第四章

 どうやら鈴木健は日本人だが、中国人との繋がりがあると判明したらしい。やはり和香が言っていたように、例のメールと関わっていたのは彼かもしれないと聞かされたのだ。

 しかし藤子はそこで躊躇した。もし雄太が香港国家安全維持法に関わっていて殺されたとなれば、通常ではあり得ない事態になる。深く関われば、自分が危険に晒される状況に陥ったっておかしくない。これ以上の調査は中止し、何が関係しているか不明な彼の遺産も放棄した方が良いのではないかと思い始めた。

 そうすれば後にマスコミが嗅ぎ付け何らかの問題が表面化したとしても、藤子が巻き込まれる局面だけは避けられる。そうすれば芥山賞作家としての活動における支障だって最小限で済むだろう。

 兄達が遺産総額に目がくらみ、危険を顧みず相続すると言えば好きにさせればいい。その後問題が起こっても、家庭裁判所に正式な放棄手続きを出しておけば藤子には関係ないと突っぱねられる。

 そうなった場合、兄達との関係は悪化するだろう。だが放棄しなければ同じ事だ。最悪なのは、協議して仲良く二分割した後に問題が生じるケースだった。騒動に巻き込まれれば仕事やプライベートの生活だけでなく、兄との間に入った傷口は広がるに違いない。その上負の財産まで抱えるとなれば目も当てられなくなる。

 安全策を取るなら断然遺産放棄だ。そう考えている事を同じく田北から連絡を受けた和香に告げると、再び彼女は強く反対した。

「真相を知る為、調査は絶対に必要です。もし藤子さんがこれ以上関わらないと言うなら、自分一人でも鈴木と会って問い質します」

 だが雄太の昔の同僚である彼女だけだと、相手は話してくれないかもしれない。ましてや彼女はフリーライターだ。もし鈴木が香港の件に深く関係していたならば、まずは警戒するに違いない。

 そう告げると彼女は言った。

「雄太さんの彼女だと言います。だったら良いでしょう」

「それは無理があるでしょう。相手は雄太をよく知っている人なのよ。彼女がいたかどうかくらい、聞いているはず。もし嘘だとばれたらどう出てくるか分からないし、危険だから止めた方がいいわ」

「いいえ、止めません。私は自分が納得いかない事を、そのままにしておくなんて無理です。それに私は雄太さんを信じています。これまでの調査でも出てこなかったように、彼は他人名義を使って悪事を働き、お金を稼いでいた事実はありません。だから彼の遺産を放棄するという、藤子さんの意見にも賛成できません。彼がわざわざお姉さんに全財産を残すと遺言したのにも、ちゃんとした理由が絶対にあるはずです。彼の気持ちを尊重するのなら、藤子さんは受け取るべきです。その上でそのお金をどう使えばいいかは、彼の過去を調べていけばいずれ分かるのではないでしょうか」

 藤子は綺麗事ばかり主張する彼女に腹を立て、思わず言い返した。

「勝手な事を言わないで。雄太を信じたいのは私だって同じよ。だけど現にあなたも私も、彼が別名義を持っているなんて知らなかったじゃない。渡部亮という名で働いて、その名義で部屋を借りている事を隠していたんだから。それだけでも犯罪でしょう。それなのに遺言通り私が遺産を受け取ったら、その後色んな問題が明らかになった時、賠償したりするのは私なの」

 だが彼女も負けてはいなかった。

「だったら万が一負の遺産が出てきた場合、私が責任を持ってお支払いします。それだったらいいでしょう。絶対そんな事態にはならないと信じていますけどね」

 藤子は更に反撃した。

「そんな話が通用する訳がないでしょう。被害者がいたら、お金を払うだけで済むと思ったら大間違いよ。頭を下げたって許して貰えないかもしれないでしょ。それにお金を貰った私が、他人のあなたに任せて知らない顔が出来ると思うの。しかも私は世間に顔が知られている。社会的な制裁を受けなければならない覚悟が必要なの。現に雄太が死んだ時、偶然コメントをしただけでバッシングを受け、仕事に支障をきたしたんだから」

「それは何かあった場合じゃないですか。藤子さんは負の遺産があると決めつけ過ぎです。そんな心配はいりません」

「だから何の根拠があってそう言えるの」

「それをこれから調べるんじゃないですか」

「時間がないの。放棄手続きまで一カ月も無いんだから。いくらでも調査してからでいいと言うのなら、私だってそうしたいわよ。でもそれが無理だから、泣く泣く放棄するケースも考えなくちゃいけないんじゃない。それに私は元保険会社の社員だったから、最悪のリスクを考えて行動したり決断を下したりするのが当たり前なの。あなたのように何の根拠もなく信じているというだけで、問題が解決できないから悩んでいるのよ」

 激しく言い争っていた二人だが、藤子が安易に考えているのではないと彼女も理解したらしい。少しトーンを抑えた声で言った。

「藤子さんのお気持ちは分かりました。私とは立場が違うので、同じように考えられないのは当たり前ですよね。でもあと少しだけ時間を下さい。鈴木と会って話をし、そこで得た情報を元に最終結論を出しても間に合いますよね。ですからそれまで待っていただけませんか。私が一人で行きますから」

 藤子は溜息をついた。彼女は真剣に雄太の死の真相を探り、何故別名義を持たなければならなかったのかを知ろうとしてくれている。その感情が痛いほど伝わって来たからだ。

 それだけに彼女を一人で危険に晒す訳には行かなかった。既に告げた通り、彼女だけなら必ず相手は警戒するだろう。その点世間でも騒がれ実の姉だと顔バレしている藤子になら、雄太との関係を正直に話してくれる確率は高い。

 そこで彼女が勝手な行動をして危険な目に遭わせるくらいなら、自分も一緒にいた方がいいと判断せざるを得なかった。そう告げると意外な提案をしてきた。

「確かに藤子さんが心配されるように、私達二人だと危ないかもしれません。だったら念の為に、男の人も一緒に同行して貰うのはどうでしょう」

「男の人って、田北さんについて来て貰うとでもいうの」

「いいえ。あの人は立場もあって、そう滅多には人前へ出て来られません。藤子さんの所まで出向いて名刺交換までしたことさえ、普通はありえませんから」

 もちろん警視という階級もあるだろうが、やはり藤子が予想していたように彼は公安絡みの人なのだろう。よって自ら名を名乗り、顔を晒すケースなどまずないと考えて良い。

「だったら誰を連れて行くつもりなの」

 彼女はニヤッと笑って答えた。

「川村さんですよ。鈴木さんの名前を出したのは元々あの人です。だから知らない間柄ではないですし、お願いすれば一緒に来るくらいは協力してくれると思いませんか。雄太さんを友人だと言っていましたし、少しでもお役に立てればと言っていたじゃないですか」 

 そう口にしていたのは確かだが、あれから連絡は全くない。よって社交辞令だと捉えた方が良い気がした。それに彼を危険かもしれない場所へと連れて行き、もしもの事があれば責任など取れない。

 そう告げると、彼女は首を振った。

「聞いてみないと分からないじゃないですか。相手が断れば無理には誘いません。だけど行っても良いというなら自己責任ですよ。もちろんそういう危険もあると説明した上でお誘いするつもりです」

 和香がそこまで言うのなら、と最終的に了承した。しかも連絡は藤子の携帯からかけるが話は彼女がすると言い張ったので、渋々任せることにした。すると意外にも川村は二つ返事で同行すると言ってくれたらしい。今はまだ就職活動中という名目の休養期間なので、時間は十分あるという。

 その言葉に甘え、日時を調整して鈴木宅へは三人で向かう事にした。やはり中年とはいえ、相手は四十五歳の男性だ。一つ年下の川村がいてくれるだけでも正直心強かった。

 田北から教えられた住所は、木造二階建てアパートの一階の角部屋だった。下と上でそれぞれ五つ扉が並んでいる。意外だったのは、外観からしてとても貧相だったことだろう。雄太や川村が住んでいた部屋とは余りにギャップがあり過ぎた。

 転職を繰り返していたとはいえ、彼らと同年代で同じ会社に勤務していたのだから、経済的に苦しくはないはずだ。家族を抱えているなら別だが、雄太達と同じく独身だと聞いていたから尚更だった。

 しかしよく考えれば、人それぞれ暮らし方や事情、また価値観は異なるものだ。両親の介護等でお金がかかっていたり、ギャンブル好きで金遣いが荒かったりするのかもしれない。

 住む場所に頓着しない分、高級車を乗り回す人だっている。趣味に多くのお金を費やしていたり、または将来の為にしっかり貯蓄していたりする可能性もあった。

 一戸建ての家を別で所持していた点を除けば、雄太と川村は比較的似たような暮らしぶりだった。だから鈴木も同じようなものだと、勝手な想像をしていただけに過ぎない。

 頭を切り替えた藤子は一度深呼吸をした。川村の時と同様、アポイント無しの訪問だ。彼がどういう態度を取るかも気になるが、それ以前に滞在しているかも分からない。

 だが田北の調査によると、今の時間は部屋にいる可能性が高いと教えられた。どうやら川村同様、会社を辞めた後は失業保険を得ながらしばらくノンビリしているらしい。

 意を決し、古い形式の呼び出しブザーを鳴らした。すると扉の向こうで人の動く気配がした。どうやらいるらしい。緊張しながら藤子は覗き穴の前に立つ。和香達はその後ろで横に並んでいた。

 しばらくして鍵を開ける音がした。ゆっくりと扉が開き、中から鈴木と思われるがっしりとした体格の男が出てきた。突然見知らぬ人達が訪問したからか、険しい顔をしている。ただそれは想定内の反応だ。

 相手が口を開く前に、藤子はこれまでと同様に説明を始めた。

「鈴木健さんでいらっしゃいますか。急に押しかけて申し訳ございません。私は以前あなたが勤めていた会社で、渡部亮と名乗っていた保曽井雄太の姉、藤子と言います」

 既に慣れた口上こうじょうを言い終わったところで気が付く。彼は話をしている藤子ではなく、後ろにいた二人を不審そうに見ていた。和香はともかく、川村とは顔見知りのはずだ。

 疑問を感じつつ二人を紹介した上で、雄太について少しでも知りたいとお願いした。勇気を振り絞ってここまで来たのだから、何かを得てからでないと帰ることは出来ない。よってかなり切迫した想いを表に出して迫った。

 だが彼からは目ぼしい反応が返ってこない。鈴木さんですかと尋ねた際には否定されなかったし、後ろにいる川村は何も言わなかった。よって彼が目的の人物なのは間違いないだろう。雄太と親しくしていた割に、何故このような薄いリアクションをするのか。

