第3話ミリアの旅立ち

 領主の館に連れ去られた日の翌朝、ミリアは行った時と同じ古ぼけた馬車に乗せられて、家に帰された。


 帰り際に着せられた、飾り気のないワンピースは純白で、くるぶし丈の裾がふんわり広がっていた。


 青ざめたミリアの目からは、今にも涙がこぼれそうで、付き添ってきた領主の使用人に促されて、おぼつかない足取りで馬車を降りた。


「領主様は、だいぶご満悦であった、ほれ、祝儀だ」

使用人は、迎えに出て来た両親の足許に、二枚の金貨を投げた。


「とは言っても、肝心の花婿がいなくなったみたいだが。領主様は、側女そばめになら屋敷に置いてやっても良いと仰せだ。考えておくといい」

そう言い捨てると。ミリアを置いて帰っていった。


「アルフはどうなったの」 

ミリアは、出迎えにきた両親の前に立つと、尋ねた。


 両親は顔を見合わせて、それから、二人とも首を横に振った。

「そう……」

彼女は、まだ何か言いたそうに口ごもったが、ため息を一つついて、ゆっくりと家に入って行った。



 夜半を過ぎた頃、ミリアは台所にいた。

そっと引き出しを開けて、野草などを採集するための小さなナイフを取り出し、エプロンのポケットにしまった。


 棚の上にあったかごを、テーブルに下ろし、上にかかっていた生成りのクロスをぐと、手のひらほどの平たいパンが、八つ入っていた。

その中の二つを、持っていた野菜収穫用の麻袋に入れ、そっと籠を棚にもどした。


「もう必要なくなったし、これも一つ持って行くわ」

ミリアは、独り言をつぶやいて、籠の横にあった、五つのブリキ缶のうちの一つも麻袋に入れた。


 それは、野苺ジャムのクッキーが入っている缶だった。結婚式のお客様をもてなすために、心をこめて焼いた、ささやかなご馳走だった。


 ミリアは静かに寝室にもどると、部屋を見回した。

簡素なベットには、彼女が手ずから端切れを集めて縫った、パッチワークの上掛けが掛かっていて、わらを入れた枕のカバーにも、花の刺繍が施されていた。


 ベッドの上には、領主の館で着せられた白いワンピースが、きちんと畳まれていた。

ミリアは、どうしようかと迷ったが、売れば路銀になるかもしれないと思いなおして、麻袋にしまった。


 領主の側女になるくらいなら、死んでしまったほうがましだと、ミリアは思った。だから、逃げ出すつもりで、準備していたのだ。


 両親と離れるのは、身が引き裂かれるほど辛いことだが、彼らの生活は、領主の使用人が投げてよこした金貨で、なんとかなるだろう。


 アルフはどうしているだろうか、私のために、領主に逆らい、兵まで殺してしまったのだ、無事でいることはないだろう。ミリアは、何もできなかった自分を責めていた。


 ひとまずは、このフォルム領を出て、領主の目の届かないところへ行ってしまいたい。湖にでも飛び込もうか、森の中でひっそり息絶えようか、どうするかは、その時考えるつもりだった。


 ミリアは、そっと部屋のドアを閉めた。

足音を立てないように歩き、心の中で両親に別れを告げながら、裏口から外へ出た。


 空には上限の月が、あたりを照らしていた。どちらへ向かおうかと迷って、月のある方向へ、道に沿って歩き出した。

日が昇る前に、できるだけ家から離れておきたかった。


 月明かりのおかげで、暗い夜道でも道をそれずに歩いて行けたが、いくら体を動かすことを厭わない、農民の娘とは言っても、一晩じゅう歩き続けるのは無理だった。


 二刻も歩くと、肩に掛けた麻袋がしだいに重く感じられるようになって、足が止まってしまった。


「これじゃあ先が思いやられる。フォルム領の境界ってどのあたりかしら」

ミリアはひとりごちて、道端に座り込んだ。


 土地について、知識があるものと言えば、旅の商人か、それとも支配階級の者だけだろう。

農民の多くは家のある近くでだけ暮らし、ほとんど自給自足の生活だった。


 近隣の街や村へ行くことさえ少なかったので、ミリアには、これからどこへ行こうか、という目的も定められなかった。


 領主から、あのような屈辱を受けたことは、思い出さないようにしていた。悪夢だったとして、無かったことにしてしまいたい。


そう強く願ってはいたが、こうして何もしないで座っていると、勝手に体が震えてくる。


 ねっとり湿った息遣いや、あのおぞましい太った肉が、肌を這う感覚。ぼろ布のように乱暴に扱われた悔しさは、体の芯にまで染みついていて、恐怖と、嫌悪と怒りとが、入り交じった、強い感情が渦巻いていた。


「ダメだわ…‥」

体は休めたいけれど、このまま座っていては、気がおかしくなってしまう。


ミリアは麻袋から、水を入れた革袋を出して、一口飲むと、立ち上がった。

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