第7話

くちいれ屋に頼んで、通いの女中を呼んでおきました。朝餉と夕餉時に訪ねて来るかと思いますので、そのお人から洗濯や台所のことをきちんと習ってくださいまし」

 燕弥にそう告げられたとき、志乃はうなずくほかはなかった。たち縫い、茶の湯、聞き香に薙刀なぎなたなんぞは実家で厳しくしつけられたが、町娘の稽古事の定石らしいしやせん、料理方、うたは武家の娘に必要がないと言われて、ほうちようはほとんど握ってこなかった。くわえて役者の家には役者なりのきたりというものがあるはずで、お民はそれを教えてくれるために雇われたに違いない。

 豆を煮るお民の箸づかいを杉原紙に書き込みつつ朝餉の用意をしたあとは、米のとぎ汁をたらいに入れ、洗い物を抱えて井戸端へ行く。このところ、志乃はこのお民からの手習いの時間が好きだった。

 お民に言われたとおりに盥の中でとぎ汁をじゆばんにすり込んでいると、案の定今日も後ろに気配があって、志乃は寸の間手を止める。すぐに振り返っては逃げられる。そうこの人はお猫さま、お猫さま。言い聞かせ、志乃は盥のへりにかけた手拭いで手をいて時を稼いでから、ゆっくりと首を動かす。

「あの、なにかございましたでしょうか」

 志乃の傍に立つ燕弥は、にこにこと笑っている。

「いいのよ、わたしのことはお気にせず、そのまま続けてくださいな」

 そう言って後ろで手を組み、盥を覗き込む燕弥の髪はゆるめに結わえられていて、はらりと一本こめかみにかかる。

 漬けが時姫になってからというもの、燕弥はこうして、志乃がお民から手習いを受けている様子を見にくるようになっていた。どんなにつんけんしている日でも、志乃がめしびつから米をよそったり、着物をさいかちの実でみ込んだりしているとふらりと現れ、にこにことしながら志乃を見ている。手習いが終われば、途端なにかを思案するような顔つきになり、声もかけずに去っていく。

 稽古場へ向かう燕弥を見送ってすぐ、志乃の頭にはぴいんときた。

 やっぱり時姫は綺麗好きでいらっしゃるんだわ、そうなんだわ。

 部屋の整い具合からも薄々は勘付いていたけれど、時姫は綺麗好きで、だから汚れ物がきれいになっていく様を見ているのは気持ちがいいってそういうわけじゃないかしら。

 ならば、と志乃はたすきをかけた。のみくそさえ残すまじの心意気で家中ぞうきんをかけて回ったが、ていであるからいつときほどで終わってしまう。志乃は少し悩んでから、張り替えたばかりの障子を開けた。

 燕弥の部屋は、紅の件で入った時と相も変わらず、整然としていた。つくろい立ての雑巾でたんを擦るが、汚れもあまりつかない。鏡台には手拭いをつかったが、汚れよりもその抽斗の隙間から見える化粧道具が目を引いた。伏せられた紅猪口が何十と並び、ふとこうの中に目をやれば、三段重の円筒形の陶器が敷き詰められている。花文様が描かれているそれらにはどうやら白粉おしろいが入っているらしい。ほのかに梅の香りがする小袖に襦袢は、そのどれもが女物。

 役者ってのはとんでもない生業だと、つくづく志乃は思うのだ。世間の目を一身に集めてはいるがしよせんは河原者。かさをかぶってしか人様の前を歩けやしないと父親は散々なじっていたが、女子を演ずるために尋常から女子であることを選んだその胆力は素敵で、そいつが裏返って、おそろしくもあったりする。

 燕弥は決して男の部分を見せようとしない。

 志乃は小袖が掛けられたままのふせを持ち上げる。

 女形とはそういうものか。

 志乃は箱枕に顔を近づけすんと鼻を動かしてみる。

 そういうもので終わらせてよいのか。

 志乃は己の手が、掃除というよりなにかを探し回る手つきになっていることにふと気づいた。気づいたならば、こりゃもう開き直りで、部屋のあちらこちらをかき回す。と、つんとえた匂いが鼻面をかすめた。鼻を動かしながら近づいた部屋の隅には伏籠が置かれ、上に掛けられた手拭いは湿っている。伏籠をどけると、お椀が一口。半分ほど盛られた米は黄色く、饐えた匂いは部屋に広がって、志乃は思わず笑ってしまった。小腹の虫を養った後で片付けるのを忘れたか、あのお人にもこんなものぐさなところがあらっしゃる。腐った飯はあのお人が男だと言ってくれているようで、志乃は何やら嬉しかった。

 飯を捨て、洗った椀が乾く頃合いに、燕弥の帰りを告げる声が格子戸の外に聞こえてきて、志乃は肩を張る。皐月狂言の幕開きが近いためか、稽古終わりの燕弥はご機嫌が悪い。板間に上がって、志乃の差し出したちやわんで唇を湿らしてすぐさま口を引き結ぶ。そのまま自室に向かう後ろ姿を見送るのが志乃の常だが、今日ばかりは部屋の入り口までついて行く。その紅の塗られた横一文字が、にこにこに変わる瞬間が見たい。燕弥が障子を開ける隣で志乃は胸を高鳴らせる。部屋に入った燕弥は中を見回し、はたと動きを止めた。飛びつくようにして伏籠を開けたかと思うと、伏籠を壁に叩きつけた。

「なぜ捨てやがった!」

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