第二話 民の不安

 上海の港では、東方美人とキームンは目利きとしても認められていた。

 中華茶器を求める中華語に詳しくない西洋人に偽物を掴ませるか法外な値段をふっかける小賢しい中華人商人に手を焼くこともなく、値段の交渉も出来ることから、西洋人からの信頼は厚かった。


 逆もまた然り、あまりに安く値切ろうとする西洋人には、職人の仕事の価値を説明し、正当な金額を要求したりなど、外国語を話せない中華人からも頼りにされていた。


 女商人としての才覚もあると二人の評判が広まると、キームンの茶荘の個室では、貿易商や美術商も訪れ、骨董品や美術品、値打ち物のティーカップなども扱われ、金持ちやコレクターからも定評があった。


 従業員の娘たちも誇らしく、さらに他の茶屋よりも給金が良いことにも満足している。


「それにしても、東方美人さまとうちの大姐ダージエって、並ぶとなんだかお似合い」


 チャイナ服にエプロンを羽織った、チャイナ風メイドの従業員の三人が、仕事の帰りがけに賑やかに語っていた。


 髪を頭の両側にお団子にしている春燕チュンヤンのセリフに、二人がうなずく。


祁門キームン大姐ダージエは背の高いスレンダーな西洋美女で、東方美人さまはアジア系セクシー美女で、一見正反対の美人同士だけどね」


 三つ編みを輪にして結んでいる杏杏シンシンが、人差し指を立てた。


「義姉妹の契りを交わした、姐さんの姉代わりなんですってね」


「そうそう。だからか、いつも東方美人さまがいらっしゃる時は個室よね。あたし、この間、二人の話し声をこっそり聞いちゃったんだけど、どうやらねえさんは人を探してるみたいなの」


「えー、誰を?」

「彼氏だったりして!」


 二つの三つ編みを下ろしている雪雪シュエシュエが、興味津々に杏杏シンシンを見る。


「わからないけど、一ヶ月くらい前だったかな、雲南ウンナン省にその人がいたとかで出かけて行ったけど、会えなかったらしいよ」


「そういえば、チベットにも行ってたことがあったんだったっけ? ついでにタクラマカン砂漠とインドにも行ってアッサムとダージリンの紅茶を飲んできて美味しかったとか」


「なにそれ?」

「インドってことは、ヒマラヤ山脈越えたの!?」


「さすがに飛行機とか列車使って行ったんじゃない?」

「しかも、それって、まだ十代の頃だって言ってなかったっけ?」

「十代で砂漠とかに行ったの!?」


 三人は、黙って顔を見合わせた。


「東方美人さんも謎めいてるけど……」

「うちの姐さんもなかなか……」


   ***


「ふふっ、どこから見ても素敵な出来栄えだわ!」


 職人が特別に作成した煙管を右手に持ち、金色に縁取られた青い蝶の絵柄を満足そうに眺めてから、視線を街中に巡らせた。


 チャイナカラーの襟に白から水色のグラデーションになっている、ベトナムの民族衣装アオザイの横には深くスリットが入り、シルクで出来た光沢のある水色の幅の広いズボン「クワン」の下からは、装飾の付いたサンダルがのぞく。


 透明度の高い翡翠で出来た、はねを折りたたんだ蝶が止まっているような髪飾りがトレードマークの、長く美しい金色の髪をなびかせる高身長の西洋女性の姿は、ここ上海フランス租界ではよく知られていた。


「ゥニャン」


 道端には、トラ模様の猫が座って鳴いていた。


「はぅっ! ね、猫ちゃん……!」


 足を止めたキームンの頬が染まっていく。


「か〜わいいっ!」


 きゃあっ! と、女子学生のような高い声を上げ、しゃがみ込んだ。


 そっと、指で猫の頬から顎の下を撫でると、猫の方からも指にすり寄り、喉をぐるぐると鳴らした。


「やだもうっ! 可愛すぎ! こんな可愛いコを見ると、イギリスで出会った猫ちゃんのことも思い出しちゃう!」


 歩き方も美しい彼女が一変して猫に夢中になっているところは、町民の目にも留まった。


你好ニーハオ祁門キームンさん」


「あ、あら!」


 慌てて立ち上がり、咳払いをしてから取り繕うような笑顔になる。


你好ニーハオ、雑貨屋の老奶奶ラオナイナイ(おばあさん)、足の具合はどう?」


 足に包帯を巻き、杖をついている老女の前で、キームンが背をかがめる。

 彼女が手にしている蝶の形をした紐で編まれたバッグは、この老女の作ったものだった。


謝謝シエシエ! 私がぶつかられて倒れたとき、あんたがすぐに抱きかかえて病院に連れていってくれたおかげで、治りも早かったよ。あの時は本当に助かったよ!」


「そん時は、ヤクの売人同士が喧嘩になって、逃げた方を追いかけてた奴が、後ろからうちの婆さんを突き飛ばしやがったそうじゃないか」


 老婆について歩いていた老人が、ほとほと迷惑そうな顔で続ける。


「警察は奴らをちっとも取り締まってくれやしない。奴ら、牢屋にぶち込まれてもすぐに保釈金で出てきちまうし」


「港が近くて貿易も盛んで、表向きは綺麗な街だけどさ、ちょっと裏に入ると治安は悪いね」

「そうだよ! この間もさ、ひったくりが出てさ!」


「道端で騒いでたのもいたじゃないか」

「その後、道路でぶっ倒れて死んじまって……」

「尋常じゃない痩せ方だったしね。あれはアヘン中毒だろうって噂だよ」


 老夫婦の周りには、通りすがりの老人や中年女性も、口々に困りごとを打ち明け、不満を募らせているのは一目瞭然だ。


 ひとりひとりに頷いて、言葉をかけてきたキームンに相談する街の民は、彼女を頼りにする者も多かった。


 その背後には、ある視線が物陰から付きまとっていた。


 商店街では賑やかに茶館や果物屋、八百屋、魚屋、雑貨屋などがひしめき合っている。

 竹を編んで作られた大きな蒸籠せいろからは、蒸気と美味しそうな饅頭まんじゅうの香りが人々の胃袋を鷲掴わしづかみにしている。


 たかっている人々が去り、キームンの番になると、豚まんを二つ注文した。

 紙に包んだ豚まんを持ち歩き、食べる間もなく代わる代わる民に声をかけられる。


 街の人たちと別れ、キームンが表通りからは見えない路地裏に曲がったところで、三人の男が駆け出してきた。


「!」


 麻袋を頭から被せられ、抱えられると同時に足からも被せられる。

 男たちは彼女を袋のまま担ぎあげると、誰にも見られることなく路地裏を抜け、停めてあった黒塗りのクラシックカーに無理やり詰め込み、その場から去った。


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