破滅(Destruction)

 眩しいほどの純白の月光が世界を飲み込み,銀髪の少女と黒髪の少年が高層ビルの屋上から静かに街を眺めていた。


 蒸し暑い空気がビルの屋上で渦を巻き,月光を浴びて輝いた透明感のある銀髪が月夜になびいた。その美しさは神秘的で,見た者によっては天使か女神と勘違いしてもおかしくなかった。


 銀髪の少女は黒髪の少年に向かって愛らしく微笑むと小さな手を引き,屋上から飛び降りた。少女のスカートが大きく膨らみ,捲れ上がって細い脚が露わになると,その妖艶さが増した。



「仁,行くよ」



 脚がビルから離れた瞬間,仁はきつく目を閉じ歯を食いしばったままなにも言わず,汗ばんだ震える手で彼女の手をしっかり握りしめた。


 高層ビルの屋上から一気に落下していく,もはや自分にはなにもできない状況に少女は笑顔でまっすぐ前を見ていた。


 落下速度が増してゆくと,ビル風の影響で突然身体がビルから離れていった。それと同時に少女の背中に真っ黒な大きな翼が生え,速度が安定していくのが感じられた。


 大きな翼がゆっくりと羽ばたくと,速度が落ち,ゆっくりと地面へと降りていった。少女の背中から翼が散り散りになって消えていくと,空いっぱいに小さな蝙蝠が飛び交っていた。



「あなたも使役させたらいい。あの子たちはどこにでもいるから」



 蝙蝠に身体を守られていた少女よりも,仁にとってはか細い腕の少女に身を任せていたことのほうが不安が大きかった。



「高いところから飛び降りるのは俺のスタイルじゃないから,まだいいかな……。でも,今度やり方を教えて……マジでヤバイときにいまので逃げるから」



「そう……空を飛ぶとか,魔法使いっぽくてかっこいいのに……」



「犬と猫以外,動物とかかわったことないから,俺としては鳥とか蝙蝠に命を預けるほどあいつらを信用できないんで」



「まだ使役させたことがないから不安になるのよ。あの子たちは命令なら自らの命だって差し出すから。それが魔術師に使役されるってことよ」



「なるほどね……じゃあ,益々俺好みじゃないやつだ」



 少女は前を向いたまま仁には見せないよう,不敵な笑みを隠した。



「ほら,行くわよ。教団の本部,案内しなさい」



「はいはい。そんなに焦らなくても,あいつら古い地下通路を使ってるから入口さえ知っていればすぐだよ。かなりカビ臭い高温多湿な通路だけど大丈夫? 変な蟲とかいるよ?」



「なに,変な蟲って? あんた男なんだから,そこはなんとかしなさいよ。ほら,火炎放射みたいな技使って」



「そんな技一度も使ったことないし,そんなんどうやってやんの?」



「できないの? お腹に燃料入れて口からボォォォォみたいなやつ」



「なんかの漫画で見たことあるけど,俺には無理かな……」



「つまんないの。かっこいいのに」



 人気のない深夜の商業施設の間を抜けると,大きな公園のすぐ脇にたる古い図書館へと出た。明治時代からあると言われる図書館は石造りの重厚な建物で,その裏に立ち入り禁止の看板が立てられた扉があった。


 厳重な鍵がかけられた重たい扉は人を寄せ付けず,最後に開けられたのがいつなのかもわからないほどだった。


 二人が通路を抜け,扉の前に出ると看板の前で立ち止まった。



「ここが入口?」



「入口の一つだと思うよ」



「開くの?」



「開けられるかどうかは見てみないと」



「開けられないんじゃない?」



「はいはい,ちょっと見てみますね〜」



 スマホを取り出しライトで照らしながら鍵穴を覗き込むと,角度を変えながら何度か穴の中を確認した。中腰で鍵穴を覗き込んでいる間,右眼が異常に動き,まるで鍵穴の中を連写しているかのような勢いで瞬きを繰り返した。



「ふぅ」



「どう?」



「めっちゃ,眼が疲れた」



「そんなこと聞いてない」



 中腰のままポケットから安全ピンを取り出すと,針を伸ばし鍵穴に挿し込んだ。挿れた瞬間にカチリと音を立てて鍵が開くと,錆びた鍵が金属音を立てて床に落ちた。



「こんなシンプルな鍵,いまどき使わないってか,こんなの防犯にもならないよ」

 


