第1章 不浄の女王 (Druj Nasu)

不浄の女王 (Druj Nasu)

 十月になっても蒸し暑さの残る日中に比べて,朝晩の寒さが辛い時期になってきた。かつて大勢の人たちで賑わった繁華街も感染症が猛威を震った十年間でその様子は様変わりした。そんな繁華街の夜は,豊かな者には日中よりも熱く狂気に満ち,貧しい者にとっては零下に感じるほどその冷たさが肌身に沁みた。



『本当にここでいいの……? 本当に私の怨みを……この怒りをはらしてくれるの……? この身を捧げれば,この怨みを晴らしてくれるの……?』



 風俗ビルと呼ばれる建物がひしめき合う一帯に場違いな制服姿の少女が度々吸い込まれるように入っていくが,一度入ったら誰も出てこない建物があった。



『ここよね……これで私を裏切ったあいつに……神様……私の願いを,私の心と身体,そしてお金まで奪っていったあの男に復讐を……』



 ビルの入口を一歩入った瞬間から目に見えないほど小さな蟲が少女の周りを飛び交い,いつの間にか少女の姿が霞むほどにその量を増やしていった。


 髪の毛ほどの細さの黒いもやをまとったチェーンが幼さの残る身体に巻きつくと,少女に気づかれることなく静かに皮膚の内側へと潜り込んでいった。


 そのビルは周囲からも距離をおかれ,地下に設置された小さなほこらを訪れる者以外,この建物に近づく者はいなかった。そして誰も訪れた者を二度と見ることはなかった。


 ビルの奥深く,地下のさらに深い部屋に蜘蛛の巣のように細いチェーンが張り巡らされた部屋があった。人が訪れることはなく,祠を参った者が願いを叶えるために招かれる部屋であるが,その多くは願いを叶えることなく消えていった。



「ねぇ,また六人も殺されたんですって? 大丈夫なの? 教団も随分と弱体化してるんじゃない?」



「はい……申し訳ございません……」



 細い針が上下し,微かな光を帯びた糸が見え隠れした。幾重にも重なられた革と革が一枚の布のように貼り合わせられ綺麗な曲線を描いた。



「ふふ。私はいいの。で,ちゃんとあの子たちに血を吸わせてあげたんでしょ?」



「はい……すべて捧げさせていただきました」



「ならいいの。私の傑作こどもたちはそうやって成長していくのだから。所詮人間も魔術師もあの子たちの餌なのよ」



 どこを修復したのかわからないほど繊細な手作業で見猿みざるの斬られた面を縫い合わせると,真っ黒な血の溜まった容器の中に天井から落ちてくる蟲がうごめくのを確認してから,その中にそっと面を浸けた。


 口の部分しかないのっぺりとした見猿の面は容器の中で血を吸い,呼吸しているかのように怪しく蠢いた。


 黒い下着姿で全身をタトゥで覆われた金髪の女は微笑みながら指先で縫い針を擦ると,音もなく壁に貼り付けられた全裸の男に投げつけた。


 鋭い針は男の皮膚を貫くと,静かにぶら下がり男の皮を引っ張った。錆びた古い針から真新しい銀色に輝く針まで壁の男に数千本の縫い針が刺さっていたが,男は俯いたままで微かに胸が上下しているのが見えた。



「で,その二人の魔術師には相変わらず指一本触れられなかったのね。あんたたち三人組は何年その二人とやりあってんのよ」



「申し訳ございません」



「ねぇ,その二人に焼かれたあんたたちの顔を隠す面,それも私の傑作なのよ。私の面を使っているのに。いい加減恥ずかしいから,さっさと面の能力を解放して結果を出しなさいよ。女二人に手も脚も出ないなんて,ほんと恥ずかしい」



「申し訳ございません」



「で,今日の本題はなに? 三人揃って面のメンテナンス? それとも新しい聖書の製作? 聖書を造るなら人革も生血も足りないわよ。この前の六人分でしばらくは材料不足になるって言ったわよね」



