第2話

「絶世の美女」という言葉はあっても、「絶世の美青年」という言葉はない。

 しかし、片山敏彦は、まさに「絶世の美青年」と言うほかない容姿をしている。

 完璧なまでに整った顔のパーツはもはや「美しい」という表現さえ陳腐に感じるほどだ。

 敏彦は自分の美貌についてはおおいに自覚があった。物心がつく頃には、既に挨拶よりも自分の容姿を称賛する言葉を多く耳にしていたからだ。「敏彦」と「かわいい」という二つの名前が自分にあるのだと思っていたくらいだ。

 しかし、自身の美貌を職業にしようと考えたことはなかった。敏彦の容姿は誰の目にも明らかに、どの芸能人よりも美しかった。しかし、敏彦自身は彼らの中に納まる自分をイメージできなかった。そしてそれは客観的に見ても正しかった。彼はどの集団にいても奇妙に浮いていた。敏彦の美貌は誰もが認めるところではあったが、彼がその恩恵を受けたことはあまりなかった。彼はどんなときでも「変わり者」に見えたし、実際にそうだった。

 一般社会では働けなかった。かといってコミュニケーションが不得手と言うわけではない。実際、大学卒業後大手証券会社に採用され、「デキる」新入社員として有名だった。しかし、一年も待たずして退職してしまう。誰もそれを不思議に思わなかった。仕事が出来るのにもかかわらず、なぜか敏彦が働くさまは、魚が陸上生活を強いられているような不条理さがあった。

 敏彦は就職する前から自分自身のことはよく分かっていたので、さほど落ち込みもしなかった。就職してみたのはやはり自分がまっとうな社会人として生きていくのは無理である、ということを再確認するためだった。

 現在の敏彦の仕事は小さな高校受験対策予備校「松野塾」の講師だ。正社員ではない。敏彦が塾講師として働くのは生活のためではない。生活なら片手間に行った投資が成功して、少なくとも敏彦一人なら死ぬまで働かなくても暮らせるくらいには潤っている。

 敏彦が働くのは、社会性を失わないためだ。

 敏彦は、会社勤めや病院勤め――勤務先はどこでもよいが、組織に所属して働くことを「ふつうに働く」ということだと認識している。

「ふつうに働く」ということは敏彦がついぞできなかったことであり、彼はそのことに内心激しいコンプレックスがあった。また、どんなに金銭的な余裕があっても、「ふつうに働」いていない人間は、どこかおかしく、自分にも彼らと同じようにおかしなところがあると思っていた。平気なふりをしていたが、敏彦は自分のおかしさに耐えられなかった。

 悲しいことに、塾講師として働いたところで、コンプレックスが解消されることはなかったのだが。

 とにかく敏彦は、周囲から浮かないよう、自分なりに努力をしていた。

 大好きなオカルト趣味も、また、オカルト趣味よりもっと受け入れられないであろうもう一つの趣味も、職場の人間には知られないようひた隠しにしていた。

 その甲斐あって、敏彦は「変わり者ではあるが異常者ではない」という程度の立ち位置にぎりぎり踏みとどまっていた。

「片山先生、今日このあとなんかあります?」

 敏彦の同僚、佐山祐樹が笑顔で話しかけてくる。佐山は、大学卒業後すぐ入社してきた現代文の担当講師で、感じの良い笑顔と軽妙なトークで誰からも好かれる男性だ。横には同じく同僚の春川翠が立っている。翠はすらりと背の高い女性で、英語の担当講師だ。日本人形のような和風の整った顔立ちで、ややとっつきにくい印象はあるが、実は面倒見がよく、敏彦は何度も助けてもらったことがある。

 同僚に帰りに誘ってもらえるくらいには馴染めているのだ、と嬉しくなりながらも、

「ごめん、今日はちょっと体調が悪くて」

「大丈夫ですか?」

 佐山は形の良い眉をひそめて言った。

「ていうか、それが心配で声かけたところありますよ、僕らは」

 ねえ、と同意を求める佐山に翠がうなずいている。

「片山君は元々透明感の化身って感じだけど、最近はちょっと白すぎて、不健康? っていうか……そういう感じがするねって、佐山君と話してたの」

「大丈夫ですよ」

 二人の表情を見て、ちょっと答えるのが早すぎたかな、と思いながら敏彦は続ける。

「部屋の空調が壊れてて、なんか寝苦しくて。最近蒸し暑いから……」

「直したら?」

「いや、なんか、高いし」

 自分でも言い訳じみていると思う。住所からして、空調を直す金がないなどと言っても全く信じてもらえないだろう。しかし、敏彦は、本当に自分を苦しめている原因については、なるべく二人に知られたくなかった。

