第五章

「てめえ、誰の金で飯を食っていると思っているんだ!」

「大した稼ぎもないくせに酒ばっかり飲んでいるあんたが、偉そうに言うんじゃないよ!」

 晶が物心ついた頃から、両親はしょっちゅう激しい喧嘩をしていた。余りに長引いた時は、近所の人が仲裁に入ってくれたりしていたけれど、大抵は皆いつものことだと諦め傍観していたと思う。

 交番のお巡りさんも時々様子を見に来てはくれたが、昔から夫婦喧嘩は犬も食わないという常識がまかり通っていたからか、何もしてはくれなかった。後にそれが民事不介入という壁があったからだと知ったけれど、やがては家庭内暴力だって立派な犯罪だと理解した頃には手遅れだった。

 なぜなら父は母を殴り殺してしまったからだ。酒が入っていたからかいつも以上に激しく口論した末、頭に血が上った父は拳を振り上げ、何度も痛烈に殴打していた。普段ならある程度の所で止めるのだが、その日は何故か歯止めがかからなかったようだ。本人が正気に戻った時、母は頭から血を流しぐったりしていた。父は慌てて人を呼んだが、事切れていたのである。

 救急車やパトカーが家に着いた際、父は居間で母の遺体を茫然と見つめていた。当時四歳だった晶は、奥の部屋で一歳の妹の薫と激しく泣き叫んでいた記憶がある。母が死んだという状況を正確に把握していなかったと思うが、恐ろしい事が起こったとだけは肌で感じていたのだろう。

 後に教えられたが、晶は布団で横たわり泣き止まない薫の妹に被さり、彼女を守るような恰好で号泣していたらしい。また二人の体には、いくつもの痣があったそうだ。記憶は曖昧だけれど、喧嘩の巻き添えになり何度も殴られていたのだろう。恐らく当時も、薫が殴られないよう庇っていたと思われる。

 父は警察の人達に捕まった。晶達は男性と女性の人の手に抱かれ、病院へ連れて行かれたことは覚えている。彼らはしばらく二人の面倒を見てくれたが、その後は知らない大人達と多くの子供達がいる場所へ預けられた。そこが養護施設だと知るのはずっと後のことだ。また父が刑務所内で亡くなった経緯を教えられたのもその頃だった。

 父は酒癖が悪く、そのせいでよく母と喧嘩していたようだ。当時の経済状況は右肩上がりで、建設業に関わっていた父の給与も当初は比較的良かったらしい。だが調子に乗り過ぎたのだろう。ある日仕事終わりに同僚達と酒を飲んでいた席で上司に暴言を吐いてしまい、それを理由に首を宣告されてしまったそうだ。

 翌日それを聞いた母が激高し大喧嘩となった。日頃の鬱憤も溜まっていたのだろう。離婚すると言い出した為、誰が今まで養ってきたと思っているんだと父は反撃したらしい。その結果が取り返しのつかない事件を引き起こしたと説明された。

 ちなみに父は、積み重なる酒の飲み過ぎで肝臓を患っていたという。それが悪化し肝硬変を引き起こしていたのだ。つまり収監されていなければ、もっと早くに病状が深刻化して亡くなっていた可能性があったとも聞かされた。

 晶達は施設内でいじめを受けていた。それはそうだろう。両親がいないだけでなく、人殺しの子供なのだ。周囲にいる子達もそれぞれ複雑な事情を抱えていたのだろうが、そうした寂しさや不満、どうしようもない怒りなどを持っていたのだろう。自らが傷ついている分、人には優しくできるなんて全くの嘘だ。彼らがぶつける先は晶達だったのだから。

 子供というものは純粋なのか正直なのか、残酷な一面を持っている。それが自分より弱い者をしいたげることで己の悲しみを和らげようと、心の防御反応が攻撃へと切り替わるのかもしれない。もちろんただ単純に、暴力で憂さを晴らしている場合もある。

 晶は父に虐待されていたからか、そんな彼らに対し力で対抗しようとする勇気を失っていた。また当時栄養も足らなかったのか、体も同じ年の子に比べやや貧弱だったからだろう。さらに妹と二人だけでよく遊んでいたからか、男らしさに欠けると指摘されていた点も周囲からまとになり易かったらしい。

 施設の大人達もある程度は守ってくれたけれど、目が届かないまたは黙認していたのか、晶自身は施設を出るまで苛めは無くならなかった。もちろん自身にも問題があった点は否めない。というのも勉強が良くできた薫は、成長するにつれて同性の子達と上手く関係を気付き、男子達からの苛めを防いでいたからだ。

 そんな妹を晶は頼もしく思っていた。だから大きくなるにつれて施設から早く出て働き、お金を稼いで薫を大学まで進学させたいと考えるようになったのだ。何故なら養護施設は基本的に高校卒業までしかいられないからである。よって余程お金に余裕が無ければ、進学など無理だと言うのが当時の常識だった。

 特例では退所期間を延長し、大学に進学するケースも僅かながら許される人もいたらしい。しかし通常はそこまで面倒をみてくれない場合が大半だった。よってほとんどの子供は高卒で就職していた。

 その後は自分達で住む場所を確保し、生活できるよう懸命に働くのである。期限が来れば施設を退居しなければならないので、自立した生活を送らざるを得なかったからだ。

 しかし当時は学歴社会の真っただ中だったこともあり、高卒と大卒では生涯賃金に相当な格差が生まれるとされていた。その為に施設出身者は貧困から抜け出せず、結婚をして子供を産めばさらに生活は苦しくなっていく。そうなると次の世代も十分な教育を受けられないという負の連鎖に陥ると、晶は卒業していった先輩達の姿を見て学んでいた。

 だから高校卒業を待たず、もっと早く施設を出てお金を稼ぐ方法はないかと考えていたのだ。そうすれば三つ下の薫が高校を卒業するまでの六年間で、一緒に暮らせる環境を作り、さらにはその先の進学費用まで用意できるのではないかと思っていたのである。

 けれども中卒で雇ってくれる職場など限られていた。それに給与も十分ではないので施設を出て一人で暮らせるかどうかさえ危ういから、せめて高校だけは卒業しておけと施設の大人達からは言われていたのだ。

 通常なら不本意ながらもその言葉に従っていただろう。けれど晶達にとって救いだったのは、母親の同級生だったと名乗る親切なおじさんがいてくれたことだ。

その人は以前父親が逮捕された際、一時的だが晶達の世話を焼いてくれた人に良く似ていた。もしそうなら、彼は警察の人だから信用ならないと最初は警戒していた。その理由の一つとして、警察は母を見殺しにしただけでなく、父をもどこかへ連れて行った人達だと思い込んでいたからだろう。

 しかし何度も施設を訪れては買ってくれたグローブとボールを使ってキャッチボールをしたり、三人でバドミントンをしたりしてよく遊んでくれた。さらには自分達だけでなく施設の子達にお菓子をくれたり、誕生日にはプレゼントやケーキを貰ったりしたのだ。 

 そうした時間を経て、晶はおじさんと打ち解けられた。その頃には薫も彼を実の父親以上に慕っていた。やがて二人は信頼し心を開くようになり、少しずつ悩みや相談もするようになったのだ。

 そんな彼と出会ってから八年余り、晶が中学二年の十四歳で薫が十一歳の時である。おじさんの本当の姿を告白され、仕事を手伝ってくれないかと頼まれたのだ。警察官だという事は薄々気付いていたが、初めて仕事内容を聞いた時にはさすがに驚いた。

 公安という職種については、なんとなく小説などで呼んだことがある程度で良く知らなかったせいもある。けれど説明を受ける内に、晶は強い興味を持った。というのも人殺しの子である自分のような人間でも、国の為に役立つことができると分かったからだ。

 もちろんこれまでとても親身になってくれたおじさんの仕事を手伝えるという点でも嬉しかった。さらには中学を卒業して働くことができるだけでなく、応援してくれるという言葉が何よりも励みになった。

だから言ったのだ。

「どんなきつい仕事でも頑張ります。ここより酷い苛めがあっても、お金さえ稼げれば文句は言いません。僕は殴られたって貧しくたっていい。一生一人身でも薫の為になるなら、耐えてみせます。それに薫が大学を卒業して立派になり自立できれば、手伝わせたい。あいつなら絶対そう言ってくれると思います」

 実際後に説明した時、彼女は当然とばかりに頷いてくれた。後で聞いたが、晶がすんなり受け入れてくれたのは意外だったという。それどころか薫まで手伝ってくれるとは考えていなかったらしい。

 かなりの抵抗に遭う覚悟もしていたという。これまでの言動は全て善意のふりで、本当は単なる手駒が欲しかっただけだろうと疑われれば、違うと言っても信用し難いとおじさんは言った。

 けれどもエスとなれば、相互に強固な信頼関係が無ければ成り立たない。だから腹を割って正直に告げたという彼に、晶はこれまで以上に絶対的な信用を持つようになったのである。またこれまでに至る経緯や、仕事内容についても事細かに教えてくれた。

 母が殺された当時、殺人事件となった為に、その後の処理は本庁の刑事達が取り仕切ったようだ。よってまだ交番勤務の警察官に過ぎなかった彼は、最も早く現場に駆け付けた一人だったにも拘らず、現場周辺に集まる野次馬達の整理を任されていたという。