 二人が扉を開けて先に進むと,奥にさらに古いドアがあった。黒い磨き込まれたドアは明らかに管理されており,それが重要な場所だというのは一目でわかった。



「こっちが本番じゃない?」



「そっすね……」



 両手の親指でこめかみを強くマッサージすると首を鳴らし両手首をぐるぐると回してから二、三度屈伸をしてから身体を伸ばした。



「準備万端ね。で? 今度も開けられるわよね?」



「ああ。任せろ」



 大きく深呼吸をするとドアノブにそっと手をかけてゆっくりと力を込めた。じりじりと力を入れていくと,ドアノブがカチッと音を立ててゆっくりと回った。


 薄らとドアが開き,奥から湿気とともに生臭い風が漂ってきた。すぐに不快な腐敗臭と糞尿の臭いが混じり合い,二人にまとわりついた。



「あら……鍵かかってないのね?」



「鍵が不要ってことだよ。こんなところ,普通の人間が足を踏み入れたら生きて戻れないから。そもそも,こんな臭い場所,普通の感覚をもってたら即引き返すけどね。まぁ,奥には中に入ってきて欲しいって思ってるやつがいるかも知れないけどね」



「やっかいなのが中にいるかもってことね」



 微かに開いたドアの向こうで蟲が蠢き,僅かな光を嫌って奥へと姿を消していった。



「教団の地下通路だからね。あちこちにトラップもあるだろうし,なによりこの悪臭と湿度の中に入りたいやつなんていないっしょ」



「確かに,靴が汚れるわね」



「ああ……いつも靴を磨き込んでるやつらが使うような通路じゃないってことだ。この入口から入れば黒法衣とは会う確率が少ない」



「そうね。じゃあ,行きましょうか」



「じゃあ,スマホのライト点けてついてきて」



「あなたのその右眼,こうゆうときに便利よね。全部見えるんでしょ?」



「見えるけど,めっちゃ疲れる。あと,気持ちの悪い蟲がいっぱいいる」



 蒸し暑い地下通路は下水道のような悪臭と苔のようなもので覆われていて,一歩歩くごとに足を滑らせそうになった。



「最悪……靴も汚れるし,髪にこの臭いがつく……。なんなのこの気持ちの悪いぬるぬるしたやつ……。なんで口から炎を出せないのよ。ぬるぬるしたのを全部焼き払ってくれるのが男の子の役目じゃないの? ただ前を歩いてるだけじゃない……」