「そうですか? 原因がはっきりしてるなら安心ですけど……それでも、不眠も舐めてると大変ですから」

 佐山は、こちらが追及されたくないことは自然と察してくれるから楽だ。しかし翠はそう簡単ではない。そんなことおかまいなしに距離を詰めてくる。

「なんか隠してない?」

「隠してませんよ」

「本当かなあ」

 翠はじっと敏彦の目を見つめた。翠は頼りになる先輩だが、同時に、少しおせっかいでもある。他の人間に対してはこんなことはない。要は、これも美貌のせいだ、と敏彦は思う。翠の自分への好意には、随分前から気付いていた。けれど、その好意を利用したこともあったから、鬱陶しいなどと思ってはいけないのだろう。

「本当に大丈夫ですから。何かあったら相談させてください」

 そう言って、顔をやや斜めに傾けて笑みを浮かべる。みるみるうちに翠の瞳がとろりと蕩ける。

 翠が名残惜しそうに立ち去るのを見届けてから、敏彦は大きくため息をついた。

 まったく、呆れる。いつも結局は容姿に頼ってしまう自分に。それと、ちょっと微笑んだりすれば、簡単にコントロールできてしまう女性という存在に。いや、違う。性別は関係ない。女性だけではない。誰でもだ。ほとんど誰でも、どうにかできてしまう。

 ――直接目の前に出てきてくれさえすれば、恐らくこういうふうに、簡単に済むのに――敏彦は自分を悩ませている原因のことを思った。

 敏彦は、今現在、ストーキングに遭っている。

 気付いたのは約一か月前だ。

 敏彦はその類稀なる美貌のせいで老若男女問わず視線を集めるタイプではあったが、その日のそれは、道行く美しい人に対するものとは違った。べとりとねばつくような視線。振り返ってみても、誰もいない。かなり不快ではあったものの、こういう気持ちの悪い視線を向けられることもまた、初めてではなかったから、その日は家に帰ってシャワーを浴びるとすぐに忘れてしまった。

 しかし、次の日から、まるで敏彦が気付くのを待っていたかのように、その視線を頻繁に感じることになった。人がいるときはいいとしても、業務を終えて帰宅するときにこの視線を感じると相当気が滅入った。刺されてしまったらどうしよう、と思いながら早足で家に駆け込み、帰ってからもずっと嫌な気分は消えなかった。それほどまでに、その視線は不快で恐ろしいものだった。

 もちろん、不快で恐ろしいのは視線だけではない。

 敏彦のもとには、手紙が届くようになった。消印はない。自宅のポストに直接投函したものだ。


  『今日はグレーのストライプシャツを着ていましたね。あなたの陶器みたいな肌に似合っていて素敵です』


 無機質な印刷された明朝体。しかし、あの視線の主だ、と直感的に気付いた。何がどうとは言えないが、全体から漂う粘着質な気配がそっくりだったからだ。

 次の手紙は一日開けてから来た。


  『なんで返事をくれないのかなあ。あと、女性が他人を褒めるときは、自分も褒めてほしいっていう合図なんだよ。そんなこと、敏彦くんは分かってるはずなのに、なんで褒めてくれないのかなあ? もしかして、私って褒めるところないような女なのかな……不安です』


 急に距離の近い友達同士のような文体になったのには驚いたが、敏彦はまたもこの手紙を放置した。恐ろしく気持ちが悪いが、文章に攻撃性がないため、騒ぎ立てるようなことでもないと判断したのだ。

 今では、この考えは完全に甘かったと分かる。


  『いい加減にしてください。何を怒っているの? 私が指輪をしていること? でも、結婚している証が欲しいと言ったのは敏彦だよね』


 封筒に、手紙とともにサンリオキャラクターの描いてあるフォトフレームが入っていた。どこで撮られたのか、カメラに目線の向いていない敏彦の写真に、べったりと茶色いシミがついている。キャラクターの吹き出しに「ずっと一緒だよ」と書いてあることに気が付き、敏彦は眩暈がした。見知らぬ女から(実を言うと男からもある)おかしな妄想をぶつけられることは初めてではなかったが、「最初から完全におかしい」か「段階を経てゆっくりおかしくなっていく」かの二通りで、比較的落ち着いたところから、異常性が急加速する例は初めてだった。

