第9話 召喚

 その頃アメンナクテの工房では、宮殿からセティ一世の使者が来て、アルウにすぐに宮殿に来るよう伝えていた。

「お祖父さん、お母さん、王様からお呼びがかかったよ」

「まあ、何でしょう。戦争じゃないでしょうね」

 ヘヌトミラは夫を戦争で失っているので気が気ではなかった。

「心配ないよ。僕は職人だから」

「お祖父様、大丈夫でしょうか?」

「オシリスだろう」

 アメンナクテは長くてたっぷりの白い髭を右手で繰り返し梳いた。

「オシリスがどうしたのですか?」

 ヘヌトミラにはピント来ない。

「いよいよアルウの出番じゃ」

「僕の出番?」

 アルウの右の中指には、小さな頃、セティ一世からもらった王家の紋章が刻まれた金の指輪が光っていた。

「子供の頃おまえが王様と約束したことだよ」

「オシレイオンのオシリス像を造るというあの約束ですか?」

「そうだ」

「……」

 アルウは長い沈黙の後、力のこもった目で祖父と母を見た。

「必ず世界一のオシリス神像を造ってみせます」

「おまえにわしの職人としての技術を全て伝授した。自信を持つんだ」

「はい! お祖父さん、ありがとうございます」

 アルウは涙を流しながら祖父のごつごつした硬い手を握りしめた。その手は長年職人として生きてきた証しだった。

「くれぐれも粗相のないように」

 ヘヌトミラがアルウを抱きしめた。

「兄さん、頑張って」

 すっかり笑顔が戻った妹。

「ムテムイア、あとを頼んだよ」

「はい」

「お祖父さん、お母さん、ムテムイア、行ってきます」

 アルウは家族に手を振りながら玄関を出た。すると王様の家来が馬車で待っていて、アルウが馬車に乗り込むとすぐに王宮に向かって走り出した。

 一方、王宮ではセティ一世がアルウが来るのを待ちわびていた。なにしろナイルの辺でオシリスの黄金像と王の指輪を交換して以来九年ぶりのことだったからだ。

 王宮に着いたアルウはすぐにセティ一世に謁見が許され玉座の間に通された。 

「アルウでございます」

 王様の前でアルウは跪き頭を下げた。

「久しぶりだな」

 そういってセティ一世はアルウを見つめた。

「お久しぶりでございます!」

 アルウは恐縮しさらに深々と頭を下げた。

「頭を上げよ。近うよれ」

 セティ一世は親しげに微笑むと玉座からアルウを手招きした。

「わしとの約束を覚えているか?」

「もちろんです」

「わしはおまえとの約束通り、あの黄金のオシリス像をオシレイオンの地下に安置した」

「ありがとうございます」

「今度はおまえに約束を果たしてもらうぞ」

「オシレイオンにエジプト一のオシリス神像を造ってみせます」

「その返事が聞きたかったのだ」

 セティ一世は笑った。

「オシレイオンのオシリス神の像をはじめ、アビドスに建設中の神殿や葬祭殿のオシリス神の像、レリーフの全てをおまえにまかせる」

「ありがとうございます!」

 アルウは躊躇しなかった。自分にはオシリス神がいつもついている。そう信じる心のほうが不安や恐れより遙かに大きかった。

「アビドスへ行け」

「畏まりました!」

 アルウは再度跪いて頭を下げた。

 こうしてアルウはその一週間後にはアビドスへ旅立つことになり、セティ一世の肝いりの事業であるセティ一世神殿の建設に携わることになった。

 アビドスはオシリス信仰の中心地で、エジプトのさまざまな地域から巡礼者が訪れるメッカのような場所だった。セティ一世はオシリス神の墓があると考えられていたアビドスに壮麗なセティ一世神殿を建立することにより、アクナテン王時代の宗教改革によって破壊された伝統宗教の復興をなしとげ、オシリス信仰を盛り立てようとしていた。そのため彼はエジプト全土から腕のいい建築家や職人を集め神殿を造らせていたのだ。

 

 家に帰るとアルウはすぐにティアと一緒に、亡き父が葬られているオアシス近くの小さな墓地に行った。

「父さん、ついにアビドスに行くことが決まったよ」

 アルウは優しかった父親の姿を思い出し涙ぐんだ。

「がんばってね。あたし、信じているわ」

 ティアは大きな黒い瞳に涙を一杯溜めて微笑む。

「ティア、どうしたの? 何かあったの?」

「ううん。なんでもないわ……」

 ティアは黙って俯いた。

「ティア……」

「嬉しいの。あなたのことが」

 ティアがやさしく笑う。

「ありがとう」

 安心してアルウも笑顔になった。

 二人はしばらくのあいだ夕暮れの砂漠を眺めていたが、アルウは急にティアのほうを振り向き、「愛してる」と言ってティアを強く抱きしめ接吻した。

 それから二人はオアシスの茂みの中で激しく抱擁し合い溶け合った。


 パシェドにとってアルウのアビドス行きなど初めはどうでもよかった。ところが妻のヘリアはアルウの異例の出世を我慢ならなかった。

「どうして王様はパロイをお呼びにならないの」

 また始まったかとパシェドは眉間にしわを寄せ、聞こえないふりをしながら読書をした。

「あの泥棒小僧がどうして王様に気に入られるのか理解できないわ!」

「我が父、アメンナクテが裏から手を回したのだろう」

「そんなことまでして、なぜあの盗人乞食の母子を助けるの?」

「アルウやムテムイアは兄じゃの忘れ形見だからな。親父も甘くなるのだろう」

「そんなパロイだってお祖父様にとって可愛い孫ではありませんか」

「わしらは親父を裏切り工房を飛び出して独立したんだ」

「だから何だって言うの? それはあなたとお父様の問題で、パロイには関係ないことだわ。お祖父様にとってパロイが孫であることに変わりないわ」

「俺にどうしろというのだ」

 ヘリアのヒステリーにパシェドはお手上げだった。

「我が子が可愛いのなら、それはあなたが考えることでしょう」

「パロイをアビドスの職人集団に加えるようウセルケペシュ様に頼んでみるとするか」

「あたりまえでしょ! 今すぐにお願いします!」

「パロイも一人前の職人に育ってるからな」

「パロイはエジプトで最も優れた職人です」

「わかっておる」

 パシェドは早速にパトロンのウセルケペシュに、息子をアビドスの職人集団に加えてもらうよう相談しにいったのだが、セティ一世の承認がいるからと話はなかなか進まなかった。実はウセルケペシュはパシェドの工房以外にも数件の工房に投資していて、それぞれの工房に異なる専門の、腕のいい職人を雇っていた。彼は宝飾品をはじめとする芸術性の高い作品を匠に制作させて販売し莫大な利益を得ていたのだ。当然自分の工房から腕のいい職人が抜けることを彼は激しく嫌がった。

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