「さっきから,ぶつぶつ五月蝿うるさいな。文句があるなら,自分が炎出したらいいじゃん。オリジンなんだし,そんなこともできないの?」



「できるわけないでしょ! こんな可愛らしい女の子が口から炎って,どんな化け物よ!」



「十分すぎるほど化け物じゃん。人の手を引いて高層ビルの屋上から飛び降りたり,背中に大きな羽根生やしたり……」



「男のくせにぐちぐちぐちぐち面倒臭いな……そんなだからモテない人生送ってんのよ」



「ふっ……いまは超イケメンですけど!」



「そもそもイケメンなんてクズが基本よ。あんたは中身がオッさんだから外見がイケメンでも女の子にはモテないのよ」



「そこはしょうがないじゃん……六百年は生きてるんだもん……」



「キモ……」



「自分なんか,数千年なくせに……」



「あれ? もしかして女の子の年齢を聞いたり話したらいけないって以前どこかで習ったことないのかな?」



 一瞬で空気が変わったことを察知し,言ってはいけないことを口にした自分に後悔し,恥ずかしくなった。



「え……? あ……ごめんなさい……」



「次に年齢のことを口にしたら,半殺しだからね」



「はい……すみませんでした……」



 蒸し暑い通路の中を進んでいるうちに突然肌にまとわりつく空気が微かに変化した。相変わらず異臭は酷く,息をしているも辛かった。



「変わったわね……」



「変わった……」



 これまでの緩んだ空気が一変し,二人とも警戒しながら通路を進んだ。さっきまでの湿った通路を抜けると,乾いて埃っぽい,カビ臭さの増した通路へと出た。


 仁は耳を澄ませ風の音を聞いた。地下通路のなかは微かな空気の流れはあるものの,すべてが澱み,塵一つにしても何年もその場にあるような世界だった。



「こっちから空気の動きを感じる。この不規則な空気の乱れかたは,複数の人間がいるときの特徴だから,おそらく本部もしくは黒法衣の連中が集まる場所があるはずだ」



「そう……本部かどうかは定かじゃないのね……」



「まぁ,久しぶりだからね。入口が違うと本部への行き方も複雑になるよ」



「で……何人くらいいる印象?」



「五から七人……それ以上……建物の中にいたらわからない」



「十分よ。一人二人じゃないってだけわかれば」



「それと,すでにうちらの行動がどこかにバレている可能性がある。さっきから無数の視線というか小さな意識を向けられている」



「そう……」



 二人は地下の闇に紛れるように気配を消したまま,ゆっくりと人がいる方向へと進んだ。自分たちの足跡がしっかりと塵の上に残されていくのを気にしながら,トラップがないか細心の注意を払った。


 真っ暗な地下通路の先にぼんやりと弱々しく灯る光が目に入った。灯りの周りには蟲が集まり,時折りパチンと音を立てて床に落ちた。


 おそらくこの暗闇だからあの弱々しさでちょうどよいのだろうと思わせる灯りの下に,静かに動く何人かの人影が見えた。



「いた……まだ数は確定できる距離じゃないから,もう少し近づいてみないと」



「そうね……」



 音もなく人影に近づいて行くと,相手の表情がわかるところまで距離を詰めた。黒法衣だがあどけなさが残る少年たちが,緊張した面持ちで大切そうに聖書を両手で抱き抱えていた。



「どう? 何人いる?」



「目視で三人,視えないがそのすぐ近くに二人,ドアの向こうに四人,取り敢えず計九人」



 仁の右眼が激しく動き,空間のすべてを視ようと瞳孔が閉じたり開いたりを繰り返した。



「あと……建物の奥に二人,全部で十一人いる」



「なるほど,本部ではなさそうね」



「おそらく本部から少し離れたところにある検問所かと。随分と前に何度か黒法衣の格好をした不審者が突然本部に現れることがあってから,主要な地下通路にはあの規模の検問所ができたんで」



「それって,あなたのせいね……?」



「一度もバレなかったけどね! それにしても人数が多いのが気になる。以前ならあの規模の検問所なら大人一人,少年二人ってとこだったけど」



「なにかあったのか,それとも人員配備がいまはそうなっているのか……。どっちにしろ,あなたが来た時とは違うってことね」



「いや……なにかあった……うん……うん,なにかあったみたい。うん……あそこにいる連中,全員異常なほど緊張している。それに恐怖と不安で押し潰されそうになっている,それも有り得ないレベルで」



「地下通路で警戒してるってことは,侵入者がいるってこと?」



「そこまではわからない。ただ,やたらとお互いの背中や脚元を確認し合っている」



「背中……?」



「そう,背中。お互いの肩や背中を叩いたりして,なんか汚れとかゴミを取ってるみたいな感じ」



「よくわからないけど,なにか意味がありそうね。取り敢えず,そこの黒法衣,全員殺っとく?」



「取り敢えず?」



「逆に中途半端に手を出す意味ある? 黒法衣は殺るなら殺らないと,こっちが殺られるわよ? で,仁。メインは,あなたに任せちゃっていい?」



「いいよ」



 少女はゆっくりと深呼吸すると,足元を確認した。



「仁,ここは肉弾戦でいって。能力は使わないでね」



「肉弾戦かぁ……本当は嫌なんだけど,この大量の視線を感じてると確かにそんな気分になるね。うちらに向けられた恐ろしく小さな意識を前に,本能が能力を見せるなって警告している」



「そう……肉弾戦でお願いね。能力は使っちゃダメよ」



 少女は微笑むと同時に,瞬間移動したかのように一瞬で移動し,建物の前に現れた。か細い脚が音もなく地面を蹴り,埃が舞い上がる前に建物の外にいる三人の前で愛らしい笑顔をみせながらスカートの端を両手で摘んでみせた。


 すべてがスローモーションになったかのようにスカートま膨らませながら三人の中心で回転した。銀髪が僅かな光を浴びて輝き,伸びきったつま先がスカートの中から現れ,愛らしい靴の先に小さく光るやいばが白い線を描いた。