 そして、この手紙を境に、視線の主の異常性は全く衰えることなく加速していった。


  『今日は敏彦の好きなグラタンを作りました。ベシャメルソースの隠し味はお味噌です! 分かったかな? 分からないの?』


  『今日は生徒さんの質問に答えているのを見たよ。敏彦、ずいぶん嬉しそうだった。どうして? 普段あんな顔しないじゃないの』


  『中村美鈴さん、きれいな子だね。でも、まだ子供じゃないの。浮気はある程度、許すけど、さすがに子供に手を出したら離婚です』


  『離婚になってもいいの?』


  『離婚になったらそのガキもお前のババアも殺す』


  『ごめんね、言いすぎました。嫌いにならないで。でも、これは私があなたを心底愛しているっていう証なんです。嫌いになるなんてことはないと思うけど』


 どれにも返信などしていないのに、一方的に会話が進んでいく。激しさに差はあれど、すべての手紙の共通項は、敏彦のことを自分の夫だと思い込んでいる点だ。


  『敏彦、あなたの顔は最高だけど、責任感はないと思う。冗談よ。ちょっと本当だけど。結婚しているのに家に帰ってこないのはおかしいと思うの。誰だっておかしいと思うんじゃないかな。早く帰ってきてほしい。これ以上帰ってこないと、私何するか分からないよ』


『何するか分からないよ』だけ太字になった手紙――しかも、ワードの機能で太字にしたわけではなく、印刷された字の上から直接ボールペンで太く塗ったような痕跡がある――は恐ろしくはあったが、また前回のように『言いすぎました』などというフォローが後から来るのではないかと敏彦は思っていた。甘かった。

 その日は雨の日だった。雨と言うよりも、暴風雨と言った方が正しい。夕方から夜にかけて大荒れになるという予報を受けて、生徒を早めに帰らせることになった。生徒が教室に残っていないか確認してから、敏彦も帰り支度をする。玄関に降りて、傘を手に取った時だった。

「トシ君先生、やっほー」

 中村美鈴が傘立てに腰かけていた。

 美鈴は所謂ギャルっぽい中学二年生の生徒だ。成績も下位で、授業態度も良くない。松野塾に通っているのは友人から「ものすごいイケメンがいる」と聞いたから、と公言している。そして、それは他ならぬ敏彦のことだ。

 美鈴の保護者としては動機が何であれ通っていること自体が嬉しいらしい。それは松野塾としても同じで、いかに勉強にやる気がなくても、生徒が在籍してくれているだけでありがたい。その分月謝が貰えるからだ。

 敏彦にとって、相手が中学生でなくとも、自分に好意を向けてくる人間は非常に煩わしいのだが、どうか邪険にあしらわないでくれ、と松野塾から懇願されてしまったので、仕方なく愛想よく接している。

「中村さん、まだ帰ってないの? あと、トシ君じゃなくて片山先生ね」

「だって、トシ君先生と帰りたかったんだもーん」

 敏彦はため息をつきながら美鈴を見る。

 確かに美鈴はそこそこかわいらしい顔立ちをしている。中学生だとそこまで身なりに気を遣っている女子も少ないだろうから、さぞかし同世代にちやほやされていることだろう。しかし、それは今この瞬間だけの話で、皆が化粧を覚えれば、どこにでもいる、十把一絡げの可愛さに成り下がる。それに、年を取れば取るだけ、容姿以外を重要視する価値観がメインになってくる。敏彦は現在三十一歳だが、これくらいの年齢になると、他人を見た目だけでジャッジしている人間は馬鹿にされる。

 こういう、自分の可愛さに絶対的な自信を持っている子供――そう、敏彦にすれば、中学生も幼稚園児も変わらない。子供だ。そういう子供が毎年現れるのは不思議なことだった。子供の自分を相手にするような大人は、まともではない、ということくらい分からないものだろうか。