 そう訝しんでいると、ようやく彼が沈黙を破った。

「お姉さんについては亮から聞いて知っている。あいつの話を聞きたいというのなら部屋に入っても構わない。ただしあなた一人だけだ。部屋も狭いからな」

 川村達とは違い雄太が偽っていた下の名前を口にした為、より親しい関係だったのだろうと推測は出来た。しかし口調はぶっきらぼうで、眼光も鋭く刺々とげとげしい様子に藤子は尻込みした。

 その一方で雄太が亡くなった時のアリバイはある為、彼が殺した犯人だと疑ってはいない。それよりも尋常でない緊張感の漂った態度に、何か予想もしない事実が聞けるのではと期待させた。

 けれど和香がそれに反発した。

「狭くても私達は構いませんので、一緒に聞かせて下さい。それに雄太さんと親しかった方とはいえ、男性一人の部屋に藤子さんだけを入れる訳にはいきません」

 川村も賛同して言った。

「ご無沙汰しています。私の顔は覚えていますよね。私達も亡くなった彼について知りたいと思いここまで来ました。どうしても狭いからと言うのなら、私だけでも入れてくれませんか。それも駄目なら別の場所に移動しましょう。ファミレスが近くにありましたから、そこでお話しませんか」

 だが鈴木は首を振った。

「駄目だ。お姉さん一人だけになら話をしてもいい。内容を知りたければ後で聞けばいいだろう。二人だけにするのが心配なら外で見張っていればいい。ここは壁が薄いから何かあっても声を出せばすぐ外に聞こえる。ドアの前と裏の窓に一人ずつ立って監視していれば済むじゃないか」

 危険な匂いがしたけれど、確かに彼が言う通り二人が外で居ればおかしな真似は出来ないだろう。それよりもここまで警戒するからには、それ相応の情報を持っているのではないかと強く感じた。

 一度はこの件から身を引こうと考えていたが、遺産放棄の期限が来るまでは出来る限り調べようと説得され納得したのだ。その為ここで引き下がる訳にはいかない。

 そこで和香達に言った。

「鈴木さんがこうおっしゃっているんだから、しょうがないでしょう。アポなしで尋ねて来たのに、時間を取って下さるだけでも有難いじゃない。申し訳ないけど、二人は外で待っていて貰えますか。何かあれば声を出します。でもここで騒ぎを起こすなんて無理でしょう。だから大丈夫よ。心配しないで」

 不服そうにする二人を置いて、藤子は彼に促されるまま部屋の中へと入った。直ぐにドアの鍵は閉められた。

 靴を脱いで上がると台所がすぐ横にあり、その奥には畳の居間が見える。その横にはまた扉があったので、間取りとしては一LDKらしい。低いテーブルと座布団が置かれていたので、おそらくそこに座り話をするのだろうと思っていた。

 しかし彼は部屋に入って直ぐ奥のカーテンを閉め、隣の部屋へ入るよう指示してきた。言われるがまま向かうとそこはガラリとした和室になっていて、昔ながらの押し入れがあった。

 どこに座ればよいのか悩み立ったままでいると、彼は何も言わず押し入れを開けた。下には布団とプラスチックの衣装ケースが置かれていたが、上には何もない。

 一体何をするつもりだろう。そう戸惑う藤子の背後に回ったと思った瞬間、口を塞がれ首筋に痛みが走った。突然の事で声を出せずにいたが、何か注射のようなものを打たれたことだけは分かった。急に力が抜け声を出せなくなった。

 意識はあるが、ぼんやり浅い眠りについているような状態に陥ったのだ。どうやら何らかの薬を投与されたらしい。

 藤子はここで殺されてしまうのか、と恐怖を覚えた。しかし助けを呼ぶことさえできず、そのまま畳に倒れ込んでしまったのである。

 全身に効果が表れた状態を確認した彼は藤子を軽々と肩に担ぎ、そのまま押し入れの上の段へ上った。そこから天井の板を外し、さらに上方へと移動した。天井裏は真っ暗で、藤子は鈴木の背中に顔を付けるような恰好をしていたこともあり、最初は周囲が全く見えなかった。

 だが肩から降ろされ椅子のようなものに座らされた所で、少しずつ暗闇に目が慣れてきた。そこで驚いたのはトロッコに似た小型の乗り物があり、前方にレールが敷かれていると分かったことだ。

 仕掛けが動きだす。助けを呼べないまま有無を言わさず連れていかれた藤子は、前に屈んでいた彼と一緒に移動した。どうやらこの乗り物は、天井裏でアパートの端へと繋がっているらしい。一階は五部屋あったが、到着するまでほとんど音を出さずに動き続けた。

 終点に着き、先程と同じ状態で担がれて天井裏から下へと降りる。ここは彼の部屋と反対側の角部屋らしい。押し入れから出されて部屋に出たが、薄暗い空室だった。

 一旦畳の上に寝かされ、鈴木が押し入れから旅行バックを取り出す様子をぼんやりと見ていた。すると彼はもう一度藤子の体を持ち上げ、そのバックの中に無理やり詰め込んだのである。

 さらにまだ声は出ず力も入らない状態にもかかわらず、口にタオルのようなものを巻かれ、手足も結束バンドで縛られ身動きできない状態のまま蓋は閉められた。

 再び暗闇に包まれた状態に陥る。それでも意識はあった。がさがさとする音の様子から、彼が着替えをしているらしいと分かる。

 その後扉の鍵がガチャリと鳴り、バッグの隙間から光が入って来た。外に出たようだ。彼が変装して外へ出れば、いくら和香達が部屋の前で見張っていたとしてもまず気付かないだろう。

 なる程良く考えられたものだと感心しつつ、やはり彼はただ者では無かったと身をもって知った。外へ脱出する方法もそうだが、アパート自体に通常有り得ない大掛かりな仕組みを作っていたのだ。

 まるでスパイ映画のようだと思った所で血の気が引いた。本当に彼はそうなのかもしれない。中国と関係があると聞いていたから、そちらの工作員の可能性だってあるだろう。だとすれば古いアパート全体を買い取りそういう人物達を住まわせ、あのような仕掛けを施していたとしても不思議ではない。

 ゴロゴロとバックに着いた車輪が鳴り、時折激しく振動が伝わってくる。どこかに移動しているのは間違いなさそうだ。どこに連れて行こうとしているのか。藤子は恐ろしくなった。

 しばらくして車の音が聞こえた。バックは持ち上げられ、トランクに入れられたらしい。再び周囲が真っ暗になる。どうやら走り出したらしい。再び体が揺れる。

 最初は恐怖でパニックになっていたけれど、時間が経つにつれて少しずつ落ち着きを取り戻した。どうにもできないのなら、無駄な抵抗をしても意味が無い。それより状況を把握する方が有意義だ。

 そう頭を切り替えた藤子は、今乗せられているのは恐らくタクシーだろうと推測した。だから通りに出るまで移動し、旅行バックをトランクに入れたのだろう。その方が自然だからだ。

 一体どこまで連れて行くつもりなのか。もしどこかで殺そうとするのなら、下手なところで降ろす真似はしないはずだ。人気のない場所に行けば運転手の記憶に残るし、後で居場所を特定されやすい。

 そこでタクシーまでもが彼らの仲間である可能性に気付く。事前にスマホ等で連絡して呼べば、そうした手配だってできるだろう。

 犯罪小説であれば、このままどこかの廃工場か港近くにある人気のない倉庫へと連れて行き、藤子を殺して死体を遺棄するはずだ。誰にも見つからないようコンクリート詰めにして壁に埋め込むか、海に捨てるかすればいい。死体さえ見つからなければ、犯罪を立証するのは困難だからだ。

 彼らはそのまま空港か船に乗り中国へ脱出すれば、日本の警察がいくら動いても捕まることなどないだろう。ほとぼりが冷めるまで、向こうの公安が匿ってくれるのかもしれない。または別の国に送り込まれる場合も考えられた。

 やはり雄太は香港の民主化運動に参加し、相当首を突っ込んでいたのかもしれない。その為中国当局に目を付けられたのだろう。そうでなければ、鈴木のようなスパイと関係を持つはずがなかった。

 同類の振りをして雄太に近づき邪魔だと判断された為、事故を装って鈴木の協力者に屋上から突き落とされたのではないだろうか。和香からそうした話を匂わされた時は、そんな夢物語が藤子の身の周りで起こるはずが無いと思っていた。

 それでも雄太がどうやって生きて来たか、ほとんど知らないのは事実だった。その為に残された遺書の意図や他人名義を使っていた謎を解こうと、彼女に促され動いた事はやはり間違いだったのかもしれない。

 まず知り合いの刑事だと田北を連れて来た所から怪しむべきだったのだ。彼女達は最初から、雄太と鈴木の関係を掴んでいたに違いない。そうでなければ鈴木の居場所の特定など困難だったはずだ。

 そこで雄太が殺された。その事件を秘密裏に解決する為、表向きは一旦事故として処理されたに違いない。もしかすると目撃証言すら偽証されていた可能性がある。さもなければ話の辻褄が合わなかった。

 その時、ある可能性に気付き鳥肌が立った。だから雄太が他人名義を使っていたとは考えられないか。田北が用意して、渡部亮と名乗っていたのかもしれない。そうなると筋が通る。

 もし鈴木が中国公安のスパイだとすれば、雄太から近づいて背後を探ろうとしていたのではないのか。それが相手に気付かれ、口を封じられた場合もあり得た。だが裏の事情がある為、単なる殺人事件として公にできなかったのかもしれない。

 公安の協力により他人名義を使い中国スパイと接触をして殺されたとなれば、彼らの責任が問われるだけでは済まないからだ。まず間違いなく国際問題にまで発展するだろう。

 しかもその姉が予想外に有名人となってしまった。だから事故死扱いにして一旦収束させ、真相を探るべく藤子にも協力させようと考えたのかもしれない。マスコミに叩かれ、忙しかった仕事が出来ない状況を上手く利用したとも考えられる。

 こうなれば後に出てきた遺書だって、本当に雄太が残したものだったかも怪しくなった。国が背後にいれば、どんな細工をしていたとしてもおかしくないからだ。事故と証言した矢代と綿貫だって、警察に証言を強要されていたかあるいは彼らの仲間なのかもしれない。