 死体を見たのもあの時が初めてだったらしい。けれどそれ以上に痛烈な印象を残したのは晶達の状況だったそうだ。その為二人が養護施設へ預けられた後も目を離せなかったと彼は言った。

 もちろん警官を続けている間、その後も似たような現場を何度か経験したという。しかし彼にとって晶達兄妹だけは特別だと言った。だから父が裁判により傷害致死罪で十年の有罪判決を受け、数年後に獄中で病死した経緯も知っていたそうだ。その為に交番勤務を終え刑事になってからも、晶達の行く末を追い続けてくれていたのである。

 当初は入所している施設を訪れ、こっそりと様子を見守るだけだったらしい。どうしても二人の将来がどうなるか、心配でならなかったからだという。それで母親の同級生だと偽り、距離を縮めようとしていたと説明してくれた。

 しかし後に転機が訪れた。刑事の中でも優秀な成績を残した者しか配属されないと言われる公安部へ、彼が異動となった為だ。特殊な任務を負う仕事で、先輩達からは様々な事を教わったという。その中で最も興味を引いたのは、公安の刑事達がそれぞれ個別に抱えているという情報提供者、いわゆるエスの存在だったらしい。

 彼も独自にそうした人脈を形成していく内に晶達のことが頭に浮かび、いずれ自分のエスに育てようと思い付いたのだと告白してくれた。

 通常捜査対象の団体や会社等の内部の人間の中から、これはという人物を選ぶそうだ。そこから徹底的に身辺調査を行い、弱みを握る又は接待などをして貸しを作り巻き込むのだという。

 例えばある右翼団体の監視や情報収集の役目を与えられた場合、所属員や出入りする関係者達の中から、キーマンに近い人物を探る。そこから協力者になり得るターゲットを絞り、お金に弱ければ買収または借金している等の弱みを掴む。女が好きならば罠に嵌めて脅し、内通者に仕立てるケースもあったようだ。

 しかし彼はそうした手法が苦手だったらしい。そうして協力者に仕立てた輩の意識によっては、リスクもあったからだという。中には相手側に金を握らされ裏切る場合がある。金で転ぶ者は同じく金で動く為だろう。また仲間を売る後ろめたさと板挟みになり、精神的に病んで自殺されてしまう危険性もあったそうだ。

 そうならないよう心掛ける為には、協力者との人間関係が大事になる。特にエス自身が世の中の為にやっていると意識付けできればより安全だ。時間はかかるが、そのやり方が向いていると彼は考えた。そこで晶に目を向けたのだろう。

 それに二人を身近に置いておけば、いつでも堂々と様子を把握出来る。就職に困っても、仕事を斡旋する等の対処が可能だ。そうすれば経済的に貧窮ひんきゅうさせずに済む。そう思いついた彼は、それまでより深く積極的に晶達と接触を図るようになったらしい。

 それまでいろいろな相談を彼にしていたからだろう。晶達の気持ちを良く分かってくれていた。決していい環境とは言えない施設から早く脱しようと、最短で施設を出る決心を固めていた晶にとって、彼の申し出はとてもありがたいものだった。

 施設を出て働くだけでなく薫も引き取ろうとすれば、先立つものが相当必要になる。よって当初は晶だけ先に出て彼女を金銭面で援助できるだけの貯金をすれば、将来もっと自由に生きていけると考えていた。

 そうした思いを汲み取ってくれた彼は、何とか応えてやれないかと上司に相談したそうだ。そこでこれからの時代は、パソコンを使いこなす技術が必要だとアドバイスを受けたらしい。

 まだ普及し始めたばかりだが、今後は機械操作に精通する技術者ならば食うに困らないどころか引く手数多になるはず。加えてエスとしても重宝されると言われたそうだ。

 当初晶はその提案に難色を示した。良く理解できない世界だったことに加え、余り勉強が得意でない自分にできるのか自信が持てなかったからだ。それでも手に職を付けるという意味では他の仕事と同じであり、将来におけるメリットを訴えられ、その世界で生きていくなら必ず薫を大学に進学させられると説得された。

 その上彼は将来への投資だといい、決して高額でない給料の中から自費でシステムエンジニアになる為の講習を晶に受けさせ、そうした職業に就くよう促したのである。後になって思えば、彼は独り身だったから出来たのだろう。通常ならそこまでは無理だ。

 彼の本気度が伝わって来た為、晶は覚悟を決め懸命に努力した。そのおかげでなんとか中学卒業までに資格を取り、システム関連の会社へ就職できたのである。

 その後インターネットが世間で普及し始めると、知識や技術を身につけた晶はその能力を生かしたエスとしての仕事を着実にこなすようになった。またある一定の成果を得た後は、更なるターゲットがいる別の企業へと転職して業績を上げた。

 そうなると公安から協力費として一定のお金が支給できる。その点は大いに助かった。もちろん本職での給与や待遇も徐々に良くなり、着実に薫の進学費用等を蓄えられたのだ。

 そうした実績から、昔ながらのエスとは違う晶のような動きのできる者がこれからもっと必要になると彼は肌で感じたのだろう。同じ業界にいる人材の中から適した者はいないか探したそうだ。そこで目を付けたのが保曽井雄太だった。

 おじさんの依頼により彼の家族構成を調べると、身元が確かだと分かった。雄太の祖父の慎蔵は、元公安警察の刑事だったからだ。

 通称特高と呼ばれていた特別高等警察は、「国家組織の根本を危うくする行為を除去する為の警察作用」と定義された組織であり、戦前は多くの国民から恐れられる存在だった。

 しかし敗戦後、GHQによる人権指令により特高に在籍していた官僚や警察官は公職追放の対象となる。ただし戦争犯罪人として指定され問責や処罰された者は一人もいなかったという。

 当時一万五千人程いたとされる関係者の内の約五千人が休職となり、その後依願退職の形で罷免ひめんされたそうだ。この時警察の情報収集能力が格段に落ちたと嘆いた者は少なくなかったらしい。

 その為内務省上層部は反政府組織の動静に対処する為にも、全国の特高警察網を温存させる必要があると考えた。そこで代わるべき組織として内務省警保局に公安課が設置され、各都道府県警察部にも警備課が設置されたのである。

 GHQも特高警察の重要性は認識していたらしい。実際通称G2ジーツーと呼ばれる参謀二部は公職追放された関係者を多く雇用し、内務省調査局とその後身である法務庁特別審査局に入局させている。それは公務員や民間企業において、日本共産党員とその支持者とされる人々を解雇したレッドパージ、いわゆる赤狩あかがりと呼ばれる動きに大きく貢献した。

 G2は公安警察とも密接な関係にあり、日本の各地方に置かれた管下の対敵諜報部隊は、各都道府県警察部の警備課、後の公安課と緊密な連絡を取り合って活動に従事していた。後にG2は、中央集権的な警察機構の存続を望む内務省警保局を支持。警察機構の分権化や細分化を進めるGHQ民政局と鋭く対立までしていたという。

 その後GHQの占領政策の転換に伴う公職追放者の処分解除により、一九五一年九月以降、彼らは警察庁、警視庁公安部、公安調査庁やその他各省庁の上級幹部職に復職したようだ。赤狩りが行われたのは一九五〇年頃であり、一万人を超える人々が失職したという。 

 関東近郊に住んでいた保曽井家が、東京へ出てきたのも丁度その時期に当たる。表向きは曾祖父が亡くなったのを機に、子供の教育の為と称し上京していた。だが恐らく地方で一度罷免された慎蔵は再び招集を受け、公安警察に採用されたのだろう。

 おじさんが警察に入った頃、慎蔵は既に公安から身を引いていたようだ。その為接点は全くなかった。だがその頃をかろうじて知る当時部下だった人達に聞いたところ、相当優秀な人物だったと分かったらしい。

 雄太の存在を知った時、慎蔵はもう亡くなっていた。しかもその一人息子の太一は大手銀行の役員にまで上り詰めており、警察との繋がりはなかった。

 けれどもそのDNAと意志は、孫に受け継がれていたらしい。優秀な学歴を持つ父親とは違い、雄太は高卒で就職していた。だがシステムエンジニアとして職に就いたのは、祖父である慎蔵の入れ知恵だった形跡があったのである。

 後に判明したが、慎蔵は彼を警察官にしたかったという。だが補導歴があった事と、太一の反対にあった為断念したらしい。彼の息子は慎蔵の仕事を良く思っていなかったようだ。懸命に勉強して一流の大学へと進学したけれど、国家公務員試験を受けず一般企業に就職したのがその証拠だろう。

 ただその結果、彼は順調に昇進を重ねるだけでなく高収入を得たことで、保曽井家は裕福な暮らしが出来たと思われる。高度成長期の最中だったからでもあるが、公務員ではそこまでの財を築けなかったはずだ。それでも戦前の古い考えを持つ慎蔵と新しい時代を生き抜こうとしていた太一との間では、様々な対立があったらしい。

 そうした事情だけでなく特殊要因が重なり、家庭内は複雑な環境にあったようだ。その犠牲となったのが子供達だろう。中でも雄太は上二人と異なる境遇に置かれていたからか、太一に反発し始めた。それが慎蔵との距離を縮める結果になったと思われる。

