第11話

 善吉は、空桶をココンとやる。

 病気の母を思って、三浦之助は村に帰ってまいります。だがそのお体は傷だらけ。時姫は駆け寄って介抱しますが、母、長門は障子を締め切り、三浦之助に会おうとはいたしません。武門に生まれながらに戦場を離れた息子の未練を叱ります。

 ココン。

 この障子の内は母が城郭、その狼狽うろたえた魂で薄紙一重のこの城が、破るるものなら破ってみよ。

 なんてえ重く鋭い母親のたんじゃあございませんか。もう良いと傷だらけの息子の体を抱き込めればどんなに幸せか。戦さに行かずこの母の傍に居ってくれ。それができぬならせめて一目会いたい。頭を撫でたい。しかし、長門はそんな母親の情を己の内で切って捨て、部屋に籠って障子を開けない。病に伏した母のこの啖呵に三浦之助は己を恥じた。涙しつつ戦場に戻ろうとする三浦之助をちょいとお待ちになって、と引き留めるのは燕弥の時姫。

 ココン。

 コレのう、せっかく見たものう、もう別るるとは曲もない。親に背いてこがれた殿御、夫婦めおとの固めないうちは、どうやらつんと心が済まぬ。

 こちらはなんてえ可愛らしく切ない恋人のお願いじゃあございませんか。一晩だけでも布団の中で夫婦として明かしたい。いえ、はしたないなんて言っちゃあいけやせん。なにせ時姫が三浦之助から受け取ったそのかぶとからは、きしめた香がぷんとしている。

「時姫は三浦之助が討ち死にする心胆だと気づいたのね」

「ははあ、さすがは御新造さんだ」

 戦場に向かう武士は死臭を隠すため、己の兜に香を薫く。時姫はこれをぎ、夫と今生で会うのはよい切りと悟ったのでありました。時姫だって武家の女。すがったりなぞはいたしません。ただ今宵だけ、今宵だけでも夫婦の契りを交わしたい。短い夏の一夜さに、忠義の欠くることもあるまい。時姫の口説きには胸がぐぐうとなっちまう。しかし、三浦之助は冷てえのなんのって。敵の娘ゆえ信用できぬと振り払い、戦さに戻ろうといたしますが、母のせきがごぼごぼと耳に残っている。悩んだ末に、しばし屋敷にとどまることにしたのです。

「敵の男になんぞ恋心を持つから、そういうことになるのです」

「そうです。時姫の父親だって怒り心頭だ。だから追っ手をよこします」

「追っ手ですか」と聞けば善吉が嬉しそうに空桶を振り上げるので、志乃は思わず手で制した。

「そいつを、おやめください」

「はい?」

「それです、その空桶でのココンです」

 すると、善吉は恥ずかしそうに盆のくぼをぽりぽりと搔いた。

「お気に障っちまいましたかね。芝居者のさがってやつで、音と拍子を入れ込むだけでずんと気持ちが入るもんですから」

 それが嫌だと志乃は言うのだ。芝居者でなくっても、自然と気持ちがたかぶってきてしまう。

「おびに、追っ手の正体を明かしやしょう」

 志乃の喉がごくりと鳴って、ああ、またしても、善吉がココンとやる。

 追っ手の名はとうざぶろう。すでに村に潜み込んでいるれの男。一人途方にくれている姫に襲いかかった。姫の白い耳元にこいつはお父上の言と藤三郎は囁きます。時姫は殺してしまって構わない。だが、姫を捕まえた暁にはお前と夫婦にさせてやると、そうお父上は申されましたぞ。驚く時姫に藤三郎はなおも言い募る。三浦殿は今日明日の内に首がころりじゃ。首のない胴ばかりの男を抱いて寝てなんになる。如何いかに下の方が肝心じゃてじゃて。これには時姫も目をり上げた。懐刀を抜き、斬りかかる。藤三郎は頭を抱えて逃げ出した。

 お可哀想な時姫様、ああ、父親からのあまりのお仕打ち。目から涙をはらはらと、刀を胸にひしと抱く。こいつは父の懐刀。これで死すれば、父に殺されたと同じこと。三浦様の女房としてこの世を逝ける。

 明日を限りの夫の命、疑われても添われいでも、想い極めた夫は一人。

 己の喉に突き立てようとしたそのとき、現れるのは夫、三浦之助義村。

 お前の心、しかと受け止めた。ならば我が敵、お主が父親、北条時政を討て。

「時姫に親不孝の罪を課すおつもりですか!」

 いいえ。時政を討ったあと、その刀で己の命をたてば、不孝には当たるまい。

 頼みと言うはこれひとつ。親につくか。

 さあ、それは。

 夫につくか。

 さあ。

 さあ、さあ、さあ。

 落ち着く道はたった一つ。返答はなんとなんと。

 成程、討って差し上げましょう。

 すりゃ、北条時政を。

 北条時政、私が討って差し上げましょう。

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