 一瞬の出来事だったが,まだ幼さの残る三人の黒法衣は反射的に聖書を胸の前に掲げていた。しかし少女のつま先はその上を滑るように流れ,靴先から飛び出した小さな刃が三人の首を綺麗に喉元から食道,気管まで斬り裂き,ほぼ首の皮一枚を残して斬り落とした。


 衝撃を受けて三つの首が勢いよく背中のほうへ倒れると,膝をつくようにして崩れ落ち,斬り裂かれた首から噴水のように血が吹き出した。



「なんだよ? たったいま,俺に任せるとか言っといて」



 血が吹き出し天井まで届くと,あたり一面が赤黒く染まり,鉄の臭いが充満した。その物音に気づいた二人が慌てて通路に出てくると,少女は銀色の艶やかな髪の毛を振り乱し,再び回転しながらしなやかな細い脚で弧を描いた。


 二人は警戒して最初から聖書を顔の位置に構えていたが,真っ白な刃が低く空を斬り,次の瞬間に二人の腹部から大量の腸が飛び出していた。



「え? な……なに……? どうなってるの?」



 自分たちが斬られたことに気づかず,手に持った聖書と腹部から飛び出す腸を見て混乱した。しかしすぐに自分たちの腸があるべき場所にないことを察し,自らの死に直面して恐怖と死にたくないという気持ちに混乱し,聖書を抱き抱え泣き喚いた。



「え? ちょっ……ちょっと,なに?」



「まって……まって……こんなの聞いてない……」



「…………」



 少年たちは次の言葉が出ないまま条件反射で腹部を聖書で押さえたが,聖書に血を吸い取られるばかりで二人ともすぐに意識を失った。



「はい。まずは私担当分の五人。残りは六人ね」



 持ち主を失った五冊の聖書がページを開いたまま床に落ち,かつての持ち主たちの身体がら溢れ出す血や腸を吸い込んでいった。血が吸い込まれていくたびに,白いページに読めないほどの細かい文字が浮き出していった。


 細かい文字はその血の主人あるじの一生が綴られ,それが書き終えられたとき,聖書自体の能力が僅かに増した。


 聖書が床に落ち人間の身体が倒れる音を聞き,建物の中にいた四人が異変に気づいて警戒しながら四方に広がり通路の様子を伺った。



「仁! もう面倒臭い! 残りはやっぱりあなたがやりなさい! あなたがくれたこの刃を仕込んだ靴,ちょっと足痛くなるし,なんか飽きた!」



「マジか! ここで俺の名前を呼びやがった! これでもう皆殺ししかないじゃん! 俺が人間殺しを嫌いなの知っててやってんな!?」



「狭いし暗い。蟲もキモい。それに臭い。ここで戦うの気分悪い。あとはやって」



「はいはい。じゃあ,残りは六人ね。 俺もちょっとだけ能力使わせてもらうよ」



 眼を閉じ右手で右眼を覆うとぼそぼそと呪文を唱え,ゆっくりと手を離し大きく見開いた。


 その瞬間,地下通路と目の前の建物すべてが真っ赫な炎に覆い尽くされ,人の腕の形をした炎が壁や天井を這い回り建物の中に隠れていた四人を見つけると一斉に燃やした。



「なんだ!? なんだ,この炎は!?」



 真っ赫に燃え上がる自分たちの身体を必死に叩きながら,四人が通路へと飛び出してきた。全員片手に聖書を持ち,法衣をばたばたさせてなんとか火を消そうとしたが,目の前の仁を見てすぐに戦闘態勢に入った。



「誰だ,お前らは? この炎の原因はお前らか?」



「それは魔女裁判の炎だよ。お前たち教団によって苦しめられた者たちの怒りと憎しみ,消えることのないいまわしが練り込まれた炎だ」



 四人とも聖書からチェーンを垂らし,いますぐにでも攻撃しようと体勢を立てなおそうとしたが,脚元の炎は消えることなく燃え盛り脚を焦がした。



「邪悪な魔術師どもめ……地獄の業火を操るとは……」



 四本のチェーンが仁を目掛けて伸びようとしたが,能力を失い途中で床に落ちると,聖書を持つ手も真っ白な灰になっていた。



「仁,ここにある悪魔の経典,全部焼き尽くしてね」



「ああ……了解」



 炎がさらに燃え上がり,聖書を包み込むとぱらぱらとページが捲れながらゆっくりと端から燃えはじめた。


 ページが焼かれる度に悲鳴や嘆きが聖書から漏れ出し,それが解放なのか苦痛なのかはわからなかったが,聖書に記された人間や魔術師の数によってその声も燃え上がる炎と煙の色まで違った。


