少女Xへの失望 本稿

 僕は、少女が何者だったのかを、ことさら分かっているわけではない。一般的なクラスメイトでもなければ、友達でも、ましてや彼女ですらもない。それは例えば、僕が学生の頃、僕のひた走る学生生活の背後に元からいたのか、それともどこかから渡り歩いてきてそこにいたのかも分からない。ただ、通りすがりの女の子だった。

 この説明は、全部“”という所有詞が隠れている。級友でも、友達でも、彼女でもない。彼女についての説明には、必然的に話者である“僕が”自分自身との関係性――つまり、僕にとって何なのか――この経過点を補わなければ、残念ながら説明することはできない。人間は不完全なのであるから、特定の人物を説明するには、その人が有名人でもない限り、自分にとって何かの説明に徹してしまう。

 で、先ほどの通りすがりという表現に落ち着いたのだが、まだ分からない。まだ言い切れない。前後の記憶は大分かげってしまって、おぼろげな記憶になっているから、それを断定することは適切ではない。

「私、“全知全能のパラドクス”って嫌いなんだけどねえ?」

 明るい声でこちらに訊いてきた。目は細まり、ボーイッシュに短く切られた髪が、風のかたちを彩った。僕は目を奪われていた。確かに河原を歩いていた。爽やかな西日が照らし、風の疾る舞台に、僕たちはいる。

 どこかの学生ではあった。制服のブラウスを着ていたし、ボストンバックを肩にかけていたし、僕と似たような年齢に見えた。いや、僕の級友の女子達と同じような顔つきに見えた。それに、ブラウスの上にベージュのような、または淡いらくだ色のようなベストを着ているキャストは、学校や通学路のそこかしこに見覚えがある。帰納法的には彼女は学生なのだろう。

「“全知全能のパラドクス”……?なんだい、それ。」

 僕は当時習っていたはずの、倫理の教科書を思い返してみたが、すぐには思い出せなかった。テスト範囲の最小限しか勉強しなかった僕にとって、全知全能とは随分に仰々しく聞こえたものだ。


「うん、例えば“全知全能”の存在、神様がいたとするじゃん?」

「うん。」

「全知全能、万能は、どんなものでも創造することができる。神様の内側に凡ての物が、性質が、所有されていて、思い通りに創造することができるとします。」

「はいはい。」

「じゃあ、例えば、“誰にも持ち上げることができない石ころ”を、神様は創造できるかしら?この誰にも持ち上げることができない、は、神様にとっても持ち上げることができない、ね。」

できるかしら?なんて、さもできないと言っているような聞き方だけれど。

「もし神様が万能なのだとすれば、何もできないことなんてないはずよ。でも、その全能の神様によって誰に持ち上げられることのできない石が、そこに創られた。分かる?ここがパラドクスなの。」

 もし石が神様に持ち上げられるなら、その石の「誰にも持ち上げられない」という性質は偽りである。だが、石を持ち上げることができなければ、神様の持つ全知全能の可能性は否定されることになる…


 何でこんな話をしていたのだろう。彼女は通りすがりの僕にこんな話をしていたのだ。そういえば僕は、晴れた日は決まって、自転車で登下校をしていたはずだ。そうなれば、自転車をどこへやってしまったのだろう。何でその河原にいたのだっけ。

「う~ん、分かりゃあしないよ。じゃあ全知全能というものが存在しない、と言うことになるんじゃないかな。論理的に見て、その二つの事実が矛盾して、同時に存在できないのなら。」

「確かに、現代でも多くの人々がこの問題に触れて、頭を悩ませているわ。でも、実はずっと昔に、この矛盾を紐解く、ひとつの解決方法が出てきたことがあるの。それが、…」

 彼女は少し歩調をゆっくりにして、さも重要なことを言うかのような雰囲気を出した。彼女の赤茶けた髪は風をぬぐい、傾けられた首の動きに従って視界の端に逃げた。彼女の像を目で追うと、彼女はニヒルな笑いを浮かべながら宙を見ている。


「それが、“聖霊”なの。」

 彼女は徐々に暮れていく空を見ていた。

 聖霊、僕はそれを聞いたことがある。社会科の教科書の原始キリスト教のページ、その「三位一体説」のなかに登場するワードだ。僕はキリスト教徒でも何でもないから、これが何なのか分からない。それが信者に崇められる、神の三つある一形態のうちのひとつなのだろうけれども、理解をつかむことができない。父なる神、それは神本人なのだろう。子なるキリスト、ナザレのイエスなのだろう。それはなんとなく分かるのだが。