 というのも父親と同様に成績が良いけれど運動神経が鈍い兄達を見て、彼は敢えて学校の勉強が嫌いな振りをし、スポーツに打ち込んだという。そうして差別化を図り、意図的に兄弟間での競争を避けていたようだ。

 当初は身分を偽り彼に接近し交流を深めたおじさんと晶は、率直な会話が出来るタイミングを伺っていた。やがてその時が訪れ、正体を明かし彼の本音を探ったのである。

 おじさんが公安警察だと知った雄太は目を輝かした。

「本当ですか。亡くなった僕の祖父も、昔はそうだったんですよ」

 当然知っていた情報だが、その時は初めて聞いたとばかりに驚いて見せ、その先を促した。すると彼は言ったのだ。

「事情があって大学へは進学しませんでしたが、こっそり勉強していたんです。でも自分の部屋でしていたらばれてしまうので、よく祖父の部屋に通っていました。その時、色んな話を聞いたのです。だから将来、祖父と同じ警察官になりたいと思っていました」

 何故ならなかったのかと尋ねた所、彼は教えてくれた。

「高校時代、ちょっとした騒ぎに巻き込まれ補導されたのです。不可抗力とはいえ汚点がつきました。それが原因で、こっそり応援してくれていた祖父から諦めろと言われました。とても厳しい人だったので、警察官になろうとしている者が一度でも捕まる側になったのだから、資格は無いと思ったようです」

 元々父親が反対していた事情もあり、その夢はすっぱり諦めたという。ただ警察官にならなくても国の為に役立つ仕事は他にあると考え、彼はシステムエンジニアを目指すようになったらしい。

「それも祖父から聞いた話がきっかけでした。これからは、情報を制する者の力がますます必要になる、と断言していました。戦時中も敵方にやり取りを隠す暗号を使ったり、逆に解いたりする作業はとても重要な任務だったそうですね。その後も捜査対象者がどういう動きをしているか、探る仕事を私達はしてきたんだと誇らしげに語っていました」

 まさしく戦前の特高や公安警察が行ってきた働きだ。そこで得た経験や知識を慎蔵は彼に伝え、叩きこもうとしていたのだろう。その頃パソコン等の情報処理する機械が普及し始めていた為、そうした能力を持っていなければ取り残されると教えられたそうだ。

「君のお爺さんは、先見の明を持っていたんだね」

 おじさんが褒めると、彼は少し照れたように笑った。

「一番期待されていた仕事に就けなかった分、そっちの分野で頑張ろうと思いました。それにネットワークを介して得た情報は、とても貴重ですよね。戦時中もそうした機器は開発されていたようですが、今は相当発達しています。それにかなりのスピードで機能が向上していますから、遣り甲斐を感じました」

 そうした話題で盛り上がっている際、情報の流出を防ぐ技術を学ぶ内に、そのスキルはライバル企業等から重要機密を盗み出すノウハウと表裏一体だと気付いたらしい。セキュリティを高めるには、ハッキングの技術も知る必要があった。そこで自ずと両方に通じる知識や知恵が身についたようだ。

「今は金融関係の会社で、システムの開発や保守に携わっています。将来的には政府の機関等で、そうした仕事に関われたらと思っていました。警察官にはなれませんでしたが、別の形で祖父のようにお国の為に役立てたら、天国で喜んでくれるんじゃないかな」

 そこから特異な事情を抱えて育った経緯や、諸々の悩みを持っていると打ち明けてくれたのである。そのような経歴を持つ彼に、晶達と通じるものを感じたのだ。

 その一つは孤独感だった。晶には妹の薫がいたけれど両親を失った。もちろん親戚等からは完全に縁を切られている。それに比べて雄太には両親が揃っていて、しかも立派な大学を卒業し有名企業に勤めている兄達もいた。

 しかし彼と母親だけが高卒であり、また異質な事情を抱えていたからだろう。話を聞いている内に、家族間では彼だけ特別視されている状況が分かってきた。しかもそうした反発心から高校生の時にはヤンチャなグループに属し、学校で騒ぎを起こしたという補導歴に繋がったと思われる。

 それからは心を入れ替え真面目になり、高校卒業後には親のコネで就職をしていた。その後会社が倒産する憂き目に遭いながらも、システム関係にいた経歴を活かし再就職している。晶より四つ年上だが高卒の分、システム歴は一年程度先輩なだけでほぼ能力は同等だった。

 そうした事情は、自治体や国が主催する企業向けのハッカー対策を中心としたセキュリティ関連のセミナー等に、晶と雄太も参加していた為に把握していた。そこで思いきって、おじさんはエスにならないかと雄太を誘ったのだ。

 すると彼は興味を持ってくれた。その為仲間に引き込む手段として既にエス歴六年目だった晶と顔を合わせし、交流を深めるようになったのである。

 おじさんの目論見は功を奏し、晶達はすぐに意気投合し共に情報提供者として動くようになった。その翌年には無事大学を合格し養護施設から出た薫が、晶と二人で住み始めるようになった。それを機に雄太との交流も深め、さらには女子大学生のエスとして活動を開始したのだ。

 女性でさらに学生としての身分を持ったエスなど、他の公安刑事達だって抱えていなかったらしい。それだけに薫は潜入捜査等あらゆる場面で使い勝手が良く、また頭も良かったのでとても重宝されたようだ。

 しかも大学卒業後、出版社への就職が決まってからはマスコミ関係の情報を得たり、裏で偽の噂を流して撹乱したりする重要な役割を担うまでに成長していたのである。

 晶達三人はとても気が合い、また連携しながら様々な任務を遂行し、公安には欠かせないエスとして活躍し続けた。けれど出会ってから二十数年後、晶達が取り返しのつかない事件を起こしてしまうなど、当然おじさんは予期できるはずもなかったに違いない。



 答えが出ないまま時間だけが過ぎてく中、藤子はホテルの部屋でテレビをつけたまま小説を読んでいた。物語をアウトプットする気にならない場合、インプットに時間を費やせばやがて頭の肥やしとなるからだ。

 そんな時、竜崎逮捕のニュースが流れた。

 鈴木健と名乗っていた人物の本名は竜崎祐司であると分かり、公文書偽造等の罪で逮捕されたという。その為以前勤めていたIT関連の子会社を調べた所、不正アクセスの疑いが浮上したそうだ。現在産業スパイの容疑でも取り調べをしているとの報道から、別件で逮捕して身柄を拘束したのかもしれない。

 彼が住んでいたアパートの捜索から、背後に大きな組織が隠れていると公安は確信したはずだ。しかしそうした証拠が見つからなかった為、国外逃亡されないようまずは確保したのだろう。その上でじっくり取り調べをしながら、情報の流出に関わっている点を一つ一つ洗い出し、立証しようと企んでいるのだと想像できた。

 ニュースではその前に勤めていた警備会社でも、情報を不正に入手した疑いがあると伝えていた。そこには七年以上勤めていたという。またその前にいた別会社を含め捜査が進んでいると伝えていた。

 産業スパイを罰するのは、個人か企業による場合等で差があった。しかし基本的には営業秘密不正取得・利用行為又は不正競争防止法を適用する。罰則は個人だと懲役十年以下または二千万円以下の罰金を科す等のケースがあった。

 法人では海外使用だと最高十億までだ。けれど時効が営業秘密の保有者、いわゆる企業側が不正使用の事実及び不正使用する者を知った時から三年以内である。

 よってこれから彼が勤めていた企業を捜査し、不正使用されていたと証明できれば、遡って罰することも出来るという。ただし国際的なスパイ行為となれば、それを防止する法律は日本にまだない。

 その為背後に中国公安がいたとしても、せいぜい竜崎個人がある企業に情報を渡したという形で罰して終わりになるだろう。それでも末端の人間の逮捕により、そうした行動を抑止する効果がある。やらないよりはマシだ。けれどそれがこの国の限界だった。

 もちろん雄太については全く触れられていなかった。竜崎を逮捕してどういった情報を入手していたかを暴けば、事故として処理された雄太の件など明らかにする必要はないからだろう。

 今回の知らせを聞き、このまま真相は隠されてしまうと藤子は落胆した。

 そうしている間に彼の死から三カ月が過ぎ、遺産放棄の期限がとうとう切れた。よって遺産は必然的に受け取らなければならなくなった。後は兄と協議するか否かの選択である。

 この時雄太の死に関して、マスコミの騒ぎは完全に収まっていた。ニュースでは、以前発見された白骨死体の身元が明らかになった話題で持ちきりだった。DNA鑑定などの分析で奇跡的に判明したらしく、被害者の人間関係を洗い出し犯人の特定を急いでいるという。

 そうした新たなネタの出現で、藤子に対する世間の関心もどんどんと薄らいだ。よってそろそろ作家として本格的に動き出して欲しいと、担当編集者からも依頼が来ていたのだ。

 その為藤子はホテルを引き払い、自宅へ戻ることにした。しかしいざ作品を書こうと思っても筆が進まない。遺産をどう処理するかで頭の中が一杯だったからだろう。

 また自分は本当にこのまま作家として生きて行けるのか。そもそもそれを望んでいるのか、と再び苦悩し始めたのである。井尻兄妹からかけられた言葉が、頭の片隅に残っていたからかもしれない。