 やはりこの案件は身を引いた方が良かった。首を突っ込んでまんまと罠に嵌り、危惧していた最悪の事態に陥ったのだから。しかし後悔先に立たずだ。

 良く分からない薬を打たれ、身動きできない状況の藤子にはなす術もない。後はなるようにしかならないだろう。そう考えると、抵抗する気すら起こらなくなっていた。

 どれだけ走っていたのかは不明だ。し轍かしとてつもなく長い時間に感じられた。だがやがてその懸念は終わりを告げる。車のスピードが緩やかになり、しばらくして停止した。

 これまでも信号か何かで停まった事は何度かあった。けれど今回は違うらしい。ドアが開く音がしたかと思うと、トランクが急に開けられたからだ。

 もしタクシーの運転手が鈴木と同じ一味でない可能性を考慮し、声を出そうとも一瞬考えた。しかしまだ薬が効いているらしく力が入らない。何度か試したがバックごと持ち上げられて降ろされ、車が走り去る音を聞いた時点で藤子は全てを諦めた。

 そこからまたしばらくの間、ゴロゴロと引きずられていく。振動からすると舗装された道路のようだ。しかし周囲から全く人の声がしない。ただ鳥のさえずりが僅かに聞こえた。海の近くではないようだ。山の奥にある廃工場か倉庫かもしれない。そこで殺され埋められるのだろうか。そう想像して再び恐怖を感じた。

 すると突然動きが止まり、バックを地面にゆっくり倒して置かれて開いた。暗闇から急に明るい日に照らされた為、一瞬目の前が真っ白になる。黒い影が口元と手足の拘束を解いてくれ、外に出された。そこから徐々に目が慣れ、周囲が見えるようになった。

 まず飛び込んできたのは無数の墓だった。予想外の景色に頭の中は混乱する。だが冷静になって考えれば、ここは霊園だと理解できた。鈴木の姿を探すと、最初に会った時とは全く異なる格好をしていた。やはり着替えて変装し、端の部屋からアパートを出たからだろう。けれどその恰好は、意外にも真っ黒なスーツだった。

 これから人を殺そうとする人間があんな格好をするだろうか。しかもあれでは普通の服より目立つ。離れた場所から出たとはいえ、アパートの前にいた和香達が見かけたとしたら記憶に残るだろう。何故あのような姿でここへ来たのか。

そう尋ねようとしたが、まだ声は出ず体も思うように動かない。横たわった状態でただぼんやりと、彼の行動を見つめているしかなかった。

 彼は目の前の墓石に水をかけ、いつ手に入れたのか知らないが花を生け拝んでいた。そこでようやくこの場所に見覚えがあると気付く。なんと鈴木は保曽井家の墓の前にしゃがんでいたのだ。しかもよく見れば涙を流している。何故なのかと考えた時、ここには雄太が眠っているのだと思い出した。

 困惑していた。何故彼は藤子をここに連れて来たのか。また何故墓参りをしているのか。あれは雄太を偲んでの行動なのか。それともこれから私を処分して、あの墓の中に入れる前の儀式なのか。

 様々な思いが頭を巡っている中、一通りやる事を終えたらしい彼はゆっくりと藤子に近づいてきた。思わず恐怖で顔が引き吊る。

 だが体を起こし背後に回った彼は、意外にも藤子に謝ってくれたのだ。その後再び首筋に痛みが走った。また注射を打ったらしい。ただ前回とは違う物と分かる。今度は声も出て、体に力が入るよう戻ったからだ。

 彼は再び頭を下げて言った。

「手荒な真似をしてすみません。騒がれず誰にも邪魔をされたくなかっただけで、悪意はありません。それだけは信じてください。私は雄太に謝りたくてここに来ただけです。それを彼が大切に思っていたお姉さんにだけは、理解して欲しかったのです」

 偽名の亮で無く、本名の雄太と口にしたことにまず驚いた。そこで彼に恐る恐る尋ねた。

「私にはまだ状況が良く理解できていません。まず雄太とあなたはどういう関係だったのですか。涙を流しお参りをして頂いた様子からすると、かなり親しかったようですね」

 すると驚愕の答えが返ってきた。

「雄太と私は恋人同士でした。二人共同性愛者だったのです」

 藤子は余りにもショックで言葉が出てこなかった。しかしよく考えてみるとこれまで雄太の過去を遡った際、余りにも女性関係が希薄だった点に思い当たる。それにマスコミが騒ぎたて始めた当初、同性愛者達が集まる怪しげな店に出入りしていたと、一部の雑誌では掲載されていた。

 けれども調査会社による報告では、そうした形跡が見つからなかったとされていた為、ガセネタだと思い込んでいたのだ。または和香に連れられ、たまたまそうした店に寄っただけではないかと推測していた。

 だが驚きはしたけれど、雄太がマイノリティだったと聞かされても嫌悪する感情は全く無かった。これまで遠く見えていた彼がより近くに見え、親近感さえ沸いたほどだ。それ以上に恋人なら相当深い事情まで知っているに違いない。よってこれまで漠然としていた雄太の姿が、より鮮明になるとの期待が膨らんだ。

 その為藤子は質問した。

「雄太はあなたにとってどんな存在でしたか」

 彼は即答した。

「とても大切な人でした。私はこれまで彼ほど本気に愛した人はいません。彼もまた同じだったと信じています」

 そこから彼は二人の関係について話をし始めた。

「雄太と初めて会ったのは五年前です。当時私が勤めていた警備会社のシステム部門に、中途で入社して来ました。前職はテレビ関連の下請け会社で、そこから転職したのだと聞きました」

 鈴木の方が三つ年下だが職場では先輩だった為、仕事で分からない点があると教えていたという。そういえば川村が、二人は前の職場が同じだったと言っていた。しかも鈴木が転職した後、雄太が後を追うように入って来たとも聞いている。

 それにその職場で雄太は香港に出張していた。その頃から深い関係になっていたとなれば十分理解できるし腑に落ちた。

「雄太とは席が離れていたので、本来なら隣や近くにいる同僚に聞けばいい所を、隙を見て私に質問して来ました。最初はどうしてなのか不思議に思っていましたが、しばらくして彼が私と同じ性的な嗜好を持っていると気付きました」

「それは同性愛者だということですか」

「そうです。雄太はそれを嗅ぎつけ、私に近づいて来たのだと思っていました。それを本人に直接尋ねたこともあります。あいつは素直に認めました。でも最初から互いに恋愛感情を持っていた訳ではありません。単に同じマイノリティの人間が近くにいると気付き、安心して話しやすかっただけ。私はそう信じていました」

 しかしそれから二年程経った頃には、二人だけで飲みに行く機会が増えたという。通常の居酒屋などから、同類が集まる場所へと通い出したらしい。

「そうやってかなり親しくなり互いに意識し始めた時、雄太から告白されました。私は喜んで了解し、付き合うようになったのです」

 やがて部屋を行き来するようになり、泊まる場合は主に雄太の部屋が多かったそうだ。彼のアパートは古く壁が薄かったのに比べて、渡部名義のマンションの方が都合よかったのだろう。

「休みの日には二人で出かける事もありました。私は余り人が集まる所が苦手でインドア派でしたから、主に仕事でもあり趣味でもあるパソコン機器関係の店へ出かけるくらいでしたけどね。雄太も同じだったので十分楽しんでいました。ただ今考えれば合わせていただけなのかもしれません。私に近づいた目的も別の所にあったのですから」

 それまでは笑顔を交えながら話していたが、急に寂しげな顔に変わった。そこで思い切って自分の推論をぶつけてみた。

「雄太が公安のエスと知ったからですね。それはいつですか」

 彼は一瞬驚いた表情を見せたが、軽く頷いてから答えてくれた。

「私が警備会社からIT会社へ転職が決まった後、彼は追いかけるように同じ会社へやって来た時です。それまではプライベートでの付き合いだと割り切っていましたし、彼を本気で愛していました。しかし職場まで一緒じゃなければいけない理由はありません。その点を同じ会社にいる私の協力者が疑い出し、彼の周辺を探りだしたのです。その結果を聞いて私は愕然としました。本当に雄太を信用していたから余計です」

 どうやら藤子の考えは当たっていたらしい。小説だけでなくノンフィクションの作品でも、エスの存在は実際確認されている。

 だがそうなると疑問が生じた為に尋ねた。

「あなたは雄太と香港の民主化運動の話をしたことがありますか」

しかし彼は全く予想外の事も口にした。

「私は雄太と仲良くしていましたが、香港国家安全維持法に違反する話を互いにした事実はありません。恐らくそれは彼の一味、それこそ私の部屋へ一緒に付いて来たあの女や川村が仕掛けた話に違いありません」

意味が解らず質問すると、彼は言った。

「あいつらも公安のエスで雄太の仲間なのです。しかも二人は兄妹で、本名は女の方が井尻いじりかおる、川村は井尻あきらと言います。雄太も渡部亮という別名を持ち生活していたのだと知りました」

 藤子の想定を超えた話に信じられない思いを抱きながらも、それを黙って聞いていた。

 雄太や和香達が田北のエスである可能性は考えていたが、あの二人が兄妹だとまでは思いもしなかった。そう考えると、やはりあの二人にはずっと騙されていた事になる。鈴木の説明だと、大手IT企業へ入社したのは既に仲間が潜伏してたので応援に呼ばれたからだという。

 ちなみに川村はその会社に在席していなかったようだ。彼とは警備会社にいた際、顔を知っていた程度の関係だという。そこから推測するに、彼の言う通り川村や和香は公安のエスで、田北の指示により雄太の同僚と偽り藤子と接触させ、鈴木に近づかせるよう仕組んだものと思われた。

 また女性の同性愛者だった和香と仲が良かったけれど、肉体関係や恋愛感情は無いとかつて聞いた説明にも納得した。二人は異性ながら、マイノリティという共通点から親しくなったのだろう。

 いや違う。彼の説明が本当ならば、田北と繋がりがあったからこそ友人の振りをしていただけなのかもしれない。雄太と親しかったという証拠はどこにもなかった。彼女がそう言っただけなのだ。

 川村に関しても同じで、田北を通じて仲が良い同僚がいたと嘘を告げられただけである。よって彼も情報提供者として、雄太の友人だった振りをしていた可能性があった。そうなると、これまでの調査会社による情報さえ意図的に操作されていた可能性が浮上する。

 もちろん鈴木の言葉が全て真実とは限らない。それでも墓の前で見た涙に嘘は無かったと思う。

 新たな疑問が浮かんだ為、尋ねた。

「あなたがしていた裏の仕事も、彼らと同じなのですか」

 彼は躊躇していたが、小声で言った。

「同じではありませんが、似たようなものだと思って下さい」

 そこでピンときた。やはり彼は日本の公安ではなく、中国または別の機関のエスなのだろう。ただその点を今の時点で深く追及するのは危険だと思い、質問を変えた。

「それであなたはどうしたのですか」

「言い訳が出来ない程、彼の身辺を洗った後に問い詰めました。その時彼の本名が渡部亮ではなく保曽井雄太だと知ったのです。最初は白を切ろうとしていましたが、誤魔化せないと思ったのでしょう。途中からある程度は白状してくれました。でも雄太は言ったのです。初めは確かに依頼されて私に近づいたけれど、途中から本気になってしまったのだと。その気持ちに嘘はない。そう告げられた時、私は心が揺らぎました。エスだと知って裏切られたと憎んだこともあります。でも本音では信じたくなかった。二人の気持ちだけは嘘がない。そう私も思っていたからです」