「いえ……実は教団本部からあなたに聖書製作以外の依頼がありまして……」



「本部からの依頼?」



「はい……」



「面倒な依頼なら断る。それが契約だからね」



「はい……。単刀直入に言いますと,魔女狩りをお願いしたいと……」



 妖艶なフェロモンを撒き散らすように女は革張りの椅子に深く座り,片肘をついて微笑むと,床に片膝をつく三人組に順番に視線を送った。



「その依頼,高いわよ」



「本部も承知のうえで依頼を出しています」



「魔女狩りの依頼ねぇ……」



 足組みをする膝の上には常に重厚な古い聖書が置かれており,赤黒く変色した銀の金具が他の聖書とは明らかに違っていた。


 沈黙が続き,天井から蟲がこぼれ落ちる度に三人は緊張した。



「そうね。あなたたち三人組も一緒に行動するのも条件に入れてちょうだい」



「はい……?」



「ほら,私って肉壁にくかべに守られてないとやる気出ないのよね。それに,その二人の魔術師,おそらくだけど裏にオリジナルがいるのよね。さすがにオリジナルと魔術師二人を同時に相手するのは私でも厳しいわ」



「は……はぁ……」



「わかったら,ほら,面が血を全部吸い尽くしたから持って帰っていいわよ。で,あんたたちの上司にちゃんと伝えなさい」



「は,はい……かしこまりました」



 三人は深々と頭を下げ,諦めたように大人しくなった。


 部屋を出ると真っ暗な地下通路を重い足取りで移動した。一切の光が入らない通路は湿度が高く,じっといているだけでも汗が流れた。



「まずいな……本部になんて報告する……?」



「全部そのまま報告するしかないだろ……至ってシンプルだ。俺たちに肉壁になれと言っているんだからな」



「あの人は肉壁なんて必要ないだろ。ただ単に殺しを楽しみたいだけだ」



 ほんの数分前まで,本部からの伝言を伝えるために地下に小さな祠が祀られているビルを訪れていた。魔術師に切り裂かれた見猿の面を修復してもらうという,ついでもあったが,目の前で面を修復されるとは思ってもいなかった。


 あちこちから小さな蟲が湧き出しては消える地下通路を慎重に進みながら,三人はどうしてこうなったのかを考えていた。


 すでに数えきれないほど訪れているビルではあったが,実際にビルの主人あるじと直接話すことはいままで一度もなかった。なぜ今回はいつもと違うのか,それにどんな意味があるのか,どんなに考えても理解できずに悩んだ。



「俺たちが肉壁になったからって,俺たちまで殺されるわけじゃない。魔術師を殺せばいいだけだ」



「そりゃそうだろうけど,魔術師だけを殺すと思うか? あの聖書を見たろ? やっぱり噂通りだって。二十四人の魔術師のみの血と皮で造られ,数千人の血を吸わせたという聖書は実在したんだよ。あんなのを所有できるなんて異常だろ」



「確かに……あんなの持たされたら,誰だろうがこっちの精気を全部吸い取られるな……」



 じっとりと濡れた通路には人骨なのか魔術師の骨なのかわからないが,黒く変色した骨があちこちに散乱していた。蟲が湧き,骨の中からこぼれ落ちた。新しい死骸も転がっていたが,どの身体も皮がなく,筋肉も萎んで干からびていた。



「おい,気をつけろよ。絶対に踏むなよ」



 面の下にじっとりと汗をかきながら,遺体や散乱したボロボロのスーツや制服の残遺を踏まないように器用に歩いた。


 見猿が先頭に立って真っ黒な地下通路を進んだが,あまりの異臭に気分が悪くなった。


 地下通路は不浄の女王による人体実験によって生み出された失敗作のキメラが徘徊し,時折り散乱する骨を蹴散らかしたが,攻撃性はなくただそこを彷徨うろつくだけで,こちらから触れなければなにも起こらなかった。