 美鈴は薄茶色のカラコンが入った瞳でこちらを見上げている。何かを期待しているような目。敏彦はふたたびため息をついた。

「じゃあ、バス停まで送ってくから、さっさと帰って。雨、どんどんひどくなるみたいだし」

「えーっ! 車で送ってくれないの?」

「そんなことするわけないだろ。それに、俺は電車通勤だから」

 美鈴は散々幼稚な不平不満を漏らした後、諦めたように立ち上がった。

「ま、いっか。トシ君先生と歩けるし」

 抗議するのも面倒くさい、と思いながらも、からめてくる腕はきっぱりと振り払って、松野塾を後にする。

 雨足は既にかなり強くなっていて、普段なら日が落ちていない時間なのに、あたりはもう真っ暗だった。

 美鈴の使うバス停は電車の駅とは反対方向で、一度歩道橋を渡る必要がある。美鈴は軽やかに階段を駆け上がり、はやくはやく、とはじけるような笑顔を見せた。敏彦にはもうあんなに速く階段を上る体力はない。息を切らせながらやっとのことで上りきると、美鈴が立っていた。上に高速道路が通っているため、そこだけ雨粒が遮られている。彼女は恐らく、妖艶に微笑んでいるつもりなのだろうが、作り物のような安っぽさがある。

「ね、ね、トシ君、真面目な話してもいい?」

「いいけど……」

 内心面倒とは思いつつも、無下にはできない。敏彦は傘を閉じて、美鈴の横に立った。

「あのね、トシ君……ウチ、本当にトシ君が好きなの。付き合ってほしい」

「そういう話なら聞けないし、俺は帰るから。そこ降りたらすぐでしょ? じゃあ」

「待ってよ!」

 美鈴は敏彦の腕を強く掴んだ。

「ウチ本気だよ?」

 敏彦は腕を振り払って、

「悪いけど、中村さんとは全く恋愛関係になるというビジョンが見えない。君は生徒で、まだ子供で、俺にとってはそれだけだよ。君が本気でもなんでも、そこは変わりません」

「ウチってそんなに魅力ない?」

 美鈴は短いスカートをめくって見せた。成熟する前の、棒みたいに細い脚だった。

「そういうことはやめなさい。まともな男は魅力があろうとなかろうと」

「ウチ、エッチもしたことあるよ。カテキョの先生と。トシ君だってやっていいんだよ?」

 敏彦はしばし美鈴を見つめた。前々から感じていた中村美鈴の振る舞いへの違和感の答えが出た気がした。

 この子は、実際に成功したことがあるのだ。いや、成功というのは彼女の主観で、客観的には大失敗だが。

 女性たるもの貞淑であれなどと言うつもりは敏彦にはない。それに、相手が同級生ならばまだいい。だが、思春期の少女の浅はかな考え――同世代の他人より経験豊かな人間になりたいだとか、性交渉をすれば成熟した人間になるだとか――そういったものに乗っかって、まだ中学生の少女と関係を持つ大人の男がいることに、敏彦は激しい嫌悪感を覚えた。

「そのカテキョって何歳?」

「分かんない……大学卒業したばっかって言ってたよ。なんでそんなこと聞くの? トシ君が付き合ってくれたら、ちゃんと別れるよ」

「俺は君とは付き合わないよ。それに、君と付き合う成人済みの男は全員クソだ」

「なんでそんなこと言うの……?」

 美鈴は目を潤ませている。

「君も俺くらいの年になったら理解できるかもしれない。中学生と付き合う同世代の人間がどんなに不気味か」

「トシ君、ひどいよ!」

「俺は一切ひどいことは言ってない」

 敏彦は冷え冷えとした美貌で美鈴を見下ろした。

「可能なら、その家庭教師の話を親御さんに言ってみたらいいと思う。少なくとも君よりは」

「ふざけんな! 親は関係ねえだろ!」

 美鈴は鞄を地面に叩きつけた。

 可愛いユニコーンの描かれた布製のバッグに、雨粒がいくつもシミを作る。

「そうやって、皆してウチのことガキだと思って見下してさ。なんで? ウチが好きになるのは、そんな迷惑なことなの?」

「俺にとっては迷惑だけど、君に好かれて迷惑かどうか、っていうのは人によるだろうね」

 敏彦が美鈴のバッグを拾って手渡そうとすると、美鈴は逃げるように後退した。

「ひどい! ひどい! ひどい! 結局ウチのこと、