「何故そう考えたのですか」

「知り合って五年、本格的に付き合い出して三年余りの時間、一緒にいたからです。本名も違い、エスであると隠していた事実に気付かなかったのは間違いありません。でもそれはお互い様であり、二人で過ごした歳月はそれを超越していたと今でも信じています。これはいくら説明しても、私と雄太にしか理解できないでしょう」

「どういう意味ですか」

 なお問い詰める藤子の目を見て彼は言った。

「私が雄太を追求した時、本来なら口にしてはいけないだろう内容まで話してくれました。全てだとは言いませんが、公安のエスとして完全に失格です。普通なら正体がばれた時点で、私から離れていくでしょう。もちろん彼が別の家を所有している事や、その住所も私達は把握していました。しかし仲間の元へ駈け込めば後はどうだってなります。また整形などをして、別人になりすます事もできたでしょう。そうすれば二度と私に会わなくて済む。けれど彼はその道を自ら塞ぎ、私と一緒にいたいと言ってくれたのです」

「あなたと一緒にいるって、どういうことですか」

 急に口調が鈍った。

「それは、その、つまり雄太は公安のエスを辞めるつもりだった。そうすれば、今まで通り私と一緒に居られるだろうと考えたのです」

「それであなたは何と答えたのですか」

 藤子から視線を逸らし、言っていいものかどうか悩んでいる様子を見せた。その後しばらく躊躇してから彼は口を開いた。

「最終的には断わりました。それは現実的に無理だと、雄太も分かっていたと思います。それでもそれくらいの覚悟を持っていると、私に伝えたかったのでしょう」

 今の説明が本当ならば、雄太は公安を裏切り彼の一味に入ると言ったのかもしれない。相手が中国のエスならば、寝返ったのではないかと疑われても仕方がなかった。

 そこで嫌な考えが頭に浮かぶ。雄太は公安のエスとして相手に情報を渡した。それを知った協力者に殺された可能性がでてくる。

 だが雄太の口を封じただけでは済まず、なんとかして鈴木を確保しようと考えた。その為に藤子は利用されたのかもしれない。雄太の姉の立場を使って彼の懐に入り、逮捕出来る情報かまたは何をどこまで喋ったかを、聞き出そうとしていたとも考えられた。

 しかしその前に確認しなければならない。

「雄太は事故で死んだと発表がありました。それを聞いてあなたはどう思いましたか」

「あり得ないと思いました」

 彼は即答したが、そのまま俯いてしまった。その為重ねて尋ねた。

「死んだ時、あなたにはアリバイがあったと聞いています。だったらあなたの仲間に殺されたのではないですか」

「それは違う」

 顔を伏せたまま、彼は首を横に振ってそう言った。表情が見えない為、嘘かどうかの見分けがつかない。恐らく死の真相を聞くことは無理だろう。

そこで話を聞いて疑問を持った別の点について尋ねた。

「二人は別れたのですか」

 その質問に彼は再び口を濁し答えなかった。それならばと、思い切ってこれまで避けていた質問を口にした。

「あなたは雄太が公安のエスだと言った後、同じではないが似たようなものだと言いましたね。どういう意味ですか。もしかして鈴木さんは中国側のエスなのですか」

 今度もまた黙したままだった。しかし彼の態度からすると、肯定しているのも同然だった。その為質問を変えた。

「雄太はともかく、何故や和香達のことまで知っているのですか。彼らが兄妹で井尻という名だと、誰から聞いたのですか。雄太からですか」

 すると彼は首を振り激しい口調で言った。

「雄太は仲間を売る奴じゃない。あの二人については、俺の協力者が調べて知っただけだ」

「では何故二人を調べたのですか。どこまであなたは知っているのですか。どうして雄太は死んだのですか。殺されたのですか」

 そう問い質したが今度は答えないまま、彼は藤子が入っていた旅行バッグを持ち、それ以上は何も言わず墓から立ち去ってしまった。

 幸い連れ出された際に持っていた財布やスマホ等は取り上げられなかったので、お金が使えた。その為霊園を出てタクシーを拾った藤子は、いつの間にか電源を切られていた携帯を取り出し、車内から和香に電話を入れた。

 出た彼女は当然慌てていた。

「藤子さん、今どこにいるのですか。大丈夫ですか」

「今タクシーである場所に向かっている途中なの。それよりちょっと話したいことがあるから、あなた達も来て貰えないかな。少し離れた所にある、ホテルのロビーで待ち合わせしましょう」

 住所を告げると彼女は直ぐに了承した。その上で、どうやってあの部屋から消えたのかをしつこく尋ねて来た。

 どうやら外で待っていた二人は、なかなか出て来ず声をかけても返事がなかった為不審に思ったらしい。そこでアパートの管理会社へ連絡し、警察を呼ぶと脅して無理やり彼の部屋に入ったらしい。だが中に誰もいなかったので、周辺を必死に探していたという。

「あの鈴木という男に口を塞がれて薬を打たれていたから、詳しくは分からない。目を覚ました時には保曽井家の墓の前だったの。詳しくはそっちへ行った時に話すから」

 少しだけ嘘をつき電話を切った。鈴木の話が事実ならば、彼女達には今後気を付けなければならない。その上で確認したい点が山ほどあった。

 約束の場所に着くと彼らは既にいた。今までなら自分の部屋があるホテルか、または近くにある目的地へ呼んでいただろう。しかし今は彼らを信用できなくなっている。よってわざと第三者が多くいる場所を選んだのだ。

 人目があるホテルのロビーなら、鈴木のような真似をされる心配もないだろう。彼らが公安のエスなら、何を仕掛けてくるか予測がつかない。それこそ注射を打って口を封じる位はやりかねないと用心したのだ。

 藤子の姿を見つけた彼らは、椅子から立ち上がり駆け寄って来た。

「ご無事で何よりです。田北さんに連絡したのですが、どこに向かったのかも分からないので困りました。検問を配置する訳にもいかないし、といって連れ去られたとの証拠もないので、鈴木の部屋を家宅捜査する令状も取れません。本当に心配していたんですよ」

 今にも涙を流しそうな表情で、和香は手を強く握ってきた。後ろにいた川村も、演技とは思えない程の安堵した表情を浮かべていた。

 しかし疑念を抱えていた為、つい冷めた目で彼らを見てしまう。そこで取り敢えず気を揉ませたことを謝り、座って話そうと飲み物が注文できるエリアのソファに腰を下ろした。

 それぞれコーヒーを頼んで、二人と向かい合わせになる。周囲には数人の客の他に、ホテルの従業員の姿がちらほらと見かけた。ここなら先程のように拉致される可能性はないだろう。また大きな声で話さない限り、内容を聞かれなくて済みそうだ。

 その為ドリンクが届き、従業員が去った後に再び会話を始めた。

「部屋に入るなり隣の部屋に連れていかれた途端、首筋に注射のようなものを打たれたの。ぼんやりとしてたからはっきりは覚えてないけど、肩に担がれた後は多分天井裏に上った気がする」

 そこからは不明だが、気付いたら旅行バッグに入れられて運び出されていたのだと説明した。それを聞いた和香は、ようやく合点がいったらしく頷いた。

「天井裏ですか。だったらアパート自体に、秘密の抜け道があったのかもしれないですね」

「そういえば旅行バッグを引いた黒い服を着た男が、一番端の部屋から出て来た覚えがあるよ。喪服のようだったので、これから遠方にいる身内の葬式にでも出るのかと思ったけど、あれが鈴木だったんだな。まんまとやられた」

 ドア側には川村がいたらしく、悔しそうにそう言った。彼らは藤子から連絡があり、無事と分かるまで気が気でなかったのは確かなようだ。しかしどういう意味でそう感じていたかを知りたかった。

 そこで藤子は質問した。

「どうして鈴木さんはあのような目立つ格好をして、私を保曽井家の墓に連れて行ったのでしょう。あなた達には分かりますか」

 戸惑ったのか二人は顔を見会わせた後、和香が逆に尋ねて来た。

「藤子さんはあの男と何か話したのですか」

「先に聞いたのは私よ。まずはそれに答えて頂戴」

 藤子の尖った口調に、どうやら感付いたのだろう。それでも言いあぐねていた為、こちらから言った。

「彼は涙を流しながらお墓に手を合わせていました。彼は雄太とどういう関係だったのか、お二人はどこまでご存知ですか」

 観念したらしい。和香が口を開いた。

「雄太さんと恋人同士だったようです。彼らは同性愛者でした」

「あなたはそこまで知っていて、あの人を訪ねようと私を強引に誘ったわね。それは何故なの」

「そ、それは恋人だったら、雄太さんの死について何か心当たりがあるのではないかと思ったからです。実の姉である藤子さんになら、正直に知っている事を話すのではないかと考えました。黙っていたのは、同性愛者だと私の口から説明し辛かったからです」

「それだけではないでしょう。あなた、いえあなた達は一体何を調べているの。もしかして、中国の公安と鈴木が繋がっている証拠を掴もうとしていたのではないですか」

 彼女は藤子の言葉に強く反応し身を乗り出した。

「鈴木がそう言ったのですか」

「いいえ。私が予想してそうではないかと思っただけよ。もちろん彼に尋ねたわ。しかし答えては貰えなかった」

「そうですか。他に彼と何を話したのですか」

「だから質問しているのは私よ。和香さんがあの男と雄太との関係を知っていたのなら、鈴木の名を出した川村さんも当然知っていたはずよね。鈴木を知っている和香さんが、わざわざあなたを経由して彼の元に向かわせたのだから。つまりあなた達は私の知らない所で事前に繋がっていた。そこまでして一体二人は何を調べていたの」

 今度は川村に向かって問い詰めたが、彼は顔を伏せてしまった。その様子から、藤子の指摘は間違っていなかったと確信する。再び沈黙する二人に対し続けて尋ねた。

「あの鈴木という男は只者ではありません。私に薬を打ったことやあのアパートから脱出した方法を考えても、一般人では無いのでしょう。そんな人と別名義を持った雄太は恋人だった。これが何を意味するのか教えて下さい。あなた達は知っているはずです」