 そこでまず一旦筆を置き、出来ることから始めようと考えた。最初に手をつけたのは、雄太がマンションから落下した際に怪我をした綿貫との示談だ。

 弁護士の報告によれば、既に治療は思ったより早く進み、その費用も全て病院に支払い終わっている。退院後のリハビリも順調だったらしく、今は以前同様朝の散歩が出来るまでに回復したそうだ。

 その為最終的に慰謝料を含め算出した賠償額から若干上乗せした金額を提示し、無事示談は終了した。その為にかかったお金は警察や税務署とも相談し、渡部亮名義で蓄えられていた預貯金で賄った。それらを全て使い切った上で、足りない分を藤子が支払ったのである。示談書の提示や捺印を頂くまでの手続きは、全て弁護士を通じて行った。ただ藤子は最後の段階で顔を出す役割を担ったのである。

 今回の場合、そこまで必要ないと弁護士からは諭された。しかしそれでも無理を言って彼女の家に足を運んだ。少なくとも、最初と最後ぐらいは挨拶しなければならないと考えていたからでもあり、少し聞きたい話もあったからだ。

 彼女は雄太も住んでいた、あのマンションの一室に戻っていた。藤子が挨拶に伺うと、以前と同様に矢代という男性も一緒かと思っていたが、予想に反し彼女は一人だった。示談が済み、無事お金も振り込まれたと確認できたからかもしれない。

 そう思いながら、藤子は用意していた菓子折りを渡し話しかけた。

「ご無沙汰しています。お体の具合はいかがですか」

「お陰様で後遺症もなく、以前と変わらず外を出歩けるようになりました。弁護士さんにも伺いましたが、慰謝料を上乗せして頂いたようですね。有難うございました」

 幸いにも彼女は前回会った時と同じくとても好意的に接してくれ、責める言葉は一言も発しなかった。それどころか怪我をして怖い目に遭ったはずの彼女は、こちらの目を見て悲し気に優しい言葉をかけてくれたのである。

「あのような形で弟さんを亡くされ、さぞかし大変でしたね。でも大丈夫。あの方は必ずこれからも、あなたの近くで見守っていてくれるはずです。それを信じ、あなたはあなたの進むべき道を歩んでくださいね」

 彼女の表情がとても慈悲に溢れていたからか、藤子は胸を打たれた。今まさしくその点に悩んでいると、まるで見通しているかのような言い回しだったからだ。

 改めて謝罪した上で、藤子は何となく気になった点を尋ねた。

「以前同席されていた矢代さんは、今どうされていますか。あの方もお元気でしょうか」

 すると彼女は首を振った。

「ごめんなさい。私も今は良く知らないのです。入院していた当初は何度かお見舞いに来て頂いたけれど、最近はお会いしていません。多分、このマンションからも引っ越されたんじゃないかしら」

 どこに変わったのかも当然分からないという。意外だった。せっかくこのマンションを訪れた為、彼の分まで菓子折りを用意していたからだ。そこで聞いた。

「そうですか。あの方にもご挨拶をと思っていたのですが、お勤め先はご存知ですか」

 それも知らないと言うので、恐らく彼が今回の件で横やりを入れてくる心配はなさそうだと判断した。そこで話題を変え、彼女のその後の様子を伺った。報告を受けていた通り、順調に回復していたようなので藤子は安心した。今後彼女と揉める恐れは無いと確認できた為、そのまま部屋を後にしたのである。

 こうして懸念材料の一つを消し去り、他にも細々こまごまとしたものから着手し、やるべき事を一つずつ確実に処理していった。しかしまだ手を付けられていない、重要な仕事が残っている。その一つが竜崎から雄太の話を聞き出す事だった。

 彼は現在、警視庁の留置所で勾留されている。留置中は基本的に家族でさえ簡単に会えない。しかも一般面会できるのは逮捕から三日後以降の平日だけと限定されていた。

 接見禁止が付かなければ、一般面会は認められる場合もあるらしいが、彼には禁止処置がとられていた。それでも何とか会えないかと、彼についてる弁護士を探し出して連絡を取り、直接事務所に訪問して訴えたのだ。

 すると弁護士は、是非協力したいと申し出てくれたのである。どうやら彼の説明によると、逮捕された竜崎は警察の取り調べに対し完全黙秘しているという。それでも情報を引き出そうと、田北達が様々な駆け引きをしているそうだ。その為弁護士は言った。

「事件関係者以外の家族等にも会えるよう、接見禁止の一部を解除する申請は出せます。彼には面会を申し出ている家族はいません。今回の事件における竜崎さんの罪を軽くする為、あなたとの面会を交換条件に出してはどうかと彼を説得しましょう」

 弁護側としては公安を相手に抵抗するよりも、素直に話した方が良いと考えていたようだ。しかし竜崎は応じなかったという。

 ただ心残りは何もないのかと問いかけた際、一度だけ雄太の姉に話していないことがある。それくらいだと小さく呟いたそうだ。その気持ちがまだ残っているのなら、上手く交渉できるかもしれないと彼は言った。

 藤子にとっては大きなチャンスだ。言い残した内容とは何なのかを是が非でも聞きたい。それこそが最も望むことだった。

「宜しくお願いします」

 そう頭を下げて事務所を後にした。

 それからしばらくすると連絡が入った。しかも弁護士からではなく、田北からだった為に藤子は驚いた。

「ご無沙汰しています。今宜しいですか」

 今更何を言い出すのかと訝しんでいると、彼は話を続けた。

「厚かましいと思われるかもしれませんが、実は今回お願いがあってお電話しました。もうお気づきだと思いますが、我々は竜崎と接触させる為に保曽井さんを利用しました。その件についてお詫び申し上げます。大変申し訳有りませんでした」

 殊勝にも謝罪する彼の口調に戸惑いつつ、どう返せばよいか分からず何も言えないでいた。すると彼は本筋の話題を一方的に説明し出したのだ。

 やはり弁護士が説明していた通り、黙秘を続ける竜崎から情報を引き出そうと彼らは苦労しているらしい。そこで今回は特別に弁護士や警察官の同席の元、藤子と面会できるよう手続きを取ると言われたのである。

 田北としては捜査を少しでも進展させたい為、どうしても会って欲しいようだ。竜崎もその取引に応じたという。

 これまで騙されていた相手であり、公安には良い感情を持っていない。だがこちらが望んだ展開だった為、断る理由などあるはずもなかった。それに竜崎が何を話すつもりなのか、期待に胸が膨らんだのである。

 その一方で、どんな内容を聞かされるのかと怖くもなった。彼は国際的スパイなのだ。よって正直内心では困惑していた。

 そうした反応を見せたからか、田北は言った。

「今回の面会により、雄太さんの死の真相に辿り着けるかもしれません。また全ては言えませんが、もし私達に協力頂けるのであれば、我々と雄太さんとの関係をお伝えします」

 そう藤子に交換条件を突き付けてきた。ある意味、彼に付け込む隙を与えて貰ったと言える。これが最後の機会かもしれない。そこで彼に質問を浴びせた。

「分かりました。竜崎さんと話をさせてください。ただその前にお答え頂きたい事があります。雄太は公安であるあなたのエス、いわゆる情報提供者だった。さらに和香さんや川村さんも同じ一味で、彼らの本名は井尻薫と井尻晶という兄妹であると認めますね」

 調査報告書を出した江口の事務所を家宅捜索したのが公安である彼なら、藤子がどこまで把握しているかは承知済みのはずだ。それを惚けるつもりなら、面会しないと突っぱねる覚悟をした。

 しかし彼はすんなりと白状した。

「はい。雄太さんや井尻兄妹は私のエスで同志でした。元は公安の先輩だった、羽村はむらという刑事のエスだったのです。しかし彼が第一線から退いたので、私が彼らを引き継ぎました。もう十四年前の事です」

 そんなにも昔から雄太が公安のエスをしていたと聞かされ、驚きを隠せなかった。藤子は三度目の転勤で、京都に配属された頃だ。しかも田北が先輩から引き継いだのなら、エスになったのはもっと前なのだろう。よってその点を尋ねた。

「雄太や彼らはいつ頃からエスになったのですか」

「雄太さんは二十数年前だったはずですが、詳細は私も知らされていません。前任の羽村は八年前にある事件で殉職してしまったので、確認することもできないのです」

ただ和香達がエスになった経緯は特殊だった為、聞かされているという。話によれば羽村という刑事は、和香達の母親が父親に殺された事件に関わっていたそうだ。当時交番勤務だったらしく、幼くして養護施設に預けられた二人の成長を遠くから見守っていたらしい。その後彼は刑事になり、やがて公安に配属された。それが三十一年前のようだ。 

 そこから二年後に中学を卒業して就職した井尻晶をエスとして雇い、少しでも生活の足しになるよう援助したのが始まりだったという。その後システムエンジニアとして職を転々とする間に彼と知り合い、その紹介で雄太はエスになったらしい。妹の薫も兄や羽村の支援により、大学へ入った後エスになったそうだ。

 羽村からの引き継ぎでは、最も目をかけていた井尻兄妹についての説明は受けたが、雄太に関してそれ程特別な事情を伝えられた記憶がないという。強いて挙げれば、祖父が元特高出身の公安警察に所属していた点だけらしい。