「それにしても最近は世界各国で魔術師の復活が確認されているが,この日本でもそうなのか? あの魔術師二人でもやっかいなのにこれ以上増えたら洒落にならんぞ」



 言猿いわざるの面が小刻みに震えながら,無機質な声を発した。



「最悪の魔術師なら,たったいま最悪なのに会ったばかりだろ。どんなに雑魚が増えようがあの魔術師がこっち側にいれば問題ない。あの二人も直接やり合ったらお終いだ」



「ああ……確かに……こっち側には悪魔堕ちした不浄の女王がいたな……。あの魔術師に比べたら他の魔術師なんて可愛いもんだ……」



 再び無言になり,真っ暗な地下通路を進んだ。三人とも自分たちに死を突きつけられたかのように,面で表情は見えなくてもお互いに気持ちが落ち込んでいるのがわかった。


 普段なら間違えても意思のない人形のようなキメラに触れることも,なにかにつまずくこともないのだが,気が散っていたこともあり,聞猿きかざるが通路に転がる骨で足を滑らせた。


 足下から埃が舞い上がり,三人の周りが煙に包まれたかのようになった。


 聞猿がバランスを取ろうと手を伸ばした瞬間,指先がキメラの身体に触れ,引っかかった指で千切れた身体から大量の蛆蟲うじむしが湧き出しあたり一面に散らばった。



「くそ……やっちまった!」



 害のないキメラとは違い,蛆蟲は生物の身体に取り憑くと,僅かな隙間から体内に入ってこようとした。このあたりの蛆蟲は地下通路に入ってくる侵入者を排除する役割をもっており,一度体内に入られると,臓器を食い散らかし,神経をボロボロにするまで身体の中を動き回った。



「蛆蟲か! 聞猿,触れたのか!?」



「そうだ! 聞猿がやっちまった!」



「まずいな! 急いで明るい場所まで行くぞ! 言猿,聞猿を援護しろ。俺が目の前のキメラをすべて排除する。蛆蟲に気をつけろ!」



 三人は全速力で走り出すと,聖書を開いてチェーンを取り出した見猿が目の前のキメラを容赦なく潰していった。チェーンが漆黒の炎をまとい,渦を巻いて火花を散らしながらキメラを潰す度に蛆蟲が壁一面に飛び散り,まるで壁が生きているかのようにウネウネと動いた。


 地下通路を抜けると,粗末な電球がぶら下がる明るい地下広場へ出た。蟲が光に呼び寄せられるように群がり,電球に触れるとチリっと音を立てて床に落ちた。


 広場には通路の入口がいくつもあり,自分たちがどの入口から来たのか見猿がいなければ迷ってしまう造りになっていた。



「どうだ? 蛆蟲にやられていないか?」



 言猿が不安そうにする聞猿の法衣を聖書で叩きながら経を唱えて蛆蟲が付いていないか確認した。



「大丈夫そうだ。法衣のおかげだろう,どこにも蛆蟲はついていない。大丈夫だ,足元にもいないようだ」



「そうか,よかった。だが,まだ安心するな。不浄の女王の地下通路だ。蛆蟲であっても油断は禁物だ。言猿,この後すぐに聞猿を医療班のところに連れて行ってくれ。俺は上に報告する」



「ああ,わかった」



 見猿は全神経を聴覚に集中して,正しい通路を確認した。水滴が垂れる音,微かな風の音,電球の音,蛆蟲が動き回る音,言猿と聞猿の心音と呼吸音,すべての音が見猿の頭の中に飛び込んで,眼のない見猿の頭の中でクリアな地図が作成されていった。



「こっちだ」



 先頭を歩く見猿の聖書からはチェーンが床スレスレにぶら下がり,円を描くようにゆっくりと時計回りに回転した。



「すでに不浄の女王の管理地域テリトリーから出ているが,なにかいつもと違う嫌な空気が漂ってる。感じたことのないオーラの残り香のようなものがある。気を緩めるな。いつもの通路と思わないほうがいい」