「“聖霊”って、あれはどういうものなんだい?前から不思議に思っていたんだ。」

「聖霊って、要は“神様のはたらき”のこと。」

 彼女の説明によればこうだ。

 大昔、キリスト教がローマの国教になったあと、伝道師たちは広大な帝国のあちこちに布教へ旅立った。彼らは言う。「主とは全知全能の盾です。主が意味する概念は“完全”であり、この意味する所により、主とは原初に世界をお創りになり、総じて我らを統べておられます。これほど広がった世界の凡ては、遡れば主へと通じるのです。我らが主に栄光あれ。」また別の処で言う、「主とは“無限”の矛です。現在から未来にかけて、主はどのようにも世界をお創りになられるでしょう。私たち人間がぶつかる限界も、主の前には意味を成しません。主は尽きることなき光なのです。」

 それをどちらも聞いていた誰かが尋ねた。「では、神は“完全”で、既にされている御方なのに、同時に“無限”を兼ね合わせると言うのか。ならば神とはいったい、変化しない存在なのか、むしろ変化し続けている存在なのか、どちらなのだ。」伝道者は答えることができなかった。

「なるほど、それは確かにパラドックスだ。完成されていれば変化なんてしない。しかし無限であったなら、それはとめどなく変化していくように見える。」

「でもね、そのパラドックスを解き明かすため、ある学者が現れたの。」

彼女はかぶりを振って話す。土手を歩く様子を見ていると、少女は一歩一歩が小さい。それは、彼女が女の子であることを、僕に意識させるのに十分なしぐさだ。


 学者は教会に助言してこう言ったらしい。「私たちが“無限”だと思っているもの、それは本来、私たち人間の目に映って、初めて、限界なく存在していると思われているのです。やはり主とは全知全能で、それは間違いなき存在であります。ただ人間はそうではない。不完全な存在であるから、そこにギャップがうまれるのです。そのギャップに私たちは、限界の有無を見出しているのではありませんか。

 先ほどの矛盾に応えるなら、完全と無限をそれぞれ、主と、主のはたらきに分ければいい。完全であられる存在からの、はたらきが私たちの前に及ぶとき、それを無限と呼びながら、同時にそのはたらきも、崇めるべき神なのです。」

 職人の生み出した茶碗は職人そのものか、画家によって描かれた絵画はまた画家でもある、ということか。ちょっと東洋的な見方も入っているように思う。しかし芸術品の話をするのであれば、数学者によって設けられた方程式も、僕によって紡がれた思念も、また僕自身と言う事か。

「すると、さっきの全知全能のパラドックスに当てはめると、どうなるかしら。いい?あなたが神様だと仮定します。あなたは誰にも持ち上げることができない石ころを創るとします。で、石ころを創ったとき、その石ころが“誰にとっても持ち上げることができない”という性質を具えているとき、その石ころもまた、あなたの体の一部なの。

 腕が重くてすぐに持ち上げることができなくても、その腕を持ち上げることができるのはあなただけ。朝、目覚ましの音に起こされて、まぶたが重くてどうしようもなくても、そのまぶたを持ち上げることができるのは、あなただけなの。」

 誰にも持ち上げることができない石ころは、その性質を持つ以上、未だ神の一部。石ころが創られた後であっても、神のはたらきによって持ち上げることを防がれて、初めて不可動の石という結果が目の前にある。神のはたらきが及ばなくなったときに、石ころは持ち上がる。

 創り方にもいろいろあるだろう。神が誰にも持ち上げることのできない石を僕たちの前に産み出すとき、「ゼロから不可動の石を創る」ことと、「既に存在して、身の周りに転がっている石に“誰にとっても持ち上げることができない”という性質を付け加える」こと、この二パターンの選択肢がある。そのどちらの択を採っても、不可動の石はその意義を満たしている。

「つまり、それがはたらきってこと。はたらきかけることによって、石は誰にも不可動という性質を満たす。コルク板に画鋲で四隅を留めた写真は、、との目的のために、そこに貼られる。でも、私達は貼り方の見栄えを気にして、簡単に画鋲を引き抜いて、写真を動かすことができるわ。」

 …その画鋲が聖霊か。言葉が悪いかもしれないが、神は自分が石を持ち上げるときにその不可動の仕掛けを切って、でも他の人が動かそうとしたときには仕掛けを作動させる、というペテンをするのか。