 ただ答えは返ってこない。どうしても口に出せないようだ。それならばと、さらに突っ込んで言った。

「雄太が渡部亮と名乗っていたのは公安のエスだったから。そうなのね。そしてあなた達もそう。三人共、あの田北という刑事の情報提供者ではないの。正直に答えて」

 そこまで告げると、和香がようやく視線をこちらに向けて喋った。

「あの鈴木が何を言ったのかは知りませんが、信用できる人間ではありませんよ。藤子さんに薬を打って、無理やり連れ出すような人です。鵜呑みにしてはいけません」

「ではあの男は何者なの。少なくとも鈴木健という別名の他に、本当の名があるはずよ。それは知っているの」

竜崎りゅうざき裕司ゆうじです。お気づきの通り、裏の顔を持っています」

「その名が本名なら日本人なのね。でも中国人と繋がりがある。そうあなた達は思っているのではないのかしら。だから私に雄太が香港国家安全維持法に違反している、という話を吹き込んだ。携帯のメールでやり取りした形跡を偽造までした。そうでしょう」

 彼女は再び口を噤んだ。図星らしい。ならば鈴木、いや竜崎の言葉が正しいことになる。それならまだ確認しなければならない点があった。その為小声で呟いた。

「井尻薫さん」

 彼女はピクリと反応した。横にいた川村は顔まで上げた。どうやらこれも嘘ではないらしい。そこで今度は視線が合った彼に言った。

「井尻晶さん」

 覚悟していたのか、彼女の時のようなリアクションは見られなかった。それどころか彼は言ったのだ。

「誰ですか、それは」

 その言葉を無視して、藤子はさらに追及した。

「あなた達は兄妹なのね」

「いいえ、違います。何を突然言い出すのですか。あの男がそう言ったのですか」

 今度の態度は自然だった。さすが公安のエスともなると、嘘をつくのは上手いらしい。

 それはそうだろう。彼を初めて訪ねた際も、和香を見て妹が来たような素振りなど一切していなかった。本当に初めまして、という態度におかしなところはなかった。 そうやって単なる同僚だったと告げながら、本当の雄太の姿を織り交ぜ藤子を騙し、鈴木に目を向けさせていたのだから。

 あくまでとぼける彼らとこれ以上話しても得られる情報はなさそうだ。そう判断した為、時間が経って温くなったコーヒーを飲み干し、財布からお札を出してテーブルに置き席を立った。

 それを見た和香が、慌てた様子で言った。

「藤子さん、どこに行くんですか」

 答えずにいると、川村が予期せぬ質問を浴びせた。

「有名作家になられたあなたは、今幸せですか」

 以前和香にも尋ねられた言葉だ。あの時同様返答できずに一瞬固まってしまったが、カッとなって言い返した。

「あなたにそんなことを言われる筋合いはありません」

 それでも彼は重ねて聞いてきた。

「作家になるのが夢であり、世間から注目を浴びて満足であるのなら私は何も言いません。ただ雄太さんと親しかった友人として言わせてください。もしそうでないのなら、今一度人生を振り返ってみてはどうですか。あなたはその為に会社を辞め、思い切ってこれまでとは違う自分を発見されたはずです。今からでも遅くはありません。再度雄太さんが歩んできた過去を辿った上で、考え直してみてはどうですか」

「自分達については何も話さないあなた達が何を言っても、竜崎さん以上に信用できるはずがないわ。これ以上ここにいても無駄でしょう。さようなら」

 そう捨て台詞を残しホテルを出た。彼らが後を追ってくる様子はない。それでも用心しながら、目的の場所へと深呼吸して落ち着かせつつ歩いて向かった。

 川村の言葉に動揺させられ興奮してしまい、動悸が激しくなった体の調子を気遣ったからだ。そうして雄太名義の家に着き周りを見渡す。誰もついて来ていないと思うが彼らはプロだ。どこにいるかなど分からないし、本気で尾行されれば素人が巻くなんてできないだろう。

 そう開き直った藤子は鍵を開けて中に入った。ここに来たのは、雄太が公安のエスだったかどうかを確認する為だ。渡部名義のマンションはもう解約してしまったので中に入る事は出来ない。しかし彼がエスなら、ここに何らかの証拠が残っているだろう。

 それこそ竜崎が住んでいたアパートのような仕掛けがどこかにあるはずだ。それを発見すれば、雄太がエスだと認めるしかない。

 信じたくはないが、一方で有り得ると思いながら藤子は懸命に家探やさがしした。押し入れの天井裏はもちろん、畳まで剥がした。そうして散々探し回り、ようやくトイレの天井が抜けると分かったのだ。 

 リビングから椅子を運んで昇り、家の中で見つけた懐中電灯で照らしながら這い上がって中を覗くと、周囲が何故か白い壁に囲まれている。

 普通なら配線やはり等が見えてもおかしくない。奇妙な造りに違和感を持ち、じっくり眺めた。すると四方の壁の内の一つに小さな取っ手が付いていると気付く。どうやら扉になっているらしい。

 押して開けると同じように白い壁の通路が見えた。そこをしばらく這って進んだ。すると下へと降りる梯子はしごがあった。竜崎の所とは違う形だが、明らかに抜け道だと思われる。これで雄太は間違いなく公安のエスだったと考えて良いだろう。 

 だから別名義を持って暮らすという、通常では有り得ない行動を取っていたのだ。その理由がようやく納得できた。

 そうなると何故彼がそのような道を歩んだのか、との新たな疑問が浮かんだ。とはいえもしかしてと考え出した頃から、一つだけ心当たりがあるにはあった。

 しかしまず、この通路の先がどうなっているのかに興味が移る。どこに出口があるのか。もしかすると何かが隠されているかもしれない。そう考えると、奇妙ではあるけれど力が湧いてきた。

 正直言えば五十歳の体で、このような狭い所を無理な態勢で居続けるのは辛い。藤子の体は最近また太り出したとはいえ、昔と違って痩せているからまだ良いが、大きな人では通れないだろう。

 雄太のような中肉中背の体形でぎりぎりだと思われる。それを計算して作られているに違いない。追手が逞しい体をした人物であれば、ここで諦めざるを得なくなるはずだ。

 元々体力や運動に自信がない藤子は、特にここ数年の引き籠り生活により筋力が間違いなく衰えている。既に体は悲鳴を上げていた。

 それでもまるで幼い頃遊んだ、秘密基地のような造りに対する好奇心が勝ったのだろう。時間をかけて何とか階段を降りると、再び横穴にぶつかった。

 そこをまたほふく前進で進む。すると突き当りに上る梯子があった。どこまで続くのかうんざりしたが、今更引き返すにしても相当辛い作業になる。それなら先に進んだ方がマシだと思い直し階段を昇った。その天井に当たる部分は扉になっていたので押し開けてみた。 

 その隙間からほんの少し光が差し込んでいたが、目の前には暗い空間が広がっていた。といっても大した大きさではない。這い上がってみると、床が二畳分程度で高さは二メートル程度だ。中には何もなかった。

 けれど壁は鉄製だった為、もしかするとこれは庭にある物置かもしれないと頭に浮かぶ。それなら外に出られるはずだ。扉らしき引き戸を開けようとしたが動かなかった。外から鍵がかかっているのだろうか。しかしそれなら抜け道の意味をなさなくなる。

 さてどうしたものかと懐中電灯の光を当てて探ったところ、変わった小さな突起を見つけた。試しにそこを押すとガチャリと音がした。それから引き戸に手をかけてみたところ、音もなくするりと横に動いたのだ。

 そこで藤子はやっと外へ出られた。場所は予想通り家の敷地だ。外から眺めると、やはり先程までいたのは物置だった。しかし一見すると何の変哲もない、庭付きの家ならよく見かけるものだ。

 まさかトイレの天井からこんな場所へ出て来られる通路があるなんて、誰も思わないだろう。やはり雄太も竜崎と同じく、万が一に備えての避難経路を確保しなければならなかったに違いない。つまりそのような特殊任務に関わっていた証拠だった。

 改めて物置を探る。だが中は綺麗に片付けられていた。以前は何か色々置かれていた形跡があったものの、最近片づけられたようだ。そこで考えた。これは雄太が処分したのか。それとも死んだと知り、彼を雇っていた公安の誰かが片づけたのだろうかと気になった。

 そこでふと別の疑問に思い当たり周りを見渡す。物置は家の表玄関から真裏にあたる庭へ設置されている。両隣や裏の家とは、高さ百八十センチ程度のコンクリートの壁で囲まれていた。

 家の方を振り向くと、一階の居間が覗き見える大きな窓があった。家は敷地の真ん中に立っていて、右側からも左側からも表へ出られるようになっていた。つまり庭がロの字の形になっている。

 これは奇妙だ。そう思った藤子は、まだ節々が痛む体を引きずり再度家の中に入った。そこでもう一度、隠し扉がないか探し始めたのである。

 あの場所だと竜崎の部屋を訪れた時のように、家の前と後ろを見張られた状態だと逃げられないからだ。もしもの事態に備えるなら、敵に家を取り囲まれた状況を考え遠く離れた出口がなければおかしい。

 しかし先程は畳まで剥がした。他にまだ見ていない場所はあっただろうか。そう思いつつ、徹底的に探したが見つからない。その為見落とした所があるはずだと、改めて最初から探し始めた。

 三度目は、あるかどうか半信半疑だった時とは違う。確実にあるとの確信を持って探した。よってこんな所には無いだろう、との先入観を全て捨てられた。人目を避けて隠すにはどうすれば最適かを頭に入れ、目を皿のようにして捜索したのである。

 すると最初は気付かなかったけれど、押し入れの下の部分の板を打ち付けた釘が、他の部分と違って新しい事に気付いた。

 そこで確か家探ししている最中に大工道具を見かけたと思い出し、釘抜きがあるかを確認すると見つかった。それを使い抜いて剥がすと、人一人が通り抜けられる穴を見つけた。ここだ。間違いない。

 確信をもって足から入り潜り込むと、横穴にぶつかった。少し広くなっていたので、態勢を入れ替え道なりに進む。するとまた上へと続く通路を発見した。足場があった為それを使って昇ると、再び板にぶつかる。

 それを押しのけると、見覚えのある薄暗い空間があった。ライトの光を当てると、広さや目の前にある壁の材質から押し入れだと分かった。

 引き戸を開ければ、そこは畳が敷かれた和室だった。ただ明らかにここは雄太の家とは違う。窓の全てにカーテンがかかり、雨戸も閉められていたので中は暗い。静かに部屋を歩き回り他の部屋へと続く扉を開けてしばらく探索したところ、空き家になっているのだと理解した。

 ほこりが溜まっている状態から、しばらくここには誰も出入りした様子が無いと思われる。そこで台所のすりガラスが入った小さな窓の鍵を捻って開け外を覗く。ここは一体どこなのかを確認する為だ。