 徐々に湿気がなくなり,床にもゴミや散乱物がなくなっていった。やがて等間隔に設置された照明の灯りが通路を照らし,終わりの見えない灯火の数が通路の長さを教えてくれた。



「言猿,聞猿の様子はどうだ? おかしな点はないか?」



 突然声を掛けられて一瞬戸惑ったが,いつもと変わらない聞猿の足取りを見て大丈夫そうだとだけ返事をした。


 行きよりも明らかに遠回りをして帰る通路を見猿が選んだのは,二人ともすぐに理解した。こうやって時間を掛けつつ聞猿が既に蛆蟲に侵食されていないか,例え関連施設であっても外部の病院に聞猿を連れて行って大丈夫なのかを判断していた。



「問題なさそうだな。聞猿を医療班のところへ連れて行く。言猿,医療班への説明はお前に任せる」



「わかった……」



 言猿の面が言葉を発する度に不自然に動き,失われた言猿の声を再現した。



「よし,ここから先は真っ直ぐ行け。突き当たりを右だ。そうすれば使い慣れたいつもの地下通路に合流する。俺はここから直接本部へ向かう通路を行く」



 二人は黙って頷くと静かにまっすぐ進んだ。見猿は反時計回りに回転を始めたチェーンに従い,すぐ横の細い脇道へと入って行った。



「よし,抜けたな……回転が変わった」



 チェーンの動きを確認すると,回転がややゆっくりとなっていくのがわかった。しかし綺麗な円を描いていたチェーンが僅かに歪んだ軌道を示したことで,見猿の手には不快な気の流れを感じた。



「この違和感はなんだ……? この異様な空気は……? ここまで来てもまだ不浄の女王に見られているような感覚が抜けない……本当に抜けたのか?」



 相変わらず見猿のチェーンは反時計回りにゆっくりと回転を続けたが,二人と離れていくに従い,チェーンがやや軽くなったように思えた。



「まさか……この気配は不浄の女王……?」



 見猿は指のない手の上に置かれた聖書を撫でながら,ゆっくりとチェーンを短く戻していった。


 ドゥルジ・ナス (Druj Nasu) ,その存在は四千年以上前から伝えられており,教団ができるはるか以前からさまざまな記録に記されていた。その容姿は絶世の美女ともいわれ,滲み出るフェロモンは性別を問わずすべての者を魅力した。


 しかし不浄の王とも呼ばれ,古い記録ではその名を出すだけでも呪われるといわれたが,見猿の年代でその名前を聞いて怯えるのは教団でも教育を受けた一部の専門知識のある者のみだった。


 その不浄の女王と教団のつながりや聖書や面など教団にとって不可欠なアイテムをドゥルジ・ナスが提供していることを知る者はほんの一握りの幹部だけで,そのなかには熱心な隠れ信者も多く,ドゥルジ・ナスについては不明ないことのほうが多かった。


 不浄の女王は人間や魔術師の皮膚を材料にして聖書を創り,生き血を吸わせることで聖書の能力を高めた。彼女に言わせれば,聖書は生き物であり,彼女の子供たちであったが,そのため世の中では『悪魔の教典』とも呼ばれて,それを持つ黒法衣は恐れられていた。


 ドゥルジ・ナス自身の聖書は他のどの聖書よりも古く,それ自体が放つ禍々しいオーラに初めて見た見猿も恐怖と絶望に包み込まれたことを思い出した。



「あの噂は本当なんだな……それにしても,あれほどの魔術師がなぜ教団側にいるのか想像もつかない。一体教団とどんな契約がなされているんだ……」



 細い通路を短く垂れたチェーンを頼りにゆっくりと進んだ。面が小刻みに震え,壁と天井の位置と障害物を見猿の脳にイメージとして伝えたが,修復してもらった効果なのか以前より鮮明に周りの光景が頭の中で映像として映し出された。