 川村が和香の依頼を簡単に承諾し、彼の居場所が分かった事や鈴木の名を出し彼に会わせるよう仕向けたのも、田北を含めた三人が繋がっていた為だったと確認できた。

「だから私よりも井尻兄妹の方が付き合いの長い分、彼についてよく知っていると思います。晶を通じてメンバーに入った経緯もあり、あの三人は特別仲が良かったですからね」

 そう述べてから、これ以上の話は竜崎と面会した後でと話を終わらせたのである。そこで彼の指示に従い警視庁に向かった藤子は、竜崎と会う段取りを付けた。

 ドラマ等で見たことのある透明なアクリル板の向こうに、彼の姿が現れた。お互い面と向かってパイプ椅子に座り目を合わせる。久しぶりに会った彼の表情は少しやつれ、疲れているように見えた。かなり厳しい取り調べを受けているのだろう。

 そう想像しながら、藤子が先に口を開いた。

「お久しぶりです。雄太について私に話があると聞きました。教えて頂けますか」

 彼はゆっくりと頷き、話し始めた。

「以前も言いましたが、私は彼と真剣に交際をしていたつもりでした。しかし途中で彼がエスだと気付き、情報を得ようと近づいてきたのだと知りショックを受け、彼を問い詰めたとお話しましたね」

「はい。雄太が白状し、あなたと一緒に居る事を選び、公安のエスを辞めるつもりだったとも伺いました。それをあなたは断わった」

「はい。そこから先を話していませんでしたね。ですからお伝えしておこうと思ったのです。私は彼に詰め寄った時、身内に関しても調べました。そこであなた達兄妹の存在を知ったのです。そこで言いました。同じ会社にいる私の協力者により、同性愛者でかつ名前を偽っている公安のエスだと公表する。さらにお姉さんとの関係や、保曽井家の秘密も暴露してやると脅したのです。それだけは止めてくれと言い、彼は白状しました」

 雄太が藤子達の平穏な生活を守る為に自分を犠牲にしたと聞き、藤子は茫然自失となり黙るしかなくなった。

 すると彼は話を続けた。

「でも私達は彼を殺していません。私の協力者には彼との関係を断ったと報告していたましたし、そこまでする程の秘密を握られてはいなかったのです。せいぜい今回の様に、私が産業スパイの容疑で捕まる程度でした。それなら私だけを切れば良いだけですから。それでも一度はこちらの仲間を疑いました」

 なんとか気を取り戻し、尋ねた。

「では雄太が亡くなったのは、何故だと思いますか」

「次に疑ったのは、彼の仲間に口を封じられた場合です。以前雄太から、もし世の中に殺人許可証というものがあれば、俺は間違いなく殺されているという愚痴を聞いたことがありました。一部の仲間から、相当酷い差別を受けたようです。もちろん私も似た経験を味わっていましたので、とても共感した記憶があります。だから殺されたのかもしれないとも考えました。しかし当初は殺人も視野に入れて捜査されていると知り、それはないと思い直しました。もしその可能性があったのなら、公安は最初から事故で処理したでしょう」

 彼の言葉にやや疑問を持ちながらも、一番気になる点を質問した。

「あなたが私と雄太との関係を知り暴露すると言った時、彼は何と言っていましたか」

「あの時の雄太は、少なくとも藤子さんにだけは迷惑をかけたくない、それだけはしないでくれと必死に懇願していました。だからこれ以上近づかない、と約束してくれたのです。しかし私は本当に雄太を愛していました。だからこそ裏切られた想いが強く、絶対に許さないと突き放しました。それから二週間ほど経った後、彼がアパートの屋上から落ちて死んだと聞き驚きました。私の協力者や彼の仲間に殺されたのでないのなら、私が追い込んだ為に自殺したのではないか。そう思い悩み苦しみました」

 いつのまにか目に涙を浮かべている彼の姿を見て、藤子は胸を痛めた。前回も同じだったが、やはり彼は真剣に雄太を想ってくれていたのだろうと感じられたからだ。

 しかし面会時間は約二十分と短い。その為に今日はそろそろここまでと切り上げられそうになり、藤子は慌てて言った。

「私と話したかったのは、雄太が自殺した可能性がある点だけですか。それはあなたが追いつめたから。そうなのですか」

 同席していた警察官に促され、席を立たされた彼は頷いた。

「はい。彼は自分がエスだとばれ、私と別れなければならなくなったことを相当悔やんでいました。だから彼は迷惑をかけないよう、自ら死を選んだのだと今は確信しています」

そう言い残す後ろ姿を目で追いながら、信じられない思いで頭の中が一杯になったのだ。

 雄太の死が自殺だとは想定していなかった。だが竜崎の話を聞き、その可能性も考えざるを得なくなったのである。またその理由を想像した時、雄太の嘆きや哀しみが次から次へと浮かんできた。その一つが藤子達を守る為だったのなら、悔やんでも悔やみきれない。

 自ら命を絶つ決断をした時の苦しみや、飛び降りる際の恐怖はいかんばかりだったか。気付けば涙が溢れ止まらない状態で、卓上部分を激しく叩いていた。

 余りの音に同席していた弁護士と警官が驚き、助けを呼んだほどだった。警視庁内にある救護室へ連れて行こうか相談していたと後に聞かされた。

 しかし感情を出し切って疲れ果てた藤子は、彼らの手を撥ね退けて田北と会わせるように要求したのである。

 その後約束通り彼と会った瞬間、問い詰めた。

「雄太や井尻兄妹がエスだと竜崎は知っていました。しかも私達家族についてまで調べていたようです。それらが原因の一つとなり自殺したと、あなたは知っていたのですか」

 小さな会議室の中、二人だけの状態で彼は説明をし始めた。

「雄太さんには中国と繋がりがある人物に近づき、何を盗み出そうとしているのか探る為の任務を与えていました。しかしある日彼から連絡があり、井尻達を含めた三人の正体が相手側に知られたと告げられたのです。そこで今後接触しないよう言い含め、対処法を内部で協議している途中であのような事態となりました。当然私達は、彼らの仲間に殺されたのかもしれないと疑ったのです」

 といって相手が中国の公安絡みなら無暗に手は出せない。そこで一旦警察内部では事故で処理し、公安が調査を開始したという。その一環として井尻達が藤子に近づき、竜崎と会わせて反応を探ろうとしたようだ。

「その結果、危険な目に遭わせてしまいました。改めてお詫び申し上げます」

立ち上がり頭を下げた為、藤子は怒鳴った。

「そんな謝罪はいりません。知りたいのは何故そうなったか。それだけです」

すると椅子に座り直した彼は話を続けた。

「雄太さんのターゲットは、中国のスパイと通じている日本人仲介者の竜崎でした。よって私達は晶の手を借り、彼の携帯に香港問題のやり取りの形跡を残したのです。彼の死を無駄にしないよう、竜崎達を追いつめる為でした。けれど竜崎には雄太さんが死亡した時間、完璧なアリバイがある。それでも他の者にやらせたのではと必死に捜査しましたが、発見できず暗礁に乗り上げました。そこであなたを使って竜崎に近寄らせ、情報を得る計画を立てました」

 初めて和香と会った際、携帯を見るよう指示されたところから公安の策に嵌まっていたようだ。携帯の暗証番号のロック解除も、藤子の手に戻る直前で彼らの手によって行われたらしい。

 つまり当初捜査していた警察や調査員達はロック解除せず、する必要もないと放置していたという。

「竜崎の協力者が誰なのか、あなた方は把握していたのですか」

「彼が接触できる範囲の者は特定済みで、いつでも身柄を拘束できる態勢を取っていました。しかし当初の段階では大した罪に問えず、また下手な動きをすれば上の組織が黙っていません。政治的な介入を招き、内偵自体に影響が及びかねない。そうしている間に海外へと逃げられてしまったのです」

 そう言えば雄太の上司の柳瀬にあった際、情報漏洩した疑いのある人物がいたと聞いた。その後会社を辞めた人物のリストを入手した際、その内の何人かが国外に出たと言っていた。それが竜崎に仲間だったようだ。

「竜崎以外、全員逃げられたのですか」

「いいえ。まだ一部は国内に残っています。これ以上逃げられないようにと恐れた我々は、末端にいる竜崎から出来るだけ情報を引き出し、他の奴らを泳がせる作戦を取りました。それは現在も進行中です。仲間が逮捕されて動揺し、新たに動き出すのではないかと期待しての行動ですが、今の所は何も収穫がありません」

「竜崎に雄太を接近させたのは、相手が同性愛者で雄太もそうだとあなたは知っていたから、敢えてそうさせたのですか」

 彼は頷いた。

「はい。そもそも中国は、同性愛者に対する差別や偏見が根強く残っている国です。同性愛を禁ずる法律はありませんが、同性愛カップルの養子縁組は法的に承認されておらず、テレビ番組や映画等でそうした行為に関する表現も、検閲によって容認されていません。その為当初、竜崎が中国公安のエスだとは気付きにくかった」

「もしかしてそれを見抜いたのが、雄太だったのですか」

「そうです。そこで私達は同じ嗜好を持つ彼が接近すれば、より親密になれると考えました。その作戦を彼は快諾してくれたのです。これは自分にしかできない仕事だと意気込んでいました。ですがそこで誤算が生じたのです。まさか二人が本気で愛し合うなんて、私達は誰も想像していませんでした」