 だがその“誰にも持ち上げることができない”という性質は、神以外の誰にとっても、どうしようもない事柄だと言うのか。まさしく「神だけが石に課された不可動の性質を、自由に付与し、また解除することができる」。その性質のオンオフを、万能であるがゆえに、唯一人、操ることができるというのだ。

 なるほど確かに、それでは全知全能のパラドクスを説明できている。


「…でも、それって、本当?」

 僕はわざと、やや斜に構える様に尋ねた。今彼女が言ったような形で、神とはたらきが存在しているのか。ひとえに彼女が、どれほどそれを信じているか、もし信じているのなら、困った顔をしている所を見てみたい、などとよこしまなことを思ったからだが、期待に反して彼女は即答した。

「いや本当かどうかは分からないわ。説明はできても根拠はないもの。そうでしょう?だから、三位一体“説”、にすぎないの。」


 僕は彼女の意趣返しに失望した。が、同時に彼女の返答の合理さに感心もした。失望半分と感心半分なんて、学生時代の僕にとっては新鮮な感覚だった。

 僕は彼女を軽蔑して、ふいと目を反らしながら鼻を鳴らした。だが失礼になりすぎないよう、すぐに何か探しているという様子を装い、とってつけたように辺りをキョロキョロと見回した。両手をポケットに突っ込んだ。だが河川敷には、目論見に適う水たまりも小さな江もなかったのだ。なぜそんなものを探していたのだっけ。


 “全知全能のパラドクス”を片付けてしまうには、必ずしもこの方法、はたらきを象徴化した聖霊でなければできない、という訳ではない。

 ほかのパラドックスで言えば、こんな話もある。ドーナツ問題を説明しよう。

 ドーナツと言えば、小麦粉をこねて砂糖をまぶし、輪っか状のフォルムにした、油で揚げてあるあの食物だ。夜に食べることはご法度として、憎らしくもその存在は現代まで伝えられている。中心に空洞が開いているものだから、「あの中心の穴は、存在か、無存在か」、奇しくもしばしば議題に上る。

 「穴」とは。周りから見てそこに質量をもつ物体が存在していないから、穴である。存在している筈の物が存在せず、ただ空白がそこにあるばかりである。

 しかしドーナツは中心に、穴が開いているがゆえに「ドーナツ」の定義を満たしている。もしドーナツに穴がなければ、それは揚げパンである。これゆえ、空白とはドーナツが持つ性質であり、個性である。

 更に、ある哲学者たちは言う、「ドーナツの穴を残したままドーナツを食べることはできない。」これがパラドクスになるわけだ。どこかに噛みつけば輪っかではなくなり、それに伴って穴はなくなる。輪っかとCの字は大いに異なる。もしそのふたつが同じであれば、僕はランドルト博士に「おかしなことをしないで下さいね」と伝えに行く。


 話題を戻して、哲学者たち、または偉大なる屁理屈屋たちはこの問題に挑戦する。どうやって穴を残したままドーナツを食べようか、そこここに「解釈のサーベル」を突き刺すのである。

①ドーナツの穴周辺を限界まで削り、周辺の部位を食べる

 これは厳密には食べていない。ドーナツを食べきったとは言わない。だが、その過食部分の大きな割合を食べている以上、「ドーナツを食べた」と「みなしている」わけである。「昨日の夕食にサンマを食べた」からと言って、背骨を残そうが頭を残そうが、サンマを食べた事実は誰もが認めるところである。

②ドーナツの穴を型、写真に残してドーナツを食べる

 これは上述の課題の中で、「残したまま」なる点について解釈を拡大させたものだ。何か別のものに別の形で残す、それが課題文で禁じられているわけではない。

③ドーナツを丸呑みにする

 これが最もストレートな答えだろう。「食べる」の解釈を拡大させたのだ。口から食道を通って、そのまま胃に到達すれば、それは食べたと言えるのかもしれない。

 大方こんなところだろうか、きっと人々が思い描いたドーナツの食べ方があったろう。それなら、「全知全能と無限が矛盾したとき、どの部分に解釈を広げる余地があるか」、その柔軟さの分だけ、回答は存在しているはずなのだ。白状すれば、僕は彼女から聞いたこの話しか、かのパラドクスを解決できないが、しかし彼女なら知っているのかもしれない。