 聖書が白く灰になっていくと,銀製の飾りやチェーンが残ったが,それすら変形するほど仁の炎の温度は高かった。



「残り二人ね。全部任せたわよ」



「ああ。それにしても,あれで隠れているつもりなのか?」



 建物の奥で音がし,他の少年たちとは違う明らかに年配の二人組が離れたところから姿を現すと,仁を挟み込むようにして無言でチェーンを放った。


 チェーンには悲鳴にも似た音をたてながら仁を狙い済まして真っ直ぐ伸びた。先端には黒い炎がまとわりつき,炎の中で悶え苦しむ人の表情が現れては消えた。


 筋肉質の大柄の男は低く速いチェーン捌きを見せ,片耳に派手なピアスをつけた中肉中背の男はゆっくりと大きなチェーン捌きで対照的な動きをした。



「あのピアスは……。仁,気をつけて!」



 不規則に動く二本のチェーンが唸るように攻撃してくる度に黒い炎が燃え上がり大きくなっていった。



「罪深いチェーンだな。一体,どれだけの人の血を吸わせた?」



 チェーンが仁の前で交差すると,勢いをつけて絡み合い,二本の軌道がいきなり変化した。やや長いほうはゆっくり動き,短いほうは勢いよく仁を狙って鋭い軌道で向かってきた。


 激しく交差する度に黒い炎が燃え上がりお互いを絡めることなく,また潤滑油のようにそれぞれの動きに変化をつけた。


 不規則なチェーンはかろうじて避けられることができたが,スピードと軌道の変化が変わる度に避ける難易度も上がっていった。



「くそ面倒臭い攻撃だな。やっぱ若い奴らとは扱い方が全然違うな。これだけ複雑に絡み合っても滑らかに捌きやがる。しかもその黒い炎はやっかいだ」



 ようやく動きに眼が慣れたと感じた瞬間,二本のチェーンが一瞬で引き戻された。黒法衣の男たちは肩で息をしながらチェーンを構え,仁との距離を再びとった。



「ふう……まさか一度も当てることができないとは,予想以上の動きだな。もしかしてお前たち,オリジナルか?」



「ほぉ……戦いの最中にお喋りする余裕があるのか。やっぱりベテランともなると死ぬかもしれないってのに,やけに余裕があるんだな」



「そこはお互い様だろ。そっちだってやたらと話しかけてくる,見た目だけはやけに若い,学生カップルみたいなコンビで違和感し……か……」



 ピアスの黒法衣の言葉が終わりきる前に少女の靴が男の顎を蹴り上げた。刃が顎の下から刺さった瞬間,開いた口の中に刃が現れた。



「……な……い……?」



 小さな呼吸音とともに全身を高速回転させて顎の下から刃を激しく移動させ,顔を面のように斬り離した。


 仁ですら視えないレベルの高速移動と残酷な蹴りは,誰にも防ぎようがなかったが,子供扱いされて突然攻撃した少女に対して,驚きつつも苦笑するしかなかった。



「誰が学生カップルですって? 仁はともかく私を子供扱いしたことを後悔しなさい!」



 斬り落とされた顔が床に落ち天井を見ていたが,少女は気が済まないのかその顔に説教を続けた。



「最後に見る光景が私の美しくしなやかな脚ってことで,子供じゃないことを理解しなさい!」



 顔のない身体がゆっくりと崩れ落ちて聖書に覆い被さった。心臓は微かに動いていたが,ゆっくりと静かに,男の終わりをカウントダウンした。


 もう一人の黒法衣は一瞬の出来事に驚きつつも,素早くチェーンを収め,聖書を顔の高さに構えてぶつぶつと経を唱えた。



「ドゥルジ・ナスの名において,お前たち二人にいにしえの忌まわしき記憶の断片を見せてやろう。本来なら,そこに横たわる男が得意とする技だがな」



 男は瞬時に自分には勝ち目がないことを悟り,聖書を高く掲げてさっきとは明らかに雰囲気の違う祈りを捧げた。抑揚のない声は聞き取れず,ぼそぼそと口の中で言葉を呟いているようだった。