 直ぐには分からなかったが、しばらく見ている間にどうやら雄太の家の裏にある家だと気付いた。やはりここがもしもの為に使う逃げ道だったのだと理解する。トイレの天井を通る通路は、おそらくダミーまたは別の用途で使用していたのだろう。

 もう一度穴を通って戻り、念の為他にもあるか一日中探し回ったが発見できなかった。しかしこれで竜崎の言葉に信ぴょう性があり、和香達が疑わしくまた田北も怪しいと結論付ける。その為藤子は新たに生まれた疑問を晴らすべく、翌日法務局に向かった。

 手数料は取られるが、土地の登記簿とうきぼ謄本とうほんは誰でも確認できるからだ。そこで雄太の裏の家の持ち主を探った。

 するとそこには、雄太でも別名の渡部でもない北野きたのという初めて聞く名が記されていると判明したのだ。おそらくこれは公安が用意した別人の名義なのではないか。そう予想を立てた。

 さらにもう一つの問題を解決する為、これまで依頼した所とは別の調査事務所に飛び込み、江口えぐちという人物に依頼を持ち込んだ。今まで調査報告書を作成した沼橋も、信用できないと判断した為である。

 その理由は和香の素性を調べさせた際、養護施設で育ったとまで調べたにも拘らず、彼女の本名が井尻であり、また兄がいるとの報告はされなかったからだ。他にも雄太が同性愛者だと知りながら、隠していた形跡も見受けられる。

 それらを総合し推測すれば答えは明らかだろう。彼は兄や美奈代が雇ったリサーチ会社の人間だ。よって最初からだったのか、それとも途中のどの時点からかは分からない。けれど公安の圧力がかかり、嘘の調査書を作成したか彼自身も公安と繋がっていると思われた。

 江口に調べて貰う内容は、裏の家の持ち主である北野という人物についてと、これまで沼橋が調べてきた調査報告書を渡し、事実かどうかを確かめて貰うことである。

 さらには竜崎が口にした和香と川村の本名だという、井尻薫と井尻晶という名の人物についての調査もお願いした。

 藤子が今の時点で打てる手はこれぐらいだろう。後は調査結果が出るのを待ち、また放棄期限までにどう結論付けるか、改めて考えるしかなかった。

 雄太が別名義を使っていた理由から推測すれば、罪を犯して金儲けしていたとは考え難い。それなら公安のエスにはなれないだろう。それどころか定期的に協力費を受け取っていたはずだ。

 実生活ではそれなりの給与を貰って働き稼いでいた。堅実で質素な生活をしていたのも事実だろう。それで独身だったのだから、あれほどのお金を貯蓄できたに違いない。

 その中には警察から貰った協力金もあるだろうが、大した金額ではないと思われる。別名義で二重生活していた分や、家にあのような抜け道を作る等の仕掛けを作る為にはお金がかかったはずだ。

 恐らくそうした費用は、別名義の口座に振り込まれていた可能性もある。それでも噂だが、警察から払われる金額はそう多く無いと聞いていた。それならば、持ち出し分があってもおかしくない。

 それに和香は万が一負の遺産が出てきた場合、責任を持って支払うとまで断言していた。田北が背後にいるのなら、雄太が残したお金に後ろめたいものは含まれていないと考えて間違いないだろう。

 そうなると少なくとも雄太名義の遺産については放棄せず、受け取っても良いのかもしれない。ただ問題はその後だ。兄と協議して半々にするかどうか。それとも遺言通り全てを受け取るか、である。

 この点についても彼女は気になる言葉を残していた。わざわざ藤子に全財産を残すと遺言を書いた理由が絶対にあるはずとの発言だ。雄太の気持ちを尊重するのなら、受け取るべきとまで断言したのである。

 しかもそのお金をどう使えばいいかは、雄太の過去を調べていけばいずれ分かると意味深な理由もほのめかしていた。さらに兄との関係を危惧するなら、どこかへ寄付すればいいとも提案している。 

 雄太が何らかの活動をしていたのなら、そうした団体等にお金が渡れば意志に反しないと告げたセリフは、一体どういう意味だったのだろう。あの時は雄太が何をしていたのか彼女は知らない前提だった。

 しかし今は違う。雄太の正体を知っていたからこそ、藤子をそちらへと導くよう忠告したに違いない。それによく考えれば、何らかの活動をしていてその団体に寄付する意思があったのなら、遺書にそう残して置けば済むはずだ。 

 そうしなかった理由があるのか、それとも遺書を書いた後にそうした活動を始め、書き直す前に亡くなってしまったのだろうか。彼女はどこまで雄太の行動を把握していたのだろう。

 詳しく知りたいところだが、あの様子では口を割ると思えない。それならやはり独自に調べるしかなかった。

 まだ雄太の過去を探る旅の終わりが見えない。しかしこれまでとはかなり意味合いが変わりつつある。一番大きい収穫は、別名義を名乗っていた理由が判明した点だ。

 今度は何故彼が、どういう過程を経て公安のエスになったのか。またあのような遺書を残した理由は何か。裏でどのような活動をしていたか。和香が口にした団体とは何を指すのか。それらの疑問が解決すれば、今後藤子が取るべき行動は自ずと見えてくるだろう。

 それにしても腹立たしい。和香達に騙されたのは事実だ。雄太の過去を辿る振りをして、竜崎の元へ誘導させたのも間違いない。

 だがそこでもし竜崎の言う通り、雄太が彼らを裏切ったとしたのなら奇妙だと気付く。彼の部屋を訪問した際、雄太や和香達の正体を口走ると予期できなかったなんて考え難いからだ。それ程公安が愚かなはずはないだろう。

 だったら何故面倒な方法を使ってまで、藤子を竜崎に会わせる必要があったのか。そう疑問を持った時、もしかすると藤子が芥山賞作家となり一躍有名になった事と関係があるのではないかと疑った。

 その上雄太の死がニュースで流れた時、偶然にもその件について藤子はコメントをした。それを利用すれば世間に大きく騒がれる。もしかすると田北はその効果を狙ったのではないのか。

 つまり最初から、ある程度事件が公になる覚悟をしていたと考えるのが妥当だろう。では何故そうしなければならなかったのか。そこに今回の事件の鍵が隠されている。藤子はそう確信を持った。

 新人賞を受賞し雄太がお祝いの連絡をくれた後の、目まぐるしい半年間の出来事を藤子は振り返ってみた。

 本来なら顔を晒すのは、基本的に新人賞受賞時の一度だけという取り決めだった。その後は出来る限り露出を避けると申し合わせをしていた。それが災いしたらしい。顔出しNGやプロフィールを隠すなら、SNSを使った情報発信は積極的に行うようせっつかれた。

 初めてついた担当編集者の中川は、険しい表情をして言った。

「今の時代は有名作家でさえ、握手会や書店回りのような営業活動をしなければ生き残れないくらい厳しい世界です。でも顔出しが駄目ならそれも出来ませんよね。だったらSNSは必須です。日頃の些細な出来事を書いたり、写真で日常生活を覗かせたりして興味を引きながらフォロワー数を伸ばして頂かないと。その上で本の宣伝をし、サイン本を置いて貰えるよう書店の人達にお願いして欲しいのです」

 藤子の容姿等を大々的に利用しようとしていた、当初の思惑が外れたからでもあるのだろう。また新人のくせに営業活動を制限するような条件を出すこと自体、気に食わなかったと思われる。明らかに不機嫌で、わざとぶっきらぼうな態度を取っているのかと感じるほど扱いは酷かった。

 しかも子供を産んでいたら娘と呼んでもおかしくない、以前いた会社なら小娘扱いしていただろう担当者に、だ。このような人とこれから一緒にやっていけるのだろうか、正直不安に感じていた。

 自分が真剣に紡いだ作品を評価されたのは純粋に嬉しかった。賞金という対価も生まれ、その後書き続けられれば無職では無くなる。生産性が無いと非難される生活からも解放されると、正直安堵していた部分もあった。

 けれど元々プロになると意気込んでいた訳ではない。そうなろうと必死な思いで書き続け、応募している人達には怒られるかもしれないが、大した覚悟を持っていなかったのは事実だ。

 それに中川が言う通り、今はそう簡単に本が売れる時代ではなかった。だったら尚更、自分の性に合わない努力をして無駄に足掻いても生きていけないのではないか。

 それならばこの場は適当に頷いて過ごそう。その上で既に指示を受けている、受賞作を単行本として出版するに当たっての加筆修正と次作の執筆に向けて努力すればいい。そう割り切っていたのだ。

 新人賞を受賞し文芸誌に掲載される前も一度校正を受けた上で、簡単な手直しはしている。だが六月に本として出版が予定されている為、それまでに更なる改稿が必要だと告げられていた。

 直しが商品として通用する水準に達したと編集で納得できなければ、どんどん後ろにずれる。受賞した場合の必須条件でない為、最悪の場合は出版されないとまで脅されたのだ。

 しかしその時はその時だと藤子は楽観視していた。例え出版が決まっても作品が売れず営業努力が足りないと罵倒されるようなら、いくら次作を書き上げてもボツをくらい続けるに違いない。

 二作目が出ないまま消えていく作家はいくらでもいる。そうなればプロ作家として生きる道は諦めるしかない。そんな心持ちだったのだ。

 けれど受賞作が芥山賞の最終候補作に残ったと十一月中旬に連絡があり、事態は大きく動いた。想像すらしていなかった出来事が起こり、当惑する藤子以上に中川や編集部は大騒ぎし始めた。

 新人賞受賞作がいきなり候補に挙がる前例はこれまでもあり、受賞するケースだって多少なりともある。

 ただそれほど多くない為、出版社にとっては大きなチャンスだったからだろう。既に雑誌で全文掲載されている作品を改めて本として出版しても、純文学のジャンルではそう大した売り上げは見込めない。

 だが芥山賞ノミネート作となれば、状況は桁外れに違ってくる。その為中川は編集長を同席させ、今後の営業展開に向けて話し始めた。

 まずは芥山賞候補作の五作品に残ったと世間に公表されるのは来月の中旬で、受賞作の発表はさらにその一ヶ月後だと告げられた。また来月発表があるまでSNS上はもちろん、誰にも口外しないよう注意を受ける。

 そうした説明をした上で、最初に切り出したのは中川だった。

「ただ受賞作発表までの二か月間、私達は様々な準備が必要です。まず本の出版は、最速でも六月の予定でした。それを前倒ししなければなりません。よって依頼していた推敲は最低限に抑え、出来るだけ早く印刷に回します。ですからいま白井さんにお渡ししているゲラの加筆修正を早期に終わらせ、戻してください」

