* 第一章 上海の煙使い *

第一話 フランス租界の茶荘美人

 プラタナスの並木道沿いには、煉瓦レンガ造りの西洋風建築の建物が並ぶ。

 港町上海には、西洋人や日本人もいるという外国人居留地の一つ、フランス租界(法国租界ファーグオ・ズージエ)では、アールデコ調の装飾が人気だ。


 その中の、白い石造りの外壁にところどころオレンジ色のレンガがあしらわれている二階建ての建物では、チャイナ服の上からメイドカフェのような、フリルの目立つ白いエプロンを被った女の子たちが働いていた。


小姐シャオジエ! 小姐シャオジエ!」


 四人がけのテーブル席についた客の男たちが、いかにもからかうような口調で声をかけた。店員を呼ぶのに「小姐」とだけでは水商売の女の子呼びになるので失礼にあたる。


「水商売でもメイド喫茶でもないんだからね!」


 顔をしかめてツンツンする娘もいれば、気に留めない娘もいる。


 奥には、四角いモチーフが使われた赤い格子で入口が半分隠れている個室があった。


 シノワズリという、西洋人が好む中華テイストの柄の、ひょうたんのようにくびれのある磁器製ポットを傾け、美しい所作しょされた茶を振る舞う女性が垣間見える。


「あれが、この茶荘の美人店長か」


 木箱のような茶盤ちゃばん、その上のすのこ部分に並べられた小さい茶器ちゃきたち。


 手のひらに収まるほどコンパクトな茶壷ちゃふう(急須)にポットで湯を注ぎ、温めてから、水差しに似た形の茶海ちゃかいに湯を移す。

 お猪口のような茶杯と、それより細く背の高い聞香杯もんこうはいにも湯をかけて温める。


 茶壷ちゃふうに茶葉を入れ、少し高い位置から湯を回しながらそそぎ入れた。


 蓋をして湯があふれさせ、その上からも、片手で、しなやかな長い白い指で蓋を押さえながら茶壷に湯をかけ続ける。


 茶海ちゃかい茶漉ちゃこしを乗せて注いだ茶を、聞香杯もんこうはいに入れ、茶杯へ茶を移す。

 二つの杯を乗せた茶托を、正面に座る来客に差し出した。


 来客は、青い花と蝶の絵柄の聞香杯もんこうはいの絵と残り香を楽しみ、同じ絵柄の茶杯の茶をすする。


 茶荘の店長が茶海の茶を自分にも注いだとき、結い上げたサイドの長い金髪がサラリと肩からこぼれ落ちた。


 白い細長い指は袖口の広がった白いロングのチャイナドレスには金色の絹糸で蝶がデザインされた刺繍が施され、その上から透ける青い布をストールのように羽織る。


 白い端正な顔立ち。

 ガラスのように透き通った青緑色の瞳に、薔薇色の頬と唇。


「ほう! 西洋人だったのか!」

「ここフランス租界に住んでるってことは、フランス人か」

「おフランスの西洋人サマが、なんで中国茶の茶荘なんかやってんだ?」

「しかも、ちゃんと淹れてるみたいだぜ」


 黒い中華服を着た一見普通の客である男たちは、店の中で声を張り上げ始めた。


「おーい、女店長さんよ!」

「俺たちにも、茶ぁ、淹れてくれよ!」

「そんなところでスカしてねぇでさ!」

「それとも、俺たちみたいな一般中華人とは口も聞いてくれねぇのかよ、外国人サマは!」


 テーブルの四人は、口々にヤジを飛ばし、笑い出した。


「お客さん、やめてください。今は個室のお客さまを接待中ですから」

「うるせえ、小姑娘シャオクーニャン!」

「きゃっ!」


 チャイナ服の店員が男に手で振り払われ、よろけた。


「おやめください」


 いつの間にか個室から現れた女性店長が、よろめく女子店員の方を抱えていた。


「大丈夫? 杏杏シンシン

「あ、はい、大姐ダージエ。ありがとうございます」


 四人の男性客は、舐めるように上から下まで店長を見回す。


「……意外と背が高えな」

「お、おう。俺らよりもずっと」

「フランス人だからな」

「だが、やっぱスゲェ美人だ」


 長い金髪の、白く透き通る肌は珍しくはなくとも、180cmは超えている女性は、ここ『中華界』の外国人居留地においてもまれであった。


「女ばかりのお店ですが、当店は娼館ではなく、お茶を楽しむところにございます。従業員はわたくしの妹たちも同然。どうか『人』として接していただき、他のお客さまにも不快な思いをさせないためにも、マナーを守って楽しんでいただきたいと思います」