 竜崎の告白に田北も衝撃を受けたようだ。しかし捜査対象に恋愛感情を抱き、仕事を疎かにしていたとはまだ信じられなかったらしい。これまでも同様の依頼をした経験があり、その時は完璧にこちらの要望通りこなし成果を挙げて来た為だという。

 とはいいつつ田北の目から見ても、竜崎の姿や話しぶりから演技だとは思えなかったそうだ。相当雄太に好意を抱いていたのは間違いないと彼は言った。

 その点について藤子も同感だった。そこで質問をした。

「雄太達の目的や正体が知られたとあなたに報告があった際、その件については何も聞いていなかったのですか」

「はい。全く。留置所の会話は全て録音されますが、私は別室で会話を聞いていました。どうやらあなたは前回彼と会った際、雄太さんが眠る墓に連れていかれ、彼らが愛し合っていたと告げられていたようですね。しかし私は聞いていませんでした」

「井尻兄妹からもですか。彼らは知っていたけれど、あなたに報告しなかったとは考えられませんが」

 そこで彼はじっと黙り、呟くように言った。

「これから確認しますが、その可能性は否定できません」

 心当たりがあるのかと尋ねたところ、雄太が亡くなった後に別宅や本宅を調べた際、エスである証拠が残らないよう、かなり整理されていると気付いたらしい。

 それは日頃から何があってもいいようにそうしているのだろうとも考えたが、それにしても綺麗さっぱりしすぎていると感じたようだ。例として挙げたのは、藤子も発見した逃走経路だった。 

 通路に残された痕跡を全て消し、あのような状態にするだけで相当な時間がかかったはずだという。竜崎が言うように雄太の死が自殺だとすれば、その為だったのかもしれない。

 だが短時間で消したにしては見事すぎる。誰かが手伝ったのかもしれないと彼は口にした。

「だったら井尻兄妹は、雄太が自殺するつもりだと知っていたかもしれない。そういうのですか」

「そうかもしれません。竜崎や協力者に正体を知られた三人は、公安のエスとしての仕事から足を洗わなければならない覚悟をしたはずです。もしかすると雄太さんは、その責任を感じて自ら死を選んだ。その可能性は否定できません」

 どうやらこれまでの捜査と、竜崎の証言を元に導き出された結論の一つと考えているようだ。

 確かに藤子にばらすとの脅しや、正体を知られ公にされると恐れての自殺と考えた方が筋は通る。藤子が作家となり世に出た事も少なからず影響したのだろう。それが雄太の死の一因にもなった確率が高いと改めて指摘されたようで、胸が痛くなった。

 寝返ろうとした雄太の口を塞ぐ為に公安の手で殺されたのなら、偽名を使っていたと世間に公表する危険を冒す必要はない。渡部亮のまま、事故死として処理すれば良かったのだ。雄太はそのままどこかへ失踪したように見せかければ、藤子達にわざわざ接触しなくても済む。世間を騒がせず事件を終わらせることぐらい簡単だったに違いない。

 失踪者など、日本では年間で八万人も発生している。未成年ならいざ知らず、いい大人がいなくなっても警察はまず動かない。恐らく田北達は竜崎の居場所をずっと追跡し把握していただろう。だったらその後、別途追いつめる事もできたのではないか。

 そう考えるとわざわざ雄太が偽名を使っていたと公表したのは、田北が言った通り藤子を巻き込む為だったとしか考えられない。姉弟としての繋がりが薄かった点や遺産の件を逆手に取り、過去を遡らせて興味をそそらせたのだろう。その作戦にまんまと嵌ったのだ。

 しかしまだ納得しきれない点が多々ある。そこで再度竜崎との面会を求めた。これには田北も同意した。あれだけの証言ではまだ彼も語りきれていない話があるのではないか、と考えたようだ。

 その証拠に藤子との面会後に取り調べを行った際、彼は前言を撤回し黙秘したままだったという。約束が違うと詰め寄ったところ、あれでは話したことにならないと呟いたらしい。よって特別に二度目の面会が認められた。

 けれど一般接見はいつでも何回でも無制限で話せる弁護士接見とは異なり、一日一組しか許されていない。その為翌日に行われることとなったのだ。

 一般の面会は朝の八時半から、お昼の十二時より一時間を除いて、夕方五時十五分まで許されている。よって翌朝の九時に警視庁を訪れた藤子は、彼と再び顔を合わせた。

 今回も十五分から二十分程度と時間が限られている。その為早速藤子は本題に入った。

「あなたの知っている限りでいいから、雄太との思い出を聞かせて。それと最後に揉めた時の様子を詳しく教えて欲しいの」

 彼は滔々とうとうと語り出した。

「雄太から告白され恋人同士になった私達は、将来の夢について語り合いました。お互い四十を過ぎ、女性と結婚することもない。だから互いに子供を持つことも出来ません。しかし世の中は少子化で、子供を産めないまたは産まない者に対する風当たりが、年々強くなりました。けれどその数少ない大事な子供達が虐待や苛めまたは貧困で苦しみ、時には殺され自ら命を絶つ者も続出しています。子ども食堂等、様々な形で支援してくださる人達はいますが、経済的な要因や人手の問題もありまだまだ足りません。といって国からの援助など、全く期待できない状態です。そうした今の環境を私達は嘆き、腹立たしく思っていました。そこでお金を貯めて老後の生活の目処が立った時、そうした団体を手伝いながら子供の成長を見守る仕事に就きたい。そう話し合っていました」

 実際少額だが、二人共毎月支援団体に寄付をしていたという。さらにはボランティア活動も一緒にこっそりと参加した経験があるらしい。寄付は振込先が残らないよう、現金で行っていたようだ。その為活動の形跡が、調査では発見できなかったと思われる。

 その時の様子を語る竜崎の顔は、とても幸せそうな表情をしていた。それがとても印象に残った。そこで藤子は彼らが寄付をしていた団体名とボランティアの具体的な内容を聞いた。その上で、二人が最後に揉めた日の事を改めて尋ねたのである。

 すると彼は意外な話から始めた。

「その前に彼を疑い出したきっかけが、同じ職場に転職して来たからだと以前言いましたが、正しくありません。実際は転職して間もない頃、彼がある新人賞を獲得した作家について興味を抱いていると知り、私が不審に思ったからなのです。かなり昔に女性と関係を持った経験はあるけれど、今は全く興味が無いと聞いていたのに奇妙だと思いました。やきもちもあったからでしょう。そこでその女性との関係を協力者に調べて貰うよう依頼した所二人が連絡を取り合っていると知り、その人物が彼の姉のあなただと分かりました」

 藤子は息を呑んだ。新人賞を獲ったり、芥山賞候補作に入ったりした頃だろう。またその後芥山賞を受賞し作品が大ヒットした際も、彼はお祝いの連絡をくれていたと思い出す。

 体が震え始め動悸が激しくなる中、彼は説明を続けた。

「そこから天涯孤独だと言っていた彼が何故嘘をついていたのかを探り始め、実はエスだったと彼らが調べ上げたのです。その結果を聞いて私は騙されていたと思い、怒りにかられ彼を責めました。そこからは以前話をした通りです。それ以上何かあった訳ではありません。彼は公安のエスでお姉さんとの関係を公にされれば、同性愛者であること等も明らかになり、あなたや仲間に多大な迷惑をかけると考えたのでしょう。だったら雄太ではなく、誰も知らない渡部亮として死のうと決意したと思われます。そうすれば身内もいない人間が単に死んだだけで済む。そう考えたに違いありません。ただ誤算はマンションから飛び降りた際に他人を巻き込んでしまったのと、公安が雄太の身元を公表した点ではないでしょうか」

 それまで遠ざかっていた藤子と接触し始めたことが、破滅のきっかけになったと言える。死を選んだ要因以外にも、藤子の作家デビューが彼と雄太の関係を壊す結果になったと知り愕然とした。

 また恐らく雄太の意志を察知しながらそれに反する処置を取った公安と、それを手伝った井尻兄妹に対しての怒りが湧いた。

 言葉を無くし茫然としている間に、彼は話を続けた。

「今思えば私がお姉さんとの関係を疑い、またあなたの名を使って脅したことをとても反省しています。そこまで彼を負い詰めてしまうとは思ってもいませんでした。大変申し訳ありません」

 再び涙を流して頭を下げ、何度も謝った。面会はそれで終わった。

 その後藤子は田北と再び会う時間のアポを取り、話をする機会を設けた。ただそれは予定よりずっと後になってしまった。竜崎の要求を満たした代わりに黙秘を辞めさせ、取り調べに応じさせていたからだろう。その為彼は忙しくなったからだ。

 約束通り口を開きだした竜崎は、中国に通じる産業スパイだと認めた。これまで勤務した企業から持ち出した情報についても、素直に話し始めたという。その受け渡し方法さえ白状したのである。

 けれどさすがにそこは中国の公安だ。竜崎と同じ会社に協力者はいたものの、顔も知らずに接触させない仕組みを構築していた。竜崎が盗んだデータは全て指示された場所に隠し、それを後から協力者が回収していたらしい。

