第9話

 豆腐を盆にのせて戻ってきたあの日はしようをぽっちり垂らして食べた。次の日も豆腐がご所望とのことだったから、豆腐を崩して酒と醬油でりつけて、さんしようをまぶしたあらがね豆腐にして食べた。飽きませんかと聞いたら、飽きませんとだんさまが言うので、志乃は『とうひやくちん』を購った。百種もの豆腐料理が記された本だが、まあ、あと二、三種ほどでなべしきに様変わりするだろう。そう高を括っていたというのに、まさか、こんなに使い込むことになろうとは。

 醬油染みのついた紙をめくったところで、がらりと格子戸を開ける音がして、志乃は大きなため息を吐く。

「御新造さん、お届けにあがりましたよう」

「またですか」

 はじける声に、志乃は洗い桶に水を張る。抱えて板間まで運んではみたが、桶行列に横入りさせる隙間がない。だというのに、男は志乃の抱える桶の中へといくつもそれを滑り入れる。

「こいつがきたこんちようとお屋さん。一代で成り上がった呉服屋さんです。おな人気が欲しいでしょうねえ。そんでこいつがおうぎちようたに屋さんだ。ここで舐める温燗ぬるうめえのなんのって」

 店の名前は慌てて書きつけたが、この家にはもう桶を置くところなぞどこにもないし、腹の中は骨と肉の間だって隙がない。そう訴えたが、男はその大きいどんぐりをぱちくりとさせる。

「いえいえ、御新造さん。これからじゃあねえですかい」

 この男が胡座あぐらを組むと、家が余計に狭くなったように見えてならない。大柄な上背に合わせて、にっかり歯を出して笑うその口も大きい。

「幕が上がってまだ十日も経っていやしません。森田座にとんでもねえ若女形が出てきたってんで、やっとこさかみがたまで噂が流れついた頃合いだ」

 志乃は己の腹に手を当てた。おそらく腹の虫は昨日か一昨日おとといかで、死んでいる。

「もっともっと届けられるはずですぜ」

 家の中に並べられていく、大量のこの豆腐に押し潰されて。

 この男が突然家を訪ねてきたのは五日前のことだった。豆腐をどっさりと持ってきて、贔屓からの祝儀でごぜえやす。笑みのまま出て行こうとするものだから、袂を引っ張り名を聞けば、ぜんきち、燕弥のおくやくをしていると言う。奥役というのは役者の世話役らしいが、志乃はここで待ったをかけた。夫の仕事を深くは聞かない。次の日にまた善吉が来ても、志乃は女らしく部屋の奥に引っ込んで黙っていた。しかし、豆腐がどんどんと玄関に届けられていく。このままでは布団も敷けなくなってしまう。仕方なく、志乃は応対するようになった。

 土間に座り込む善吉に麦湯を出しながら、志乃は聞く。

「役者への祝儀は、豆腐と決まっているものなんですか」

 えっ、と善吉は茶碗から口を離した。

「決まってやしませんよ。豆腐を祝儀として運んだことなんて初めてのこってす」

「あら、それならどうして豆腐なの」

 尋ねると、御新造さん、と一寸ばかり硬めの声が返される。

「もしや、役者の女房さまでいらっしゃるのに此度の芝居の内容をご存知でない?」

 押し黙る志乃に、善吉は「噓です噓です大丈夫ですよう」とへらりとする。

「そういうお内儀さまもおりやすからね。舞台の上であっても、自分の旦那が誰かと口説き口説かれて、しまいにゃお布団に二人くるまっての濡れ場なんざ見たくないってんで、一生芝居小屋には足を運ばない方もいらっしゃいますから」

「それは当たり前のことでしょう?」

 強い物言いになっていることは己でもわかった。

「旦那の仕事場に女房が顔を出すなんて言語道断でございます」

「なるほどなるほど」善吉の顔が近づいて、目頭についた目やにまでがよく見える。「そういうところが良いんですねえ」

「そういうところ?」

 一人うんうんと頷く善吉に眉を寄せると、「でも、御新造さんはどうなんです?」と善吉はまたもや志乃の顔を覗き込んでくる。

「御新造さんは此度の芝居のお話、聞きたいとは思いやせんか?」

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