 しばらくすると頭上の聖書からチェーンが垂れ下がり,男の頭や肩に絡みつき,ゆっくりと男の顔を覆った。チェーンから出る黒い炎が耳や鼻,口から身体の中に入っていくのが視えたが,男は苦しそうな呻き声をあげながらそのまま炎を受け入れた。



「仁,あなた,あの男がなにをしてるかわかる?」



「さぁ……初めて視る。俺のこの右眼でも既に男の顔は視えない……なんて。こんな経験はいままでにない。なんかの術みたいなやつか? なぁ,それにしても,あんなに時間かかってるのを黙って視ているだけでいいのか?」



「その右眼でよく視ておきなさい。まさか,この現代であの技を使うやつがいるとは思ってもみなかった。かつて壊滅の女王(Destruction)が好んだことから,破滅という名がついた古の大技よ。そこいらの魔術師だったら即死レベルだけど,私とあなたならなんとかなる。とにかく避け続けるのよ」



「壊滅? そんなヤバイのを黙って視てていいの? 準備中な感じのいま殺っちゃったほうがいいんじゃね?」



「破滅の魔女がいないなら問題ない! 対個人に使うには,ひどく不恰好で非効率的だから実際にやる黒法衣はいなくなったの。壊滅というだけあって広範囲での破壊力は抜群なんだけど,私たち相手に仕掛ける技じゃないわ」



 チェーンが全身に巻きつくと,聖書が頭の上に浮いたような状態で留まった。男の身体は完全に金属製の人形のようになり,どう見ても重そうで身動きがとれるようには見えなかった。



「惑わされないでね。あの重たそうな見た目に反して驚くほど機敏なの。とにかく避け続けてね」



「マジで? 超重たそうだし,あんなのが動くの? ってか,なに? うちらそんなに余裕あんの?」



 金属の塊になった男がキリキリと音を立てると,一瞬で仁の目の前に移動し,同時に殴りかかってきた。その跳躍力と拳の速度は人間の眼では追えないほど速く,仁も避けきれずに最初の一発目で頬の肉を擦り取られた。


 連続して繰り出される右の拳が仁の右頬を掠めていっただけで,皮が剥け,肉が千切られ,すぐに左の拳が鋭い角度で顎のすぐ下を空振りした。



「ちょっ……これヤベェって!」



 黒い炎がいくつもの拳になって仁に襲いかかってきたが,同時に銀色の拳が角度を変えて同時に襲ってきた。避けきれない拳は攻撃を受けないように腕で捌きながら流れを変えて避けたが,黒い炎が仁の服を焼いた。



「マジか!? これ,結構キツイぞ!」



 避ける度に仁の腕が火傷で変色し,皮が剥け血が滲んだ。驚くほどの速度で連打してくる男の拳か何度か仁の身体をかすめていったが,その度に皮が裂け,肉をもっていかれた。



「なんだよ! どうすんだ,これ!?」



 速度が増していくと,男の全身が不快な金属音を発しながら黒い炎に包まれていった。仁は避けながら蹴りを入れてみたが,ダメージを与えられるのは仁のほうだった。



「マジでヤバイって!!」



「仁,そろそろよ」



 男の動きが一定のスピードに達すると,突然すべての音が消え去り,滑らかに動く男がスローモーションになったように視えた。



「仁,いまよ。頭上の聖書を狙って」



 本来,ここまで避け続けられることのない破壊力のみに頼った攻撃は,一線を超えた瞬間から単調になり技を出す男も自身ではコントロールできずにただ流れに身を任せているだけになっていた。