 とりあえず頷いてはみたものの、藤子は頭の中で首を傾げた。それだけの用件なら電話でも良かったはずだ。時間が無いのならわざわざ呼び出す必要もない。

 そう思っていると、事の重大さに気付いていないとでも思ったのか声高こわだかに言った。

「今言っている事がどれだけすごいか分かっていますか」

「一応、理解しているつもりです。芥山賞の発表が一月半ばですから、出来るだけ早く本を出版しなければならないのですよね」

 そう答えると、彼女は同じ熱量に達しない藤子にれたのか熱く語り出した。

「そうです。候補作の発表までに間に合わせるのはいくらなんでも無理でしょうが、少なくとも受賞発表の一月までには、ノミネートされた本として書店に並べなければなりません。選考会が近づくにつれ、どの候補作が受賞するか周囲は関心を持ち始め、マスコミも取り上げ始めます。その時点で本があれば、手に取って読みたいと思う人が出てくるでしょう。それにもし受賞でもすれば、売り上げは当初の予定より相当期待できます。だから少しでも早い出版が求められているのです。間を置けば、折角のビジネスチャンスを逃しかねません。例え受賞できなくても、最終候補作品として注目は浴びるでしょう。選考委員による講評にもよりますが、その後大ヒットする可能性だってあり得ますからね。いえ、ヒット位でもこのジャンルなら十分です」

 興奮して話すかたわらで、編集長は静かに藤子を見つめていた。その表情は比較的柔らかかったけれど、目が笑っていない。だからとても不気味だった。

 結局何を伝える為に呼んだのか真意を測りかねながら頷いた藤子だったが、次の言葉でようやくこの場を設けた意味を理解した。

「それでですね。本の表紙をどうするか等、急いで打ち合わせもしなければいけません。ですがその前に、これまでの方針を変える覚悟を持って頂きたいのです」

 嫌な予感がした。それは的中した。今後雑誌の取材時等では積極的に顔出しをし、本が刷り上がれば書店回りもしろと言い出したのだ。プロフィールについてもできるだけ公表したいという。

「有名大学を卒業し、大手損害保険会社で二十年以上勤めていたキャリア。さらにうつ病で退職したけれども、そこから人生を生き直そうと大きな決断をした行動。そこから執筆に目覚めて五十歳にして作家となり、デビュー作が芥山賞にノミネートされたという経歴。これらは作品の売り上げを伸ばす為に欠かせないエピソードです。これで受賞したらそれこそシンデレラストーリーの完成です。先生、そう思いませんか」

 これには思わず顔をしかめた。目の前にいる二人は、当初話し合って決めた約束を反故にしようと説得に当たり始めたのである。

 しかもこれまで呼んだことの無い、先生とまで口にしたあざとさには心底呆れた。その一方で、その条件を飲まなければ本の出版に関する契約には応じられない、との圧力も感じられたのだ。

 藤子だって馬鹿ではない。業界が違っても、上場企業で二十年以上営業職として働いてきたのだ。どうすれば商品が売れるのか、長年頭を悩ませながら得た経験がある。

 事前に種をまき、仕掛けを施し育てなければ刈り取りは出来ない。売る商品が違っても営業の基本は同じだ。よって彼女の言い分は十分理解できた。

 しかし頭で分かっていても、行動できるかどうかは別問題だ。はっきり言えばそこまでして本を売りたいと思っていなかった。

 それに芥山賞なんて獲れる訳がないと、軽く考えていたのである。ノミネートされたのは何かの間違い、または藤子の知らない所で出版社の力が働いたのではないか、とさえ疑っていた。

 彼らはどうしても藤子の容姿や経歴等を利用し、アラフィフとは思えない大型新人作家登場と銘打ちたいだけだろう。売れない本でもマスコミを巻き込めば、それなりに利益が見込める。その程度の認識なのだと底が読めた。

 それでも新人作家の立場が弱い事実は揺るがない。それに今はまだノミネートされただけだ。この時点で反抗すれば本の出版はされないだろう。

 そうなれば二度とこの業界にいられなくなるかもしれない。藤子はまだそこまで割り切られるほど、腹を括ってはいなかった。

 それでも返事が出来ずにいると、彼女は懐柔かいじゅう案を出してきた。一つは既に依頼を受けている次回作の出版を約束するというものだ。

 本来なら、当然内容が一定の商業レベルに達していなければならない。それに芥山賞を受賞すれば世間が期待するハードルは上がる為、余りにも酷ければ無理だろう。受賞せずとも候補に挙がった作家の二作目ともなれば、やはり中身が伴わないと難しいはずだ。それでも絶対に出版は保障すると言い出した。

「もし口約束だけでは不安だというのなら、事前に契約書を結んでも構いません。普通はここまでしませんよ。ただこちらも無理なお願いをする交換条件として、編集長も特例で承諾してくれたのですから」

 恩着せがましく言っているが、要するに次回作が全く売れない事態を覚悟しているに違いない。それでも候補に挙がった“伝えたい”さえ売れれば、それだけで十分だとでも思っているのだろう。

 さらに彼女は畳みかけてきた。

「経歴の詳細公表に抵抗があるのでしたらこうしませんか。受賞作が発表されるまで、保険会社を退職した理由やその後執筆するに至るまでの経緯は濁しましょう。候補作止まりであれば、そのままその点に触れないでおいても構いません。いかがですか」

 表向きは譲歩しているように思える。だが大々的に顔出しをして一部でもプロフィールを公表すれば、退職理由など隠していてもマスコミが後追いで調べるはず。そうすれば自ずと明らかになる。

 しかも暗に受賞した場合は、全て明らかにすると言っているようなものだ。これでもし拒否すれば、あくまで作家が我儘わがままを言ったからと言い訳が立つ。

 様々な好条件を出して外掘りを埋め、関係を絶った場合でも出版社側が批判されないよう手を打っているとしか思えない。今の時代は出版社と揉めればSNS等で拡散し、世間の同情を引いて身を護る手段が取れる。そうすれば他の出版社から声がかかり、救ってくれるケースもあるからだ。

 しかしそれはあくまで出版社または編集者側に明らかな非があり、作家側を救うことで好感度を上げ、多くの読者層を取り込める計算が立つ場合に限られた。

 そうでなければ大御所作家でもない限り、実績のない新人に手を差し伸べるメリットなどない。また作家側に問題がある事例であれば、リスクを犯してまで手助けなどしないだろう。

 そうなれば完全に業界から干されるはずだ。恐らく彼らは言外にそう仄めかし、申し出を断らせないように仕向けていると感じた。ここまで追い込まれれば同意するしかない。

 ただ少しだけ条件を付け加えるよう交渉した。極力避けたかった顔出しを承諾する代わりに経歴の公表は生まれ年のみに止め、具体的な大学や会社名等、その他に関しては伏せて貰うよう頭を下げたのである。

 彼女達が最も前面に出したいアピールポイントは、年齢とギャップのある容姿やそこまでに至る経緯だ。それに高学歴で珍しい職歴を加えれば、なおいいと思っているに違いない。

 もちろん退職理由と受賞までのエピソードを加えれば、アピール度はより高まると期待していただろう。両親の死なども添え、決して平凡ではない山あり谷ありの波乱万丈な人生を送ってきた逸話を追加すればさらに興味が引ける。

 そうした人物が創作した作品だと謳えばより大衆の好奇心をそそり、宣伝効果も引き上がるとの思惑があった点は疑う余地などない。その有効性については藤子でさえ十分理解できたからだ。それでも病歴を含めた退職後の件や、生い立ちから始まるプライベートな部分を明らかにするのはどうしても逡巡しゅんじゅんした。

 顔ばれが避けられないのなら、せめて白井真琴の本名や本当の顔はできるだけ気付かれないようにしたい。その為に出した苦肉の譲歩案だった。出身地や高校までの学歴を隠し大学名や勤務先の名をぼやかせば、少しでもその確率が高まると考えたのだ。

 これには編集長も難色を示した。折角の売りを前面に出せないのは取材等を受けた際の足枷あしかせになる。よりアピールしなければ本のセールスにも影響が出るからだ。そこでひざ詰めの話し合いを経て、折衷せっちゅう案で折り合いをつけたのである。

 それは候補作止まりなら藤子の提案通り。ただし受賞した場合、大学卒業以降の特筆すべき経歴だけは公表するとの条件だった。この時藤子は受賞など出来るはずが無いと思っていた為、最悪の事態だけは避けられるかもしれないと内心では安堵していたのだ。

 しかし現実は意図しない展開を迎えた。まずは約束通り、候補作が発表された時点で大々的に顔を公にした。すると編集部の目論見通り、一気に注目を浴びてしまったのだ。まず驚いたのは、想像以上にマスコミが藤子の容姿に飛びついた点である。

 一時期美人過ぎる○○と言ったフレーズはあらゆる場面で散見されたが、もう下火になったと思っていた。けれど実際は違ったようだ。

 やはり熱心な読書家達を除けば、滅多に本など読まない多くの人々にとって作家の見た目が良いだけで興味を引くらしい。加えて五十歳手前という年齢が、それに拍車をかけたと思われる。

 その上受賞までしてしまった為、発表された際開かれた記者会見を終えた途端に雑誌の取材等が殺到し、テレビ出演のオファーも多数受けた。よってこれまでの生活が一気に変わった。約束通り一部の経歴を、強制的に語らされたからだ。

 その結果人生の浮き沈みについて同情する者や、共感を抱く人が少なく無かった点も影響したのだろう。作品の中身の良し悪し関係なく、露出が増せば増すほど作品は爆発的に売れたのである。

 瞬く間に有名となった藤子の姿を見て、やはり雄太はどういう想いをしていたのだろうと改めて考えざるをえなかった。

 それまでは自らと同じく独り身で居続けている事情を心配し、さらに無職となったにも関わらず外見を変えて生き方さえ大きく転換し、ある種の引き籠りになった姉を同情していたはずだ。

 そうでなければあのような遺書を残すはずがない。しかし憐れむ必要など無くなったと知ってから、遺書を破棄しようとは思わなかったのだろうか。

 そうした手続きをしようとしていたけれど、何らかのトラブルに巻き込まれし損ねていたのかもしれない。もしそうだったとしたら、やはり遺産は兄と折半した方がいいのだろう。

 それに最初のテレビ出演で偶然にも雄太の死を報じ、コメントする羽目となった。あれが災いとなり、騒ぎは大きくなってしまった。しかも美奈代によって隠したかった一部の過去まで暴露されたのである。

 もし遺産を総取りしようとすれば彼女はまだ隠されている件についても公にし、藤子に対するバッシングをより一層加速させるかもしれない。それくらいの覚悟はしておかなければならないだろう。

 改めて振り返った時、自分の人生は本当にこれで良かったのかと思い悩む。作家になろうなどと安易に考えなければ、このような事態にはならなかったのではないか。そうかえりみるようになった。