「よし……本部が管理する地域まで約三十分……このまま進んでよいのか……? この違和感はなんなんだ……?」



 速度を落とし,周囲を警戒しながら進んだ。短くしたチェーンがゆっくりと時計回りに回転をした。



「おかしい……なぜ……?」



 チェーンが再び時計回りに回転を始めたことで,見猿の警戒心が一気に高まった。不浄の女王の管理地域にいたときと同じ気がチェーンにまとわりつき,周りの空気も一気に変わった。



「なにが起こってる? なぜまたこの空気に?」



 地下通路全体が一瞬真っ白な霧のようなもので満たされたかと思うと,すぐにもとの状態に戻った。チェーンも回転するのをやめ,まっすぐ下に垂れ下がっていた。

 


「なんなんだ……どうなっているんだ? 言猿と聞猿は無事に医療班のところへ行けたのか……」



 見猿の面が激しく振動を繰り返し,頭の中のイメージを掻き乱した。上下左右がわからなくなり,激しい眩暈に襲われている感覚に耐えきれず片膝をついた。



『見猿……お前は三人のなかでもっとも見込みがある。お前のその身体を使わせてもらうぞ……』



 突然耳元で囁かれ,慌てて聖書を高々と掲げて身構えた。面はビリビリと激しく振動したが,空間を感知することができず,壁に背中をつけて身を低くした。



『悪くない反応だ。だが,私はここにはいない。そうやって身構えていてもなにも起こらないぞ』



 ビリビリと音を立てて振動する面の表面が波打つように動き出すと,ちりのように細かい蟲が面を覆い尽くしていた。


 見猿はさらに身を低く構え,聖書を顔の高さで構えたが,自身の面が蟲で覆い尽くされているなど想像もできないまま,その面を頼りに必死に集中した。



『可愛いやつよ。そうやって必死な姿を眺めるのも一興。お前をとって喰おうって訳ではない。お前たちは既に私の大切な肉壁になっているんだよ。ふふふ』



 見猿はさらに身を低くして,面の振動に集中した。



『もうお前たちは私の可愛い肉壁なんだよ。身体の中全体に目には見えないこの子たちが隈なく入り込んでるからね。いずれ脳を喰い破り,お前たちは私への信仰心のみで動くことになる』



 緊張して全身の肌が波打ち,僅かに残された指先の爪の間から目に見えない蟲が大量にこぼれ落ちた。首や手などの肌が露出した部分が異様に変形していたが,見猿自身なにも感じないのか,気にする素振りも見せずにただただ警戒していた。



『お前たちの身体は私の子供たちの肥料になり,やがて上質な材料になる。そうやって永遠の命を与えられる喜びをいずれ感じるだろう。ふふふ』



 壁に背中をつけているにもかかわらず,前後左右の感覚が麻痺し,法衣が擦れる音がやけに大きく聞こえた。手に持つ聖書が振動し,見猿の意思とは関係なくチェーンが聖書に巻き戻った。それと同時に違和感が消え,すべてが元に戻った。


 身を低くしたまま周囲への警戒を強め,できる限りの範囲を把握しようといつも通りに面に神経を集中した。


 さっきまでのざわつきが消え,地下通路は静まり返り,辺りに生物やトラップなどは確認できなかった。微かに聞こえる水が配管を流れる音も,照明が小さくチリチリと立てる音もいつも通りで,すべてが元に戻っていた。



