしいグロテスクの極致だが、眼や喉を泣き腫らし、麻酔に酔ったような私の頭では最早面白おかしな冗談にしか思えない。


 私は彼女に、笑いながら聞き返してしまった。


「……これが、あの人狼化の原因だ。コイツが脳に寄生して扁桃体へんとうたいに取り付くと、特殊なホルモンを出して宿主を凶暴化させる。それが常習化すると次第に身体がそのホルモンの影響を受けて、アイツみたいに狼人間に変身するようになるんだ」


 それは、いくらなんでも馬鹿馬鹿しいつくり話だった。

 ホルモンのバランスが崩れたからって、人間はあんなふうにはなりはしない。だったら、脳や甲状腺の異常、或いは妊娠や睡眠不足で、猫耳でも生えたりするのだろうか。


 SFの漫画や映画好きな男の子だったら、本気で信じてしまいそうな話しかもしれない。だけど、毎月アソコから血を出して、苛々や陰鬱な気分を味わっている私たちが、とても信じられるような類のものでは無い。


 しかし彼女は相変わらず、瞳孔の開いた死者のような黒い瞳で私を見つめ、その表情は真剣そのものだった。


「そうでなくても、この学園の連中は頭がおかしい。例外なく、皆気が狂っている」


 それって、私や貴女も含まれているの?

 確かに今の彼女はとても正常とは思えないし、自分だって最早まともな頭をしている自信はない。


 彼女は私と同じ顔をして、私が普段している様な無表情で、その手に持っている寄生虫をパクっと口に入れる。そして奥歯でその頭を噛みつぶし、激しくのたうち回る尻尾で頬や鼻先をペタペタと叩かれながら、ツルンとその虫をパスタのように飲みこんでしまった。

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