 仁の右眼が真っ赫に染まり,その眼から人々の嘆きや苦しみの叫び声とともに炎となって,目の前の男に燃え移り,黒い炎を赫い炎が包み込みその身体を焼いた。


 頭上にある聖書からも赫い炎があがったが,男は避けることも逃げることもせずに単調な動きを繰り返すだけだった。


 聖書の内側からも赫い炎が燃え上がると徐々にスピードが落ち,全身に巻かれたチェーンも綻びはじめ,黒い炎が完全に赫い炎に包まれて静かに消えていった。


 男は最後まで弱々しい拳を出し続けていたが,最後は力なく真っ白に焼かれた腕を下げ,そのまま崩れ落ちていった。



『ドゥルジ・ナス様への忠誠を……誓い……ます……』



 崩れ落ち灰になった男の身体が不自然な動きをすると,腹部を内側から破るようにして大量の蟲がこぼれ落ち,逃げるように闇へと消えていった。



「ヤバかった! マジで一撃必殺って感じの大技だけど,俺ですら完全に避け切ることはできなかったよ」



「そうね。普通の人間だったら,最初の一撃で殺られてるから。集団や街を破壊するには効率的で,壊滅の女王はそこが気に入ってたの」



「それを個人に使うってなかなか無茶な話だな」



「でも,仁,あなたも右頬を削がれてるじゃない……それって普通の人間なら完全な致命傷よ」



「確かに……これ,すぐに復活できるのかな?」



「ちょっと時間が掛かるけど大丈夫でしょ。でもね,あそこまで避け続けられたら,黒法衣が自らの炎に喰われるのよ。そこまで長期戦になるって前提じゃない技だから。まぁ,戦場では使い道が限定される大技でもあるんで,千年ぶりくらいかしら? 久しぶりに懐かしい大技を見ることができてよかったわ。仁,あなたの右眼で視た感想が聞きたいわね」



「俺が産まれる前の技なんだ? なるほどね……最初はビビったけど,単調な攻撃だし,すぐに動きには慣れたよ。発動までやけに時間かかるし,今時使い道がない技って感じかな」



「その割にはダメージ喰らってるわね」



「ああ,だって避けてみろって言うし。俺じゃなきゃ死んでるね」



「そうね。まぁ,私なら擦り傷ひとつ負わないけどね」



「はいはい。そうですね。身体能力化け物ですもんね」



「それでも,あの大技ね……千年前はかなりの魔術師を仕留めてるのよ。当時はあの技の使い手がいて,破滅の女王の的確な指示の下でかなりの敵を殺ってるわ。さっきの黒法衣とは比べ物にならないくらい精度も破壊力もあって,一撃で相手を仕留めれば技を出した黒法衣にもダメージはほとんどなくてね」



「あれを使いこなすとなると,やっかいな相手だな。破滅の女王ってどこかで生きているのか? さっきのやつは直線的な攻撃しかしてこなかったから,きっと使いこなしてはいないんだろうけど」



「そうね……まぁ,昔の技だし,いまどきあんな技をやるほうが頭おかしいけど。それともし破滅の女王が生きてたとして,怒った彼女に会ったら逃げられないと思ったほうがいいわ。ほら仁,部屋の中を調べましょう」



「ああ……なぁ,ところでさ,やっぱりその容姿で子供扱いされてキレるのって変じゃね? 毎回そこに違和感あるんだけど。さっき,ピアスの黒法衣が話終わる前に攻撃したじゃん。そんなに見た目を気にしてんの?」



「そうね……わかってるんだけど,なめられるのは好きじゃないの。私もあなたも器が若すぎるのよ。成人の器のほうがいいのわかってるんだけど,なかなかしっくりくるのがないじゃない?」



「俺はこのイケメン,相当気に入ってるけどね。確かに子供すぎてちんこ小さいのが気になるけど,これを可愛いって言ってくれる女の子がめっちゃ多いのを知ってビビったくらいだよ」



「キモ! あんたまだマッチングアプリやってるんでしょ?」



「やってるけど,あればビジネスみたいなもんだから」



「その見た目でやってたら,逮捕されるわよ」



「ああ……おかげで釣れるのショタコンばっかりだよ」



 二人で引き出しや書棚を漁ったが,重要そうなものは何も出てこなかった。ただ机の上に置かれた大量の錠剤に違和感を感じつつ,それがなんのための薬かわからないままサンプルとして数錠回収した。



「それにしても,ここにはなにもないな」



「まぁ,検問所なんでしょ? 重要なものなんてあったら,そっちのほうがおかしいんじゃない?」



「確かに……」



「なにもないし,次の施設に行きましょう。こんなところにいても埃っぽいだけよ」



「次の施設?」



「なにかお土産もって帰りたいじゃない? せっかくだし」



「了解……」

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