第3話 モラルハザード

 大学教授Xが私たちに対して起こしてきた騒動は多岐に渡っている。

 公務員志望学生追放事件、忌引や病欠認めない宣言、自身が担当している講義を学生に丸投げした事件、就職活動の妨害工作、卒論ちゃぶ台返し事件……。

 その中で、私が特に印象に残っている出来事を今回は紹介したいと思う。


 2011年末。いつものように携帯にヤツから連絡が入った。

 この頃には、ヤツの着信が入ると、私の体はなぜかガタガタと震えるという症状に襲われていた。

 ヤツからの電話はろくなことにならないとわかっていたので、体が自然と拒絶するようになっていたのだと思う。


「どうせ暇だろ? すぐに研究室に来い! 面白い実験を見せてやるよ」


 ヤツの言葉は絶対だ。

 卒業が目前に迫っていたので、ヤツの機嫌を損ねるようなことがあれば間違いなく卒業に響いてくる。ヤツに卒業を人質に取られている以上、拒否権なんて存在しない。


 私はおとなしく大学へ向かうことにした。



 大学最寄り駅の改札付近で、偶然にも同じゼミの池田くんと遭遇した。話を聞くと、彼もXから呼び出しを受けたという。

 研究室までの道すがら、私たちはああでもないこうでもないとヤツが何故呼び出したのかについて無駄な考察をした。


 研究室に入ると、既に我ら以外に2名の人間が。片方は毎度おなじみ秋山さんだ。もう片方の人は、申し訳ないが名前を覚えていないので省略する。


 程なくして、ヤツが研究室に姿を見せた。ヤツの手元には、A4のペラ紙1枚があった。


 ああ、そうか。

 ヤツはこれから私たちの卒論を1行1行徹底的にダメ出しして心を折るつもりなんだ。

 私はそう予想を立てた。


 ところが、この予想は大外れだったのだ。


「昨日、俺のところに他の研究室の学生から助けを求めるメールが送られてきた」


 他の研究室の学生が、こいつに助けを求める?


 Why?


 なぜ?


 よりにもよって、こんなハラスメントの塊のような人間に助けを求めるなんて見る目がなさすぎる。


 ヤツは続けざまに、我々に向かって言葉を発してきた。


「おい、池田! お前にはちょっと早いが卒業祝いをくれてやる! 送られてきたメールを音読できる権利だ!

 どうだ、嬉しいだろう?」


 こいつはまた突拍子もないことを言い出しやがったぞ……。


 ヤツはそう言い終えると、池田くんにペラ紙を手渡してきた。


「池田、その紙に書いてあるメールの内容を大きな声で、他の奴らに聞こえるように読め!

 ただし! メールに書かれている学生の名前なんかの個人情報は読むなよ?」


 モラルハザードの始まりである。個人情報を気にするくらいなら、送られてきたメールを音読させるなよと言いたかった。

 もし、ヤツの命令に逆らったりしたら、


「お前らを卒業させる権利を有しているのは俺なんだ。音読しないなら卒業させないぞ!」


などと怒鳴りつけられるのがオチである。


 池田くんは立ち上がって、ペラ紙に書かれているメール内容を読み上げ始めた。


「X教授、助けてください。私の研究室の担当教授のハラスメント行為から、私たち学生を救ってください」


 この文言を聞いた瞬間、思わず笑ってしまいそうになった。常日頃から、学生に暴言を吐き、人格否定をしているコイツにハラスメントの相談をするとは……。

 どんな漫才やコントよりも滑稽で仕方がなかった。


 池田くんは淡々と学生の訴えを読み進めた。


「毎日朝早くに研究室に来いと命令されています。研究室に行けば、すぐ教授に怒鳴りつけられます。

 教授が気に入らない出来事があると、教授はキーボードを殴りつけ、キーボードを破壊する行動を取るのです。

 その度に、私たち学生は教授から罵声を浴びせられています。教授の暴力や罵声、理不尽な命令に耐えられそうもありません。

 どうか、私たち学生を救ってください。お願いします。このままでは卒業前に、学生全員がくたばってしまいます。

 助けてください」


 池田くんはペラ紙をXに返却すると、椅子に座った。

 別の研究室からのSOSに対して、X教授はどのような対応をするのか。集められた学生4人が沈黙を貫く中、ヤツが口を開いた。


「いいか、お前ら! これが、ハラスメントって言うんだよ!」


 驚いた。

 コイツの辞書にはハラスメントの文字が存在しないものだと思っていたが、ハラスメントという概念は持ち合わせていたらしい。


「俺が普段、お前らに『死ね』だとか『生きている価値がない』、『単位がほしけりゃ俺の言うことを聞け』とか言っているのはハラスメントでもなんでもないんだよ!