 最初は単に自分を変えたかっただけだ。容姿などのコンプレックスを解消し、筆名を名乗ることでまた新たな別人格が持てると夢見ていたに過ぎないのである。 

 そう考えると雄太も同じだったのかもしれない。一時は罪を犯し隠す為だったのかと疑った。だが彼は別名を名乗る事で、同性愛者である渡部亮に生まれ変わろうとしていたのではないだろうか。

 彼の過去を遡った際、そうした形跡は全く見つからなかった。けれどそれは田北や和香達が調査会社に手をまわし、そうした情報を隠していたからだろう。

 ただ恐らく実際ある時期まで、彼は外部に隠して表立った行動を取っていなかったのかもしれない。しかしどうしても我慢できなくなり、素直な自分で生きようとしたのが別名義で生活し始めた五年前だったと思われる。それはあの竜崎との出会いが大きなきっかけとなったのだろう。

 どういう経緯でいつから公安のエスになり、田北達を手伝っていたのかは不明だ。五年前より先だったのか、それともその頃から始めたのか。その点は新たに依頼した別の調査会社による報告を待ち、そこから推測するしかない。

 和香達とロビーで別れた後、彼女達や田北からは完全に連絡が途絶えた。竜崎については藤子の協力が得られないと諦めたのだろう。恐らく独自に捜査を進めているはずだ。

 そうしている内に一週間が経ち、依頼していた江口から報告があった。説明によると、現時点では雄太の家の裏の持ち主である北野について、所在も含め詳細な情報が全く得られなかったという。

 どうやらその人物も、公安によって手配された架空または別名義なのかもしれない。それなら一週間程度で調べ上げられなくても無理はなかった。

 けれど他の点では、明らかになった事実がいくつか見つかった。やはり沼橋が出した報告書のいくつかに、嘘の記述が混じっていたと判明したのだ。

 まず雄太は少なくとも渡部亮と名乗り出した五年前から、同性愛者だと思われる行動を取っていたらしい。この点は沼橋の報告書で触れられていなかった。そう考えるとやはり彼と和香は繋がっていて、意図的に隠されていたと考えられる。

 だがそれ以前には、その形跡が発見できなかったようだ。恐らく別名義を手に入れるまで、周囲に悟られないよう慎重に行動していたと想像できる。

 また竜崎が口にした、雄太同様名を偽っていた和香達の本名らしき井尻の名から、いくつかの事実も判明した。四十年前、井尻秀隆ひでたかという男が妻を殺害した事件があったらしい。男は殺人の罪で刑務所に入り、服役中に病死したという。

 その夫婦の間には、当時四歳と一歳の子供がいた。親戚等の引き取り手はなく、養護施設に預けられたようだ。その二人の名が井尻晶と井尻薫だと突き止めた。

 和香が養護施設に預けられていた点や、父親が母親を殺した事件についての報告は沼橋からも聞いていたが、本当だったらしい。ただ井尻という名や、兄がいた事実は隠されていた。ここからも前回の報告書が完全には信用できないと証明された。

 一部だけ真実を混ぜ、藤子の同情を引く効果を狙ったのだろう。事実報告を受けた後、彼女への疑いは完全に頭から消えていた。まんまと策に嵌まったのだ。さすが公安としか言いようがない。当然川村が会社を退職した後、長野の実家に戻っていたというのも嘘だ。

 二人の年齢は川村と和香とそれぞれ同じだった為、同一人物で間違いないという。だが施設はもう無くなっており、それ以上の詳細は余り掴めなかったらしい。

 それでも兄の晶は中学を卒業して直ぐに就職し、まだ施設にいた妹の学費を工面していたと判明している。そのおかげで薫は高校を卒業し、大学にまで進学したようだ。

 この点は以前奨学金を利用していたと聞かされていたが、実際は兄による経済的援助のおかげだったと分かった。晶はその間、雄太と同じようにシステム関係の会社を転々としていた。妹は大学卒業後に出版社に入社し、十二年目の三十四歳の時に退職して独立。フリーライターとして今に至る。

 ちなみに彼女の退職理由は、同性愛者だとの噂が職場で広がり居づらくなったからだという。誰かがそうした類の店に出入りしている所を見たのか、誹謗中傷が絶えなかったそうだ。

 和香が言っていた経歴に嘘は無く、雄太が二〇一〇年に彼女がいた出版社のシステム部門に転職していた点も事実だった。よってそこで二人が知り合ったと言うのは本当なのかもしれない。

 井尻薫が南和香と名乗り出したのはフリーになってからだった。彼女は雄太と違って、藤子と同じペンネームを使用していたようだ。つまり南和香という実際の名義は持っていなかったのである。

 しかし兄の晶は違った。雄太と同じく川村昌雄という別名義を使用していた。しかも雄太が勤めていた会社とは別の所で勤務し始めた時から名乗り出したと言う。それがどうやら雄太と同じく五年前と言う点が気になった。

 取り敢えず中間報告という形で受け取った藤子は、更にまだ明らかとなっていない部分の調査を継続するよう依頼した。

 しかしそこに邪魔が入ったのである。彼から報告を受けた二日後、江口の事務所で違法調査の疑いが浮上し、警察の家宅捜査を受けたと連絡があった。その為しばらく依頼された件については動けないと謝罪されたのだ。

 もし急ぐなら別の事務所を紹介すると言われたが、藤子は一旦保留することにした。今回の件は裏で田北が動き、妨害工作をしたのだろうと疑ったからだ。

 探偵業は警察庁の公安委員会への届け出が必要となる。つまり彼らと別組織でも同類の管轄下にあった。それならばどこに依頼し直しても圧力がかかり、同じ状況が繰り返されるだけだと推測できる。この件を受け、やはり和香と川村や田北は怪しく竜崎の言葉が正しかったのだと確信を強めた。

 そこでもう一度彼と話ができないかと考えた。真実を知り、それを藤子に話してくれる可能性があるのは一人しかいないからだ。けれど肝心の行方が全く分からない。

 藤子が無理やり連れだされた為、あのアパートには警察の捜査が入っている。誘拐または軟禁されたとの被害届は出していないけれど、公安があのアジト自体を封鎖し彼の行方を捜しているのは間違いなかった。

 この時点で藤子はこれ以上雄太の死の真相を探り、過去の調査は不可能だろうと諦めかけていた。公安が本格的に絡んでいるのなら、真相は闇に葬られたままになるだろう。また雄太が公安のエスだったなら、過去を暴く行為は彼の為にならないのではないかとも考え始めたのである。

 といってこのままでは遺産の放棄期限までに、雄太の意図も探れないままだ。どうやら負の遺産に関しての懸念は、ほぼ無いと考えていい。よって何もせず受け取ればいいとも思った。

 けれど問題はその後だ。兄夫婦に全く渡さずにいれば、必ず美奈代は報復に出るだろう。それを防ぐ方法は一つある。兄と遺産分割についての協議を行い、納得のいく取り分を決めることだ。そうすれば余計な揉め事を起こさずに済み、今後の兄夫婦達との関係だって何事も無かったかのように保てるだろう。

 しかし雄太の秘密が隠されているあの土地や建物を、彼らの手に渡る事態だけは避けたかった。

 ならばあの家は藤子が相続し、その代わり売却した場合の市場価値を計算した分の遺産を預貯金等で渡せばいいだろう。面倒な手続きをせずに現金を貰った方が美奈代も喜ぶに違いない。そう考えれば一石二鳥だ。

 ただそれで本当に良いのだろうか。和香が口にした言葉がまた頭をよぎる。今思うと竜崎に近づく為の方便だったのかもしれない。だが彼女は兄との関係を危惧するなら寄付をしたって良いと言っていた。そう告げていた彼女はどこまで本気だったのだろう。 

 竜崎が予想外の行動に出た為、雄太がどのような活動をしていたのかは不明なままだ。けれど香港の民主化運動に加担していた話は嘘に違いない。だったら彼女が口にした寄付を考えても良い団体は存在しないのだろうか。

 それとも彼女達の生い立ちを考えれば、何らかの事情で親と離れて養護施設へ預けられた子供達を支援するNPO等を指すのだろうか。

 少なくともあの二人と雄太が交流を持っていた点は確かな為、その線はあり得る。後は自身も同性愛者だったから、LGBTQ等を支援する団体の可能性もあった。それとも他に別の何かをしていたのだろうか。

 ここで改めて考えた。雄太が自筆証書遺言書保管制度を利用したのは約一年半前だ。それは当時藤子が無職だったからだと思っていたが、そうでは無いのかもしれない。

 作家としてデビューしたのはその一年後だ。芥山賞を受賞したと分かってからも、二カ月経っている。書き換えるつもりなら時間はそれなりにあったはずだ。

 それにもし境遇に同情していたとしても、藤子だって両親から遺産を受け取っていたのは彼も知っている。しかもそれまで勤めていた会社で彼より高収入を得ており、預貯金だって十分あったはずと理解していたに違いない。

 それなのにわざわざ藤子に全額を残すというのは、さすがにやり過ぎではないか。もし同情があったとしても両親がした通り、兄よりやや多めに残す方法だってあったはずだ。

 あの時でさえ、彼は多少なりとも兄弟間でぎくしゃくした経験を味わっている。それなのに揉めると予測した上で、あのような遺言を残すだろうか。美奈代が激怒するとも予想できたに違いない。しかもあの若さで何故遺言を残していたのかと訝しんだ。

 しかし公安のエスだった事実を考慮すると、もしもの事態が起こった場合に備え書いていたのだと思えば理解はできる。やはり和香が強く主張していたように、雄太は将来あのお金をどう使うか、目的を持っていたのだろう。だが何らかの理由があって、それを遺言に残せなかったとは考えられないか。

 だからもし自分の身に何かあった場合、藤子に託せばその意思を継いでくれると信じてくれたとも考えられる。また和香はそれが何かを知っているのだろう。その上で万が一藤子が悩んだり誤った方向へ進もうとしたりすれば、軌道修正させる役割を負っていた可能性はないだろうか。

 もしそうだとしたら、和香と繋がりを断ったのは間違っていたのかもしれない。そうなると彼女を問い詰め、雄太が描いていた遺産の使い道を確認しなければならないとさえ思い始めた。

 しかしそれは同時に、兄夫婦との確執を決定づける。さらに今後の作家人生をも狂わせかねない。そう思うと雄太は何故藤子をこのような境遇に追い込む選択をしたのか。

 どちらを選ぶにしても、苦しむことは間違いない。それでも止むを得ないと思っていたのだろうか。それとも彼は、必ず正解に辿り着くと信じていたのだろうか。それが藤子にとっても好ましい道だと考えていたのだろうか。

 藤子の悩みは尽きることが無かった。

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