「こんなこと……今までなかったのに何が起こったんだ? 面を修復してもらったばかりだから,吸わせた血の影響かなにかか?」



 ゆっくりと立ち上がり,そっと面に触れて確かめたが,修復前よりもしっとりとして滑らかになっている以外変化は感じられなかった。


 腑に落ちないまま本部への通路を進み,馴染みのある音や臭いを感じながら建物へと入っていった。頭に流れ込んでくる外のイメージは今まで以上に鮮明で範囲も拡がっていた。


 他の部屋よりもやや広い会議室として使われている部屋に入ると,黒法衣の男が三人大きな古いテーブルを囲むようにして座っていた。


 三人は見猿が来ることを事前に確認しており,ドアを開けて入ってくる見猿を冷ややかな眼で見ていた。



「ただいま戻りました」



 年配の男が表情を変えずに見猿を見て,身体の向きを変えた。細いフレームの眼鏡が神経質そうに見え,それでいて耳には派手な銀のピアスが印象にギャップを与えた。



「で,どうだった? 不浄の女王は動いてくれるって言ったか?」



「はい……ただし,報酬のほかに条件が追加されました」



 三人の表情が一瞬険しくなったが,見猿は気付かない振りをして話を続けた。



「不浄の女王……ドゥルジ・ナス様は,我々三人,見猿,言猿,聞猿を肉壁になることをお望みです」



「肉壁とは……?」



 そっと眼鏡を直しながら男が不思議そうに見猿に尋ねた。両脇の二人も怪訝な表情で見猿を見たが,見猿は敢えて答えずに黙って様子を伺った。


「ドゥルジ・ナス様の求める肉壁というのが正直よくわかりません。おそらくですが,あのお方の前で例の魔術師二名と戦わせて……おそらく我々ごと消滅させるのかと……」



 三人の表情が険しくなったが,誰も不浄の女王に対して意見などできるわけもなく,黙り込んだ。唯一年配の男がさらに上層部に掛け合うと提案したが,それも現実的ではなく教団としては不浄の女王の提案をそのまま受け入れざるを得なかった。



「我々でしたら大丈夫です。ドゥルジ・ナス様が我々を消滅させる前に魔術師を殺るだけです。そろそろあの二人には消えてもらわないと,こちらの損失が大きすぎます」



「しかし,君たちだけでも随分と苦戦しているし,君たち三人組以外の若手であの二人の魔術師とやり合える者はうちにはいない……もしかしたら一人,いにしえの大技を使う法衣がいるが,彼は指導者の立場だからなぁ……」



「古の大技……とは?」



「気にするな……現実的ではない……」



「はい……」



 見猿は俯いたままゆっくりと聖書を胸の高さまで上げた。指のない手で優しく表紙を撫でると鈍く光るチェーンに手を掛けた。



「ドゥルジ・ナス様にいただいたこの聖書と面にかけても……我々三人であの魔術師たちを葬ります。これか最後のチャンスだと思って……」



 三人は観念した様子で椅子に深く座り直し,年配の男は眼鏡を外し両手でこめかみを強く揉んだ。眼鏡を外すと男はやけに若く見えたが,その手の傷は数々の修羅場をくぐり抜けてきたことを物語るには十分だった。



「そうか……無理をするなとは言わん。我々教団も多くの若者をやつらに殺された。たった二人の魔術師にこの十年間殺られっぱなしだったことに不浄の女王も業を煮やしたのかもしれんな」



「そもそも,やつらは二人だけとは思えません。あの二人が前線に出ていますが,明らかに戦略を立ててる者の存在を感じています」



「そうだな……しかしどんなに調べても,バックは掴めないでいる……」



「はい……」



「で……不浄の女王はいつ動くとかは言っていたか?」



「いえ,おそらくそこはこちら側から提案することになるかと思います」



「そうか。まだ時間はあるということか」



「多少……かと……」



 部屋の空気が重くなり,全員がなにをすべきか悩んでいた。



「上への報告をお願いいたします。私は言猿と聞猿と合流いたします」



「そういえば,二人は大丈夫なのか? 医療班のところへ行ったと聞いているが」



「まだわかりません。ドゥルジ・ナス様の管理地域で蛆蟲にたかられました。その場ではすべて払ったつもりですが,医療班に診てもらわないと……」



 三人の表情が険しくなり,お互いの顔を見合って小さく頷いた。男が立ち上がると,器用にピアスを避けてスマホを耳にし,静かに呟いた。



「教団の医療施設を封鎖しろ。誰も入れるな,誰も出すな。そうだ,カテゴリーⅢの封鎖だ」



「カ……カテゴリーⅢ……ですか……?」



「不浄の女王が管理する地域の害蟲は,普通では駆除できないんだよ。君たち三人であれば大丈夫だろうと過信した我々にも責任はある」



「あ……あの……どうしたら……」



「心配するな。お前たちはラッキーだよ。これまで不浄の女王の害蟲にやられたらそれで終わりだった。この十年間,世界中の製薬会社が必死になって例の感染症の薬を開発してきた。そのなかに本来の目的とは異なる効能が見つかることがしばしばあってな」



「はい……」



「不浄の女王の害蟲を殲滅せんめつさせる効果がある薬が見つかった。しかも経口薬なんで使用が楽でいい。問題は人用に登録されたものではない。適応外使用となるため,当たり前だが保険適応ではなくなる。まぁ,我々には関係ないがな」



「なるほど……まったく知りませんでした」



「この薬を開発した会社は,感染症の薬ではなくなったが,これで少しでも経費を回収しようとしているんだろう。人用ではなく畜産のほうで食肉用動物向けの駆虫薬になってるが,まさかこうして我々が人用に使用しているなど想像もできないだろう」



「医療班および二人が接触したと思われる者全員に薬を飲ませるんだ。一日三回,食後に五日間,君も我々も含めて全員な。すべての投与が終わるまで,五日間,施設を完全閉鎖するカテゴリーⅢを徹底する。その間,誰も外には出してはならない」



「五日間ですか……副作用はなにが……?」



「下痢,嘔吐,関節痛,まれにだが脳梗塞が二件認められた」



「かしこまりました」



「それにしてもまさか,不浄の女王も我々がやつのキメラを使ってこの薬を見つけたことは想像できないだろうし,自分の蟲が薬で駆除されるなど最初から思ってもいないだろう」



「キメラを使って実験をされていたのですね」



「ああ,我々もありとあらゆる実験を繰り返しているんだよ。もう何百年と繰り返しね」



「確かに……」



 見猿は安心するとともに薬と聞いて,二人の魔術師の存在が脳裏をよぎった。いままで教団の黒法衣たちが殺られっぱなしだった理由の一つに,魔術師たちが医学および薬学に精通していることが教団の調査でわかっていた。


 これまでの戦いにおいて,魔術師の扱う蒼い炎や幻覚や幻聴が生じるときに発生する霧状の液体など,すべてにおいて化学的根拠があるこを掴んでいた。


 それは素人では到底調合も使用もできない高度なもので,教団でさえすべてを把握できてはいなかった。



「ところでその薬,どこの製薬会社が製造しているかおわかりですか?」



「ああ……ドイツのバイオ企業である通称GET,ゲファレナー・エンゲル・テックというところで開発,製造され販売はそれぞれの国によって契約している会社だ」



「ゲファレナー・エンゲル・テック……? まったく聞いたことのない会社ですね……」



「ああ,五〜六年前にM&Aによってできた会社らしい。当時は目立たない小さな会社だったが,いまは一般的にGETとして知られる急成長中の会社だ」



「なるほど,製薬会社でよく聞く話ですね」



「そんなことを聞いてなにかあるのか? 会社としておかしなところはないはずだ。ドイツの関連教団からもなにも報告はあがっていない」



「そうですか。いえ……前々から気になっていた二人の魔術師について,バックに製薬会社か医療機関がついているのでは,と考えておりますので。薬と聞いて少し気になったところでした……」



「そうか。確かに教団もその路線で調査をしていたな」



「はい……考えすぎかも知れませんが」



「いや,その慎重さが両眼を失っても生き延びてきた証なのだろう。言猿と聞猿も含めて。まずは君も医療班のところへ行き,薬をもらいなさい。五日間は拘束状態になる。我々も含めて」



「はい……申し訳ございませんでした」



「今回の件は構わない。不浄の女王のところへ行って無傷で帰ってきた者などいないに等しいからな。では,我々も医療班のところへ行くので,君は先に行きなさい」



「かしこまりました」

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