 僕はなんだか、おもしろい話だなと思って微笑んだ。なんなら、月日の過ぎ去った今でも面白いと思っている。でも彼女はそれを「嫌い」らしい。「全知全能のパラドックスって嫌いなんだけどねえ。」そんな言葉が再び僕の頭の中で踊った。

 

 

 そういうことか、 人間は不完全だから、何かを説明するのにあたって、「言語という物質」に依存する。

 言語は物質だろうか。僕は物質だと思う。

 もちろん一方で、仏教においては阿頼耶識の領域、という考えがあり、つまり「人間は言語を使って考えをまとめる」のであるから、人間にとって、ひいては生物学において、言語とは相当度に高度な、進歩的なツールだろう。こんなことを二千五百年前から考えていたお釈迦様にはまったく頭が上がらない。そうして頭の中で考え事が完結するのであれば、言語は一見物質ではないように見える。それも一理ある。

 だがそれでも、僕は物質だと思う。少なくとも私たちの前に姿を現すときは、物質としての形をとる。例えば、書きことばだ。「白い紙に白い文字を書くとき、僕の書いた言語は君に伝わるだろうか?」ということだ。これは文字を私たちが識別するときに、読み取る上で光の反射率に如実に影響を受け、また妨げられるという罠でもあり、目を通して文字を読む以上は、書きことばは物理法則の支配下にある。

 次に、話しことばだ。「真空状態にいるとき、僕の声は君に届くだろうか?」ということ。声とは空気を振動させて、波線形に直進する運動であり、それは話者が真空状態にあっては、その運動は起こらない。また、水中にいてもそれは同じだ。人間が生活環境を地上で築き上げたからである。ひとたび海へ潜れば、何を喋っても聞こえるわけがないが、逆に海で話すとされているイルカやクジラたちが、仮に地上に上がってきても、やはりお互いにコミュニケーションを取ることには苦心するだろう。

 最後に、書きことばと話しことばに共通していることは、情報の発信者と受信者がお互いに「共通の知識」を有しているということが肝要である。私たちがヒトと発音したときは、受け手は満足に人を思い浮かべるだろう。それは人をヒトと読むことがお互いに分かっているからである。

 このように私たちが普段文章を会話したり、読み書きしたりするのは、半無限級に繰り返される連続の約束事から成り立つのだ。もしこれが英語話者であれば、heatと聞き間違えるかもしれないし、カタカナを全く知らない人であれば、左矢印と上矢印に見えるかもしれない。一昔前には「空耳」という流行もあった。世代間の差で語彙の伝達に齟齬が発生することなんて、例を挙げるまでもないだろう。これは「人の物を盗んではいけない」ことが、悪いことであると誰でも教えられるように、物質としての人間が後発的に生み出した約束事に基づくものである、と僕は考えた。


 他方で、もし完全な存在が、僕たちを鶏始点トップダウンで創造したのだとしたら?言語とは、僕たちが長い進化の過程で獲得したものであることを見てきた。だがその進化の設計図を書き、獲得を実際的に倫理的に、許可及び保証した、全知全能な第三者が存在【∃】していて、人間が言語を手に入れたことに喜び、歌を聞いてまどろみ、陰口を聞いて「そんなことをする為に言葉を与えたと思うのか」と悲しむ、造物主がいたとしたら?

 僕は完全を愛した。どれほど陰口を叩かれても、どれほど悪口を苛まれても、決して自分が傷つかないところまで行こう。振り切ってしまおう。それが不完全な僕が完全という概念に恋焦がれ、完全を目指す理由だ。

「いったい、君は神にでもなるつもりかい。人間は神にはなれはしないんだよ。」

 今日の夕方言われた言葉がよみがえった。面接先で会社の役職者に言われたことばだ。あまりの声量から、ほぼ叱責されたようなものに感じた。役職者はそのまま荒っぽく部屋を出ていき、部屋に残った人事部社員が「まあ、そういう考え方もあるよね。僕はそうは思わないけどね。」と焦りながら取り次いでいた。

 僕はと言えば、閉ざされた扉をただ呆然と見ることしかできなかった。まるで失恋を逆なでされたかのような言葉だった。「自分が不完全な存在であること」、それは僕が最もよく知っていることだ。そんなことをあなたに言われる筋合いはない。

 僕は死後、神様の最も近いところに帰りたい。決して僕や僕にとっての大切な人が、傷つけられたからと言って、それで心を焦がすことなく、痛めることもなく、なおいたわり続けることの美しさを、僕は誰かに知ってほしい。

 僕は、答えることができなかった。「なぜ不完全な自分であるにも関わらず、完全に惹かれていくのか?」ということ。

 だからあの面接官に、強烈な嫌悪感を抱いた。僕が何を言い、彼は何を言いたかったのか。答えを準備していなかったという不完全のためにこんな気持ちにさせられたのか。だったら憎まなければならないのは、他者ではなく自己であるはずだ。


 なぜ不完全な人間であるのに、僕は完全を目指して自分を整えようとするのだろう。どうやら神は三位一体を取るらしい。では人間も俯瞰して、また三位一体という形を取るなら?