 報酬はその後同じ場所に置かれていて、それを現金で受け取っていたという。そうすれば例え捕まっても情報の流出先の相手の名や顔も知らないので、その先に辿り着く危険を排除できるからだ。

 しかし日本の公安も優秀さでは負けていない。雄太とは別のエスを同じ会社に潜り込ませており、既に会社内に潜んでいた協力者を特定し、竜崎と共にマークしていたという。 

 けれどもその人間は全て民間人であり、また身柄を確保できる証拠も押さえられなかった為、既に一部の人間を中国へ逃走させてしまったのである。

 もちろん先方は身柄の引き渡しを許すはずがない。またそこから中国当局との関連等、調査しようがなかった。

 恐らく調べたとしても、大元までは辿り着かないよう何重にも人を介しているはずだ。そこはスパイに関する体制が日本と大きく異なる点だろう。

 それでも一度目をつけられた彼らは、死ぬまで公安の監視リストに掲載されると聞いた。再び日本へ入国すれば徹底的に追跡される手筈を取っているらしい。

 一連の事件に一応の決着をつけた公安は、雄太の死が殺人ではなく自殺と結論付けたようだ。それでも世間への公表は改めてしないと決めたらしい。事故で片付けたことが、隠蔽と問われてしまうからだろう。

 しかし納得がいかない藤子は田北を責めた。

「公安は本当に雄太の意志を知らなかったのですか。前回の話だと、井尻兄妹は気付いていたかもしれないと言いましたよね。でも実際、あなたはそうした事実を聞かされていたのではありませんか。それを知った上で雄太の身元を明らかにして私を巻き込み、竜崎から情報を引き出すよう仕向けたのではないのですか」

 彼は首を振った。

「いいえ。私は本当に知りませんでした。彼らの正体が相手側に知られてしまった、との報告は受けていました。よって彼らの協力者に殺された可能性を、当初は本気で疑っていたのです。そうでなければ、別名義を持っている等と世間に公表するはずがありません。最初から渡部亮という人物が事故死したように、裏で手を回していたでしょう」

 いつも通り淡々と説明する表情から、真実を語っているのかどうかは読み取れなかった。しかし例え嘘でもそれを裏付ける証拠が無ければ、彼の言葉を鵜呑みにするしかない。

 そこで藤子はこれ以上の追及を諦める代わりに言った。

「ところで井尻兄妹は現在、どうしているのですか。彼女達に会わせて下さい」

 だが彼は突き放すように言い放った。

「あの二人は私達と関係が無くなりました。公安のエスを辞めたからです。なので今どこでどうしているか、把握していません。ちなみに彼らはこれまで得た情報を外部に漏らさないよう、秘密保持の誓約書にサインしています。よって例え彼らとどこかで偶然会ったとしても、何か話してくれると期待しない方が良いでしょう」

「どういう意味ですか」

「もし話せば、多額の賠償金を支払わなければならないからです。もちろんあなたにも誓約書にサインを頂きたい。弟さんが私達のエスだった話や今回の件で知り得た情報は、外部に口外しないで下さい」

 しかし藤子は反抗した。

「そのサインは強制できるものなのですか。それに私は作家です。あなた方の存在やこれまでやってきた行為を詳細に記さなくても、フィクションとして描く権利はあるはずです。それとも国家秘密を漏洩ろうえいしたとでも言って、私を逮捕しますか」

 けれど彼は全く動じなかった。

「強制はできません。ただし事実だと立証できないのに、世間を誤認させる言動をした場合、罪に問われるかもしれません。私達がどれだけの力を持っているか、あなたもその一端を垣間見たはずです。余り我々をあなどらないで頂きたい。それに現時点で罪を犯しているのは、あなたの弟さんです。亡くなりはしましたが、他人名義を使用していた事実は消せません」

 無表情の中に鋭く光る彼の眼をみて、藤子はぞっとした。それでも尋ね返した。

「雄太をどうするというのですか」

「現在は文書偽造の件を不問にしていますが、決して無実になった訳ではありません。それに自ら飛び降りたとなれば、怪我をさせた人物に対して過失傷害罪どころか殺人未遂の罪に問われるでしょう。示談は済んでいると聞いていますが、それはあくまであれが事故だった場合の賠償義務についてだと聞いています。つまり刑事事件については被害届を出さなくても、これから新たな事実が明らかになれば成立します。そうなれば被疑者死亡で送検され、有罪判決が出ることは間違いない。それでも宜しいのですか。私も雄太さんには長年お世話になりました。ですから死者に鞭打つような真似をしたくありません」

 冷酷に突き放す口調は、暗にこれ以上逆らうなら雄太の件を蒸し返して犯罪者にするだけでなく、藤子も犯罪者の姉として世間から再び非難を受けるよう仕向けると脅したのも同然だった。

 その為もうこれ以上彼と話しても無駄だと判断し、そのまま黙って部屋を出た。当然誓約書にはサインしなかった。

 藤子はこの問題を一旦横へ置き、雄太の遺産をどう処理するかに手を付けた。本当ならば井尻兄妹と会い、雄太について彼らが知る本当の姿を聞いてからにしたかった。だがそれが叶わないとなれば、今まで耳にしたこれまでの情報を元に決断するしかない。

 その為夏季休暇を使って一時帰国する兄の予定に合わせ、彼らのマンションを訪ね話し合いの場を持つ約束をした。そしてこれまでの出来事を告げたのである。田北には口外しないよう念を押されていたが、兄夫婦だけなら外部に漏らすはずがないと考えたからだ。

 それはそうだろう。弟が同性愛者で、公安のエスをしていて探るべき相手と恋に落ちた挙句身分がばれて自殺したというのだ。プライドの高い二人なら、口が裂けても他人に喋るとは思えない。よって藤子は全てを告白し、雄太について理解を促した上で兄と二分の一ずつ遺産分割するつもりだったのだ。

 しかしクーラーを効かせたリビングで経緯を説明した際、兄の反応は部屋の温度以上にとても冷たいものだった。開口一番、

「嘘だろう。そんなはずはない」

と言い出し、まるで信じようとはしなかった。

 もちろんいきなり公安のエスだったと言われ、そう簡単に理解できるはずがない。祖父の影響かも知れないと想像出来たしても、現実には受け止められなかったようだ。それでもこれまで身の回りに起こった事実を、藤子は真剣に語った。

 すると今度は、同席していた美奈代が口を挟んできた。

「公安の手先だとか同性愛者だったと言われても、今更私達にどうしろというの。そんな話は聞きたくありません。雄太さんの恥ずかしい性的嗜好を知らされたって、体裁が悪いから誰にも言えないでしょう。あなたのように、男性から性転換して女性になった人がいるだけでも決まりが悪いんだから。藤子さんもそんな事、他所で口にしないでね。インタビュー等で言われたら、私達まで世間からおかしな目で見られちゃうでしょう。いくら慎一郎さんはあなた達と血の繋がりがないからって、保曽井家の一員であることに変わりはないのですから。そんなマイノリティばかりいる家なら、彼やその息子や娘までそうなのかと疑われかねません。間違ってもそんな肩身の狭い思いを私達にさせないで頂戴。それが慎一郎さん達の会社での評価に影響でもしたら、一生あなたを恨みますからね」

 余りの言い草に、藤子は怒りで体中が震えた。おかげで頭が一気に冷めた。遺産協議をして分割する提案をしようと思ったが、それは止めると宣言した。

 恐らく雄太が遺言で兄に残さなかった理由は、藤子を心配していただけでなく、二人のこういう態度や考えに彼も気づいていたのだと分かったからである。

 だからこそ彼の意志を汲み、遺産は遺言通り自分が全て受け取る決意をした。と同時に兄達との縁も切ると言い切ったのだ。

 そう告げると兄は狼狽し、美奈代は怒り出した。

「もしそんな事をすれば、あなたの秘密を全て公にするわよ。前回はあの程度に止めてあげたのに。それでもいいの」

「それは私を脅しているつもりなの。これでまたあなたの本性がはっきりしたわ。構わないわよ。その代わり、あなた達に雄太の遺産は一円も渡らないし、私とも完全に縁を切ったと思ってくださいね。少なくとも芥山賞作家と知り合いだなんて、金輪際言口にしないで下さい。私はインタビューで聞かれたら、兄夫婦とは絶縁したと正直に答えます。理由だってはっきり言うわ。保曽井家の本当の血筋を唯一引く弟が亡くなったというのに、彼を侮辱しただけでなくその遺産を恐喝し奪おうとまでした。そう伝えます。そうすれば当然長男面している兄が、私と同じく保曽井家の養子だったと世間に知れ渡るでしょう。それを覚悟してください」

 藤子はそう言い放ち、彼らと別れた。

 美奈代が言った通り藤子は元々男であり、保曽井藤雄ふじおという名だった。しかし中学の時に入った全寮制の男子校での生活により、自分が男であることに違和感を持ち始めたのだ。それが後に性同一性障害だと判明したが、社会人になっても家族はもちろん同僚達にも悟られぬよう、ひたすら隠し続けていたのである。

 もしそうだと知られれば、ただでさえ厳しい職場環境なのに、風当たりは相当酷くなると想像できた。恐らく社外の人達にも偏見の目で見られるに違いない。社内の人間関係だけでも苦しんでいたのに、そのような状況に陥る事だけは避けたかったからだ。