 高い位置で結んだ髪に差した花がふんわりと香り、どこかスモーキーな香りが混じる。


「だったら、あんたが俺たちを個室に招待してくれよぉ」

「そしたら、大人しくしてやってもいいぜ」


 四人は再び笑い出す。


 女性店長はスッと長い煙管キセルを取り出し、口にくわえてから煙を吐いた。


「……まったく、女だけの店だと、たまにこういうのが来るのが面倒だわ」


「おい、こら! 今何つった!?」

「やんのか、オラ!」


 男たちが喚きながら詰め寄ったと同時だった。


「うげっ!」

「おわっ!」


 白いヒールが彼らの足の甲に次々と突き刺さし、つま先がすねに当たる。

 

「いてぇ!」

「何すんだ、てめぇ!」


 反撃する間もなく、四人の身体は次々と蹴り上げられ、天井にぶち当たってフローリングの床に落ちて重なっていった。


 周囲の客は、まったく気にも留めずに、茶を飲みながら会話している。


 何が起きたかわからず、ただうめき声を上げる四人を、外国人女性は見下ろした。


「今度来たら、この二階の窓から飛んでもらうわ。蝶のように羽ばたけるといいけど」


 上品に、だが不適な微笑みとも取れる彼女の笑顔を見たのが、四人のこの店での最後の記憶だった。


 四人はいつの間にか店の近くの公園にいた。


「……へ?」

「俺たち、確か、茶飲んでたよな?」

「あの女店長が笑ってたのは覚えてるが、……なんて言ってたか思い出せねぇ」

「またのお越しを……だったか?」


 四人が公園を挟んだ向かい側にある茶荘に再び向かおうとするが、なぜか足がすくんで、その方向には進めない。


 眠った覚えもない。

 どこも怪我もしていない。

 

 だが、両足の甲が歩くたびにズキズキ痛んでいた。




祁門キームン大姐ダージエ、ありがとうございました! 助かりました!」


 従業員のひとりが頭を下げた。


「いいのよ、杏杏シンシン。女だからってナメてかかる輩にはお灸を据えてやらないと」


 店長がにっこりと笑う。


祁門キームンねえさんのがあれば!」

「まさに、部分的に記憶喪失になるのよね!」


 杏杏シンシンに続いたのは、同じく従業員の春燕チュンヤンだ。


「姐さんの技には、いつも惚れ惚れしちゃう!」


 杏杏シンシンがキャッと笑うと、春燕チュンヤンもはしゃぎながら相槌を打った。


 先ほど祁門キームンが茶を振る舞っていた個室から、ゆらりと現れた。

中華界の南の方で見かける褐色の肌、艶のある黒髪にはっきりとした顔立ち。


 祁門キームンよりも女性らしく妖艶な雰囲気をまとった女性は、翡翠のイヤリングとブレスレット、髪飾りをつけ、外国人の着るような足元まで隠れた白いドレスを着ている。


「見事ね」


 鈴を転がすような声が、紅い唇の間からこぼれた。

 エプロン姿の店員たちは憧れの目で彼女を追い、客たちも思わず振り返る。


「東方美人ねえさん、まだお話の途中だったのにすみません」


「いいえ、あなたの淹れてくれたお茶だけで十分。中華式の作法も完璧に淹れてくれた祁門紅茶、とても美味しかったわ。またお邪魔するわね」


 黒目の大きな瞳に、長いまつ毛がはためく。


 祁門キームンの前を通りすがりに、東方美人は目の端で見上げ、周りには聞こえないよう囁いた。


「最近の黒豹幇ヘイバオ・パンの横行は、耳に入っているでしょ?」


「ええ。この間も、道端で話しかけてきたお年寄りたちから、困ってる話を聞いたわ」


「その黒豹幇ヘイバオ・パンがあなたに目を付けてるらしいわ。気を付けて」


 キームンの碧眼が見開かれた。


「助太刀が必要ならいつでも呼んで」

「大丈夫よ、ねえさん」


 心配そうな美人ににっこりと微笑んでから、キームンは、ふっと笑顔になった。


「そうだわ! 後で、特注した煙管キセルを受け取りに行かなくちゃ!」


 ウキウキとした彼女を、美人は小首をかしげて見てから店を後にした。

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