少女Xへの失望

繕光橋 加(ぜんこうばし くわう)

簡単なプロローグ

 アリストテレスは笑っている。

「序、ソクラテスは人間である

 継、人間は皆死ぬ

 結、ソクラテスは死ぬ   」

これが演繹法の説明として、最も慣れ親しまれた例文だろう。教科書をめくればひとりでに目に飛び込む、といったら誇張だろうか。


 しかし僕はこの論理ロジックの言わんとしていることを知っている。いま僕は論理と言う言葉を充てたが、数学を主として学んだ人間は「数字や数学記号をこそ論理と言うのだ」と手を返すかもしれない。だが、こと文系においては「ある一定の形式に則って考えられた文章」もまた、慣習的に論理と呼ぶので、そこはあまりごねないでほしい。

 演繹法をして「それたらしめる定義」は、結論を刻む前の二項目のうち、後者が前者の必要条件を満たす必要がある。例えで言えば、ソクラテスもまた死ぬという事実を説明するために、序でソクラテスより広い“人間”という定義でソクラテスをかこみ、継で確たる事実、必要十分条件を述べ、そして結を導いてきたわけである。

 裏を返せば、序にあって、より狭い範囲の対象を比較しては演繹法にならない。ましてや継にあって、トンチンカンなことを言ってもいけない。


 …などと、こうして注意深く分析すると、なおいっそうふらふらとしたような気にさせられて、僕は飲み残したモルト酒の瓶をコースターに置いた。せっかくのフランス産の輸入酒だが、いまはこの濃厚さを飲み干すことに躊躇する。

 ただ就活が上手くいっていないだけなのに、これほどまで暗いことを考えているのだから、現代の日本の就活システムそのものに、僕はきっと向いていないのだ。窓の外では冷たい風が、地上階へと続くステンレスの手すりをもてあそんでいる。


 どうやら人間はみな死ぬらしい。神様であれば死なないのだろう。僕たちは人間と言う不完全な存在だから、死ぬのだ。必ず死ぬ。形あるものに終わりがある、それは世の理で、僕たちにはどうすることもできない、受け入れるに栓なき事だ。

 こんなことを考えていると、僕はよくこんな光景を思い浮かべる。僕はここに立ち止まって動けなくなり、あたかも後ろから歩いてきた人、向こうへと歩いている人々が、僕を追い越していくような、そんな透影だ。彼らと僕は具体的に出会ったわけではない。僕を追い越していくのだから、目で僕を見ていても、存在を意識してすらいなくても、決して不思議なことではない。

 でも、僕は彼らの歩く様子に怖さを見る。どうしようもなく怖い。僕はおいて行かれることなんかは、本当はどうだって良いのだが、目的があってここに留まっているわけではないのだ。理由があって歩いていないのではなく、歩き始める、踏み出す能力がない。僕はその自らの能力の不足を、他の人々と比較してしまい、怖いのだと思う。


 デカルトも笑っている。

「われ思う、故にわれあり」

 周りのすべては実体無き幻影であろうか、ひらひらと舞う胡蝶の夢か。しかし、たとえそうであったとしても、自分自身が考えている。人間とは思念体である。思考する存在である限りにおいて、自分の実体は翻ることなくここに立っている。

 この事実が“自分にとって自分を認識することができる”無常の瞬間であるのだとしたら、僕は彼のように自分を見つけることを、うれしいと思うことができるだろうか。いずれ堕ちるにも関わらず、はたはたと蠍火が燃えている格好を、「美しい」なんて思うように。

 穏やかにしろ急にしろ、「いずれ人は死ぬ」という宿命は、星さえ逃れられぬ鎖。


 僕はひとりの少女を思い出す。彼女は僕よりもずっと聡明に見えて、しかし僕と同じように、不完全なひとりの人間と言う外皮に押し込められた、かよわい少女にすぎない。でも、彼女の存在は僕に強力に働きかける。いったい彼女がなんだったのか、誰にも分かりやしないのに。

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