 お前らは普段、このメールを俺に送ってきた学生のように苦しんでいるのか? 苦しんでいないだろう? 全員健康そうな面構えじゃねえか!

 だから、俺の普段の言動は何にも問題はないんだよ!」


 まさかの自己正当化である。

 コイツは、他所の研究室から届いた緊急を要するメールすらも自身を正当化するための道具として使い始めたのだ。


「俺はお前らに暴力的な態度を取ったことなんて一度たりともない!」


 真っ赤な嘘である。

 同じゼミに属している秋山さんが最初にコイツの研究室を訪れた際、コイツは秋山さんを脅すために移動式のホワイトボードを思い切り蹴り飛ばして破壊しているのだ。

 それは暴力に含まないのだろうか。

 そんなことを考えていると、ヤツはさらに話を続けてきた。


「もし、お前ら4人の中に俺がハラスメントをしていると思う奴が1人でもいれば、俺はすぐにこの職を辞めてやる!

 てめえらみたいなゴミに俺の普段の言動をハラスメント扱いされる生活なんざこっちから願い下げだ!」


 散々な言いようである。

 ヤツは右端に座っていた秋山さんから順に、自身の日頃の行いがハラスメントであるか否かを確認し始めた。


「秋山! 言え!

 俺の暴言はハラスメントなのか!?」


「ハラスメントじゃありません!」


 はぁ……。

 流れ的に、ここで「あんたの言動は明らかにハラスメントだろ!」などと答えれば、ヤツに何を言われるか、何をされるかわかったものではない。

 口答えすれば確実に卒論を受け取ってもらえなくなる。この詰問は、ヤツから我々学生に対する緩めの脅しだ。


 秋山さんの次の学生、そしてその次の池田くんも全く同じ質問をされ、全員がハラスメントではないと回答した。

 そしていよいよ、私が答える番である。

 握っていた両手はじんわりと汗をかいていた。



「中村ぁ!

 俺がお前に対してハラスメント行為をしたことはあるか!? 言ってみろ!

『死ね』とか『くたばれ』、『自ら命を絶て』なんてことを言ったのはハラスメントにはならないよなぁ!?」


 どう考えてもハラスメントだが、ここでNoを突きつければ私はまた半日以上軟禁されることになるだろう。


「もちろん、ハラスメントじゃありません」


 こう答えるしかなかった。

 これまでヤツから受けてきたハラスメント行為の数々が走馬灯のように頭を駆け巡った。

 本当は「お前の言動はどう考えてもハラスメントだろ、バカヤロー!」とぶちまけてやりたかった。

 ぶちまけられなかった弱い自分が、悔しくてたまらなかった。

 でも、言えなかった。

 私はヤツを心の底から恐れていたのだ。

 ヤツがいない場所では、他の学生と一緒になってヤツの所業を糾弾していたことだってある。

 でも、当人を前にすると、恐怖が全身を走り、逆らうことができないのだ。全身に力が入って、硬直し、どうしようもなくなってしまうのだ。


 もし逆らえば、留年させられる。


 卒業できなくなる。


 それどころか、精神的にどうにかなってしまうまで追い込まれてしまうのではないか……。


 私の心の揺れ動きとは裏腹に、ヤツは私の回答に満足したらしくニヤリと笑い、深く、深くうなずいた。


「そうだよな。俺もハラスメントにならないと思っていたんだ。ここにいる全員が俺の言動はハラスメントじゃないと認めた。

 ということは、俺の言動はお前らにとってハラスメントではないということだ。ハラスメントは受け取り手側の問題なんだろう?

 俺の発言を聞いた受け取り手のお前らがハラスメントじゃないって言うんだから、俺はハラスメントなんてしていないということだ!

 いいか、お前ら! もし、俺の言動がハラスメントだと思う学生が1人でも出たら、俺はお前らを全員道連れにして大学を辞めてやるから覚悟しておけよ!」


 ヤツはそう言い放つと、またいつものように我々に対して人格否定の言葉のラッシュを始めた。


 ヤツの放言地獄から我々が解放されたのは夜の9時前のことだった。

 帰り道、集められた仲間4人で駅までの道を歩いたのだが、全員無言で俯いたままだった。

 全員、ヤツがハラスメント行為を働いていることは認識しているのだ。

 きっと、心のどこかで今日自分が発言した「ハラスメントじゃありません」という言葉が引っかかっていたからなんだと思う。

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アカデミック・ハラスメントなキャンパスライフ takamochi @YCtakamochi

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