彼の原稿は採用されて、一冊の本になることが決まった。そして、わたしたちは別れた。

 それがわたしが取り決めた自分との約束だった。駄目だったなら、また次の小説が完成するまで彼のそばにいる。もし採用されたなら、わたしは自分の生活に戻っていく。

 彼は自分の作品を世に出すことに夢中で、他のことはすべてうわの空になっていた。だから、わたしの申し出にもあっけないほど素直に従った。あのときと一緒。こうなったときの彼は、頭の内と外が裏返ったようになって、日常のすべてをおざなりにしてしまう。


 本はさして売れなかったけど、映画になることが決まって、彼は脚本を書くことになった。ぐるりと巡って、彼はふたたび自分の居場所に戻ったのだ。

 アイルランドが舞台のこの映画は、この国よりもの地で評判になり、彼は小説の第二作をダブリンで執筆することになった。それも映画化されることがすでに決まっていた。

 そうやって、彼は約束された場所に向かって着実に上り詰めていった。


 わたしは彼の活躍を誇らしく思いながら、自分にふさわしい、地に足のついた生活を送っていた。あの恋人になりかけていた先輩とは一、二度一緒に食事をして、それっきりになってしまった。好意から先の感情に自分たちが行き着けないことに気付いて、わたしたちは無理をしないことに決めた。彼は鏡に映ったもうひとりのわたしだった。あとさき考えない生き方にもあこがれるけどね、とあるときそのひとは言った。でも、不慣れなことはしない方がいい。勇気とかの問題じゃなく、むしろこれは宿命みたいなものかな。

 分かります、とわたしは言った。とてもよく。


 そんなふうにして、わたしの二十代の終わりの日々は静かに過ぎていった。

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