 神が、父なる神(全知全能)、子なるキリスト(神と人間を結ぶ接点)、はたらきの聖霊(無限)からなるのであれば、僕たち人間もその形で言い換えることができるだろうか。「不完全であること」は存在として決定されている項であり、「完全を目指して修身に励むこと」は、はたらきであるように見える。

 では、子なるキリストに対応するようにして、僕たちが持ち合わせているものはなんだろう。

 神への「信仰」か?ああ、ありきたりな答えだ。この世界は先進的過ぎて、「信仰がなぜ大切か」は答えつくされている。説教じみていてつまらないが、他に何かないだろうか。

 「原罪」か?キリストは「罪を贖う」という内容で私達に神の威光を知覚させようと働きかけた。いいや、キリストが「罪を贖う」という形で、二千年前に降臨し終わったのであれば、既に失楽園にかかる罪は、キリスト生誕という事実自体がそれを清算する目的として説明されているはずだ。一考の余地こそあれ、不満足なものである。

 では、「死」はどうだろう?神か閻魔様の分かつ裁定、此岸から彼岸に渡る移動そのもの、すなわち善悪という結果への審判を聞きに行く「死」という移動が、受肉に対応しているとしたら…?僕はなんだか、人は不完全だから死ぬと思っていたのだが、もしも神が有限の人生のピリオドとして、人間に死を贈ったのなら、神は死を手にすることができるのか?また新しいパラドックスが生まれそうだ。

 結局、結論なんて分からない。そう締めくくったのは、彼女を思い出していたからか。僕にとって結論なき不完全な議論とは、いまだ悩み続ける、ドロドロと混ざり合った油絵具の往復だ。書きかけの絵画は絵画ではない。

 聖霊をめぐる審問だって、結局のところキリスト教徒全員が納得したわけではない。西側教会でその議論がもてはやされた後も、そのあと歴史が流れるにつれて、多くの別解釈が流れた。盾を贔屓したばかりに、矛をメインで売っていた武器商人たちは立ち止まらざるを得なくなっていった。そうして多くの者が、異端としてお互いを否定しあい、最後には広大な帝国が東西に分裂シスマ≒ラスコーリニキするに至る。

 「ローマ帝国は聖霊に殺された」、そう言っても過言ではない。何せ国家ごと東西に分裂する遠因になってしまったのだから。それほど収拾がつかなくなってしまうくらいなら、今答えを出すことが、必ず良い策でもあるまい。死ぬまで考え続ければいい。

 結論なんて分からない。まったく、自分でも信じ続けることができない問題を抱えているのなら、どうしてあの少女に失望なんてできるだろうか。


 他人は僕を「大人しくて行儀のよい、お利巧な子だ」なんて飾り立てるが、自分の身勝手さを嫌と言うほど僕自身が見てきているのだから、今になって皮肉な笑いを抑える事なんてできない。酔っぱらった頭で、暗い部屋で、僕は部屋にひとり、からからと笑った。

 ふいに閃いた。胸が震えた。

「そうだそうだ、思い出したぞ!僕は下校中にあの女の子に偶然出会ったんだっけ。いきなり飛び出してきたものだから、危ないと思ってブレーキを踏んだ。」

 思い出された彼女との出会いは、大事なことでも、珍しいことでもなかった。ぶつかって幽霊として現れたとか、僕の方が幽霊だったとか、そういうオチじゃあない。幸い事故になることなく、きちんと止まることができたんだ。大事なことじゃなかったから、忘れたままにしていも、別に良いことだったのだ。

「そうしたら、足の裏からカサッ、て感触がして、足元を見たら、犬か猫か分からないけど、動物の落とし物を踏んでいたんだ。なあんだ、てんでくだらない話じゃないか。」

 なんだか楽しくなって、薄明りの灯る部屋の中で、僕は笑っている。ちょうど藤子不二雄A先生が描くような、コミカルに「まとめられた」笑い方をしていた。すっかり気の晴れた僕は、もう一度飲み直すべく、酒に向き直った。

 記憶の中の彼女は、自転車の急ブレーキに驚いて、小さな声で「すみません」と言った。そして僕の仰天した視線を追って、僕の足元を見た。するとどうだろう、不謹慎なことに彼女は僕の悲劇を笑い始めた。

 まるで花が咲いたみたいに笑った。そのあと、自転車を施錠して、どこかに靴を洗える場所はないかと、二人して階段から土手を上った。実際に流れる川は、土手からずっと離れたところにあるし、夏を前にした草がぐんぐん育ち、藪が低木のように遮っていたので、まっすぐに川べりに向かう事ができなかった。僕たちは手を伸ばせばすぐに洗えるような、水の入り込んでいる小さな江を探して並んで歩いた。

 お互いがお互いの不注意を詫び、「人間とは不注意なものだから」なんて笑いながら、水を求めて歩いたんだ。そうか、そこで登場した話だった。全知全能のパラドクスが、「ただいま」と顔を出した。


 今思い返せば、彼女は何だ、何者なのだ?僕にとっての想い人か?

「まさか、そんなわけなかろう。ははは。」とか、「はいともいいえとも答えることなく、…」なんて、ベタな締め方で、僕はこの話に幕を下ろすことにしようと思う。回顧録なんてそういうものだ。

 僕は彼女と一度しか会ったことがないし、名前も知らない。覚えている事と言えば、こんなくだらない会話をしたことと、彼女が年相応と思われる、可愛い笑顔を持ち合わせていたことくらいだ。

 机脇に押し込められた、デジタル時計を見た。この日も帰宅してから“ひとかたまり”くらいの時間が過ぎていた。画面の右下に、小さく今日の日付が西暦から記載されていた。













 そうだよ、そうだ!好きだった!僕の大好きだったはずの人だ。僕の初恋で、彼女こそが僕の世界を彩っていたんじゃないのか。ことある度にあの光景が、あの声が、あの切り取られた一コマきりの時間が、僕の生活の大部分に割り込んできてしまって、大迷惑を被ったじゃないか!

 でも僕は、何と言って彼女と友達になればいいのか分からなかった。だから、忘れたんじゃないか。僕の恋心をなかったことにしたかった、そうして忘れることで、この思念を消そうとしたんじゃないのか!

「裏切者!」

僕の中のどす黒い怪物が、僕のことを罵った。しかし涙交じりの声だ。

 うるさいうるさいうるさいうるさい、うるさいんだよ!そんな声で僕に泣きついてくるんじゃない!彼女は僕にとって、大切な人になりかけた。僕の世界観に土足で割り込んできた。しかし、僕にとっては由々しきことだ。そうだろう!?僕はひとりの人間に過ぎず、彼女の一生の全責任を負うこと、その重さに恐れおののいた。その忘却は、責任を知覚し、貞節を保ち、煩悶する時間を自己投資に充てるという美しい習慣の為にしたことだ。

 僕の想い人?ばかばかしい。僕は彼女を始めとした、あらゆる人々に所有格をかざしたくない。所有欲求などという醜いまがい物が、いくら僕を怒鳴ろうと、貴様のような怪物を、表層部だろうが深層部だろうが、意識中にのさばらせておくわけにいかないから忘れたのだ!

 一人の女性に添い遂げることなど容易い。しかしそれは相手に添い遂げさせることでもあるのだ。そんなことができるものか。僕は不完全な人間として、この僕という命を、神から預かり頂いたのだ。だからこそ、人間と言う不完全な存在ながら、神に向かって時間を投資してきた。限られた時間であるから、精神的な研鑽に努めたかった。彼女に触れることで、僕と神との関係性を切り捨てられることがないように。


「忘れろ、忘れるんだあんな女は…!」

 ドーナツの穴は埋まらない。

 引きつった笑みを顔に張り付けて、僕は再びグラスを指の腹で官能的になぞる。そして酒に唇を付けた。まるで毒物か何かのような、熱情のカルヴァドスが、僕の舌と喉をゲゲナ的に燃やした。これが本当の「燃える舌」か。どんな名酒も、どんな屁理屈も、あの名も知れぬ少女の代役なんて釣り合いやしないのに…。分かっちゃあいるんだよ、そんなことはね。

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少女Xへの失望 繕光橋 加(ぜんこうばし くわう) @nazze11

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