 しかし祖父母も亡くなり、また親も二人共いくなったからだろう。それまで抱えていたストレスが、一気に溢れ出たと思われる。結果うつ病に罹り、その原因の一つが男性であり続けていた事だと気付いた。当時複数の病院を回り、性同一性障害の診断書がいくつか出されていたからだ。

 そこで会社を早期に退職し、コンプレックスだった容姿を変え、性転換手術を受けて後に戸籍も女性にした。その際、名前も藤雄から藤子に変更したのである。

 性別やそれに伴う名前の変更を申し立てる場合、医師が性同一性障害と認める診断書が必要だ。それを元に家庭裁判所に届け出を出すのだが、性の変更には六つの条件がある。

 まず二人以上の医師により、性同一性障害と診断されていること。二十歳以上。現に婚姻していない。未成年の子がいない。生殖腺が無いこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態であること。他の性別の性器の部分に近似する外観を備えていること、だ。

 医師の診断書は手元にあった。その他三条件は充足しており、後の二つの条件をクリアする為には、性転換手術が必要となる。ちなみに戸籍上の性別変更が認められるようになったのは、二〇〇四年に性同一性障害特例法が施行されてからだ。

 二〇二〇年はコロナ禍により減少したが、それまでの適用者は施行された年の九十七人から年々増加していた。二〇一〇年には初めて五〇〇人を超え、二〇一九年では過去最高の九四八人を記録している。十五年の間で約一万人に達したのだ。

 当初性転換したけれど、藤子は誰にも言わず黙っていた。けれどその事実を初めて兄達に告げ姿も晒したのが、三年前の空港だった。

 もちろん兄や美奈代は衝撃を受け、散々非難したのである。だが雄太は違った。素直に受け入れ、それだけでなくこれまでフジにいと呼んでいた彼は、直ぐに姉さんと呼んでくれたのだ。しかも彼はこうも言った。

「これまで兄貴が二人いて呼び分けるのが面倒だったけど、これからは兄さんと姉さんで良いから楽だね」

 これほどすんなりマイノリティを受け入れてくれるとは思ってもいなかった。

 長年見下しつつ、両親の本当の子供である彼に劣等感を抱いていたにも拘らず、そうした扱いをされたのだ。その為に藤子は感激した。

 またこれまで彼に抱いていた嫉妬等の醜い心について、自責の念を持った覚えがある。だが後に竜崎との関係を聞き、彼もまた同じマイノリティだったからだと腑に落ちたのだ。

 慎一郎は三歳の時、その二年後に藤子が0歳の時、養子縁組により保曽井家の子供となった。それは母が結婚して間もなく病にかかり、医者の診断で妊娠し辛い体質だと分かった慎蔵が、父達に養子縁組を強要したからである。

 特に名家でもない保曽井家だったが、祖父には特高から公安警察へ入りお国の為に働き続けて来たとの自負があったからだろう。

 また子供は四人いたが男は太一だけだった為、七人兄妹の長男だった祖父は保曽井家の本家として、名を残さなければならないとの考えに固執していたようだ。そこで養護施設から、親に捨てられた慎一郎を養子にしたのである。

 けれど育てている内に体を壊しやすいと知り、万が一に備えて二人目を迎えようと、同じく捨てられた藤子を保曽井家の養子にしたのだ。 

 ちなみに慎一郎の本当の名はさとしである。けれど親戚に同じ名の者がいた為改名の手続きを行い、慎蔵の名の一字を取って名付けられた。

 改名は正当な理由がなければ、そう簡単に認められない。だが親族や近隣に同姓同名がいて混乱をきたす等の事情がある場合は、家庭裁判所に届け出を出せば承認された。恐らく祖父はそれを利用し、改名できるように親戚と同じ名の兄を意図して選んだらしい。

 そうでなければ、後で体が弱いと分かるような男の子を連れてくるはずがなかった。他所の子を跡取りとして選ぶのだから、名前くらいは思い通りにしたいと考えていたのだろう。そうした経験を踏まえ、藤子の場合も同じように選んだと聞いている。その時の名はまことだ。

 二人の親は訳あって子供を産んだものの育てられないと諦め、生後間もない状態で施設に預けたらしい。名付け親は産んだ実の母だという。中には名前も分からずに捨てられた子もいる。そういう場合は施設の人達が名付けるそうだ。しかし幸いと言って良いのか、藤子達は違った。

 当初慎蔵は次男でありまたこの世に二つといない男となるよう育てと願い、不二雄と名付ける予定だったらしい。しかし母が藤の字を充てた方が良いと強く主張したという。

 子供が産めないからこそこのような手間が必要になった為、養子を貰ってくる点について全く口を挟まなかった母が、この時だけは珍しく譲らなかったと聞いている。

 そうした嫁の態度を慎蔵は不快に思っていたようだが、二番目の子だったからか慎一郎の時より拘りはなかったのだろう。

 またもし長男になった場合、二の字が入っているのは余りよろしくない。それにフジという同じ響きが残るのなら悪くないと折れたらしい。

 大きくなってからそうした裏話を聞いていた為、保曽井という名字は大嫌いだったが、藤という名だけは愛着があった。それで女性名に変更する際、藤の字を残したのである。

 けれど自分のような養子とは違い、実子である雄太の存在を意識し始めてからは兄に感化された影響もあり、見捨てられないよう必死に勉強した。そうした経緯から、高卒という学歴しか持たない母を蔑むようになったのだ。

 しかし名前の由来を知ってから、表には出せなかったけれど母を敬う気持ちが芽生えていた事も確かだ。その為彼女が亡くなった時の悲しみは想像以上に大きかった。 

 また雄太を除く保曽井家の人間がいなくなった為に、秘密を隠し通す必要もなくなったとの想いが溢れ、うつ病の発症に影響したのだと思う。

 それでもやはり生みの親が付けてくれた、誠という名にも心残りがあった。しかも藤子が十五歳の時、既に両親共が生活苦により自殺して亡くなっていたと聞いていたから余計だ。

 それを知ったのは、民法の改正により特別養子縁組が制度化された為、そちらに切り替える手続きとして産みの親がどこにいるか調べたからである。

 養子縁組では生みの親との二重の関係が発生するのに対し、特別養子縁組だと戸籍上も法的にも関係を断ち切り、実子と同じ扱いとなった。

 例をあげると普通の養子縁組なら戸籍に養子と記載されるのに対し、特別養子縁組だと長男等と記載される。よって養子と分かり難くできた。

 その結果将来余計なトラブルを生じないようにとの理由もあり、制度変更に伴う確認をする必要があったという。ちなみに慎一郎の両親も、病と事故で亡くなっていたようだ。

 そうした理由もあり、藤子はペンネームの下の名を同じ読み方をする真琴と名付けたのである。

 けれどもその後、誤算が生じた。翌年母の妊娠が判明し、その次の年に男の子を出産したからだ。つまり保曽井家の血を引く、本当の長男が誕生したのである。そこで彼は長男を意味する「太」を使い、雄太と名付けられた。

 藤子はその時まだ二歳だった為余り記憶はなかったけれど、七歳だった兄は違ったらしい。ようやく体調も安定し、保曽井家の長男としての教育が本格的に始められようとしていたからだろう。

 その為に祖父や父の関心を失うまいと、必死に勉強したそうだ。また藤子も成長するにつれ、弟との違いを肌で感じ始めてからは、兄に追いつこうと懸命に努力した記憶がある。幸か不幸か雄太は勉強が苦手だった為、差を付けようと二人は余計に張り切ったのだ。

 それでも大人達の可愛がり方は明らかに違った。特に祖父がそうだった。母もそうした傾向は強かったと思う。だから相続の時、雄太だけが多かったのだ。

 兄や藤子は非嫡出子だが嫡出子扱いされる養子の為、本来なら遺産相続も雄太と同様の扱いになるはずだった。しかし民法で非嫡出子が実子と同じ相続分を認められるようになったのは、二〇一三年という父が亡くなってから十三年後の話だ。

 つまりつい最近までは実子の半分しか認められておらず、そのような扱いを受けていたのである。これは藤子達と雄太についても変わらない。よって法的には三等分されるべき所を半分は雄太に渡し、兄と藤子で残り半分を分け合うよう納得させられたのだ。

 しかし雄太自身は、そうした扱いを受けた事に藤子達とは違った意味での負い目を感じていたのだと思う。だから父の財産を受け取った時、日々の住居費を節約する為に土地と家屋の購入費に充て、藤子達には借家だと言って隠していたのではないだろうか。

 また母の遺産は全く手をつけなかったのも、そうした理由が心のどこかに残っていたからかもしれない。

 その後藤子が性転換したと知り、あの空港での兄達の振る舞いを見て決めたのだろう。万が一自分の身に何か起こった際は、同じマイノリティである藤子に財産を渡せば、有意義な使い方をしてくれると信じてくれたのかもしれない。

 だからこそあの翌年に、自費証書遺言保管制度を利用して、全財産を渡すとの遺言を残したと思われる。

 そう結論付けた藤子は、自分の身に起こったあらゆる問題を解決する為、これまで避けてきた行動に移ろうと決断したのだった。

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