第10話

「ですから、女房がそんなこと」

 己の声が揺れている。合わせて腹の内も揺れている。実家で教え込まれた女としてのお役目や規範がずっしり腹の真ん中に居座っていたはずなのに、こう面と向かって言われるとなぜだかそいつがぐらぐらとしてくる。

 近頃のこのしばまちの雰囲気も悪いのだ。志乃は己の親指をきりりと嚙む。

 時姫、ありゃあじようじようきちだ。先の初姫で目をつけていたが、いやはや、こいつは大当たり。馬鹿だね、あんなぽっと出、すぐに消えるよ。うらすけよしむらの男振りったらありゃしない。いやいや、ながに目がいかねえとはとんだ節穴。

 皆が芝居のことを語っていて、その熱気がこれまた志乃の腹の内を揺らす。

「内緒内緒。ばれやしませんよ」と善吉がささやく。

「ばれるって誰にです」

「いや、わからねえですが」

 この問答で何やら志乃は気が抜けた。

 そうよ、聞いたところで私が腹に据えているものは変わりっこない。

「いいでしょう、どうぞお聞かせください」

 板間の桶と桶の間にようやく二つ体を落ち着けると、善吉が、おいらは木戸芸者ではねえですから、下手くそでも堪忍してくださいね、と言い置いた。なにを思ったか豆腐の入っていない空桶を片手で摑み、それを板間にコン、と打ちつける。

「……なんですか」

「遮っちゃあいけねえや、御新造さん。こういうのは空気ってのが肝要なんだから」

 コン、と打つ。続けてコンコンと打つ。コンココココココ……コン。

 ココン。

「ときはかまくら。こいつはみなもとのよりとも亡き後のお話にござります」

 演目は『鎌倉三代記』。ほうじようときまさと御家人との戦いが芝居の軸ではございますが、まあ、そいつはちょいと置いておきやしょう。なにせ此度の森田座皐月狂言で大事なのは燕弥の演ずる時姫様。時姫は時政の娘でございますが、なんと敵将三浦之助義村を慕って一人家を出、きぬがわ村に身を寄せている。この村に身を置いているのは三浦之助の母、長門。時姫は長門の看病をしているのです。

「ちょっとお待ちください」

 何やらいきなり開いた善吉芝居の幕を慌てて閉じる。へえ、と善吉は素直に応じて口を閉じるが、頰は少し膨らんでいる。

「時姫という女は己の父を裏切って、敵方の男に身を寄せているわけですか」

「そうですけど」

「なんという筋書きですか! この本を書いたお人は女のさんじゆうを知らないのですか!」

 家にあっては父に従い、しては夫に従い、夫死しては子に従う。こんなこと、手習い子でさえそらんじる。嫁入り前の女子が慕う男のもとに走るなど、孝のかけらもない。だが、善吉は、すごいですよねえ、と間延びした口をきいている。

「恋心はなにもかもをひっくり返しちまえるんだもの」

 すごいものか。志乃は己の背中の産毛が逆立つのがわかる。

「こんなものが江戸のお人たちに受けているんですか」

「だって、ほうらこの通り」

 善吉の指の先にある豆腐の山には、志乃も黙るしかない。

「恋心を抱える時姫は可愛らしい。だからこうしてみなが祝儀を贈ってくるんです。だが、三浦之助はそうではなかった」


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