第8話

 煮立った油の玉が破裂したかのような勢いに、志乃はひっと息を詰まらせる。

「く、腐っておりましたから」

「このとん!」

 顔が美しくあればあるほど、怒りをたたえた際にすさまじくなることを志乃は初めて思い知る。

「腐らせていたに決まっているだろうが!」

 怒鳴り散らしてよだれの泡が飛んだ口を燕弥は己の手でぐっと拭う。手の甲にべたりとついた紅に眉を寄せ、ふうと己を落ち着かせるかのように、細い息を吐き出した。

「あの飯はわざと腐らせていたんです」

 一瞬の内に喉をすげ替えたような、その柔らかな声音はいつもの馴染みのあるもので、志乃のせわしない胸内も少しだけおさまった。

「どうしてそんなことを」

「決まっているでしょう」と燕弥はたしなめるように言う。

「芝居に使うんですよ。芝居ってのは言ってしまえばそらごとでございますから、そこにどれだけじつを紛れ込ませられるかがかなめどころ。だからこそ、腐った飯は舞台の米櫃に入れようと思っていたのです。開けた際に饐えた臭いをかいだ客は、これは現のことかと芝居にどっぷりかれる」

 らんらんと目を光らせていた燕弥だが、「でも、おじゃんです」伏せたまつの影で目の光が遮られる。

「とてもよい色とよい匂いになっていたのですけれど」

 志乃はただただ板に額を擦り付けることしかできなかった。

 離縁だ。志乃は自室の布団の上で座り込んだまま、ぼんやりと考える。離縁に違いない。くだりはん明日あした渡されるのだろうか。理由の文言はなんだろう。夫の仕事の邪魔をしたのだ、不都合なことを書かれても文句はいえまいが、せめて再縁だけはと志乃は膝に置いたこぶしを固く握る。どこぞにいるかもしれないお人との再縁だけは認めてもらわねば、志乃は女の役目を果たせない。

 次の朝、朝餉の品数を増やすざかしい真似をしてから、志乃は燕弥の箱膳の前で手をつき、三行半を待った。

「豆腐が食べたい」

 志乃が顔を上げると、燕弥は少し顔を背けていた。口が鳥のくちばしのようにとがっている。

「夕餉は豆腐が食べたいと言ってるの」

 志乃は泣きそうになった。ああ、求められている。この人はとってもお優しいお方だ。きちんと自分に役割をくれる。女房として己を使ってくれる。

はつ屋の豆腐でよろしいですか」

 燕弥の朝餉が終わるのを待たずして、紙入れを手に取った。土間へ駆け下りると、「お待ちを」と志乃を引き留める声がある。

「こいつを使ってくださいな」

 燕弥に渡されたのは丸盆で、志乃は黙って受け取った。意図など問うはずがございませんの一文字の口を見てもらいたくって、志乃はゆっくりと頷いてみせる。

「酒もつけてもらおうかいね」

 言って、燕弥はとつくを丸盆の上にのせる。

「酒でも回れば、昨日のことなんてぽーんと飛んでってしまうさね」

 台所横で目についたざるを引っ摑む。丸盆と笊を胸に抱え、徳利は手に提げ、を突っ掛けたところで、

「志乃!」と一際大きな声が背中にぶつけられた。

 心持ちは軽く、なんでも御座れと振り返った志乃を待っていたのは、ひどく冷たい目であった。燕弥の視線は鋭く、固まった志乃の体に次々と刺さっていく。足の甲、手の首、着物の袂、耳のたぶ、最後は目玉にぷっすり刺し込み終えて、

「お帰りをお待ちしております」と燕弥は優しげな笑みを見せた。

「戸口の前でお待ちしております。ずうっとずうっとお待ちしておりますから」

 志乃は通りを飛ぶように走った。

 家に戻ってきたとき、燕弥は告げた通りに戸口の前に立っていた。肩で息をする志乃の姿を見つけると、笑みの形に細まっていた目が開き、まるで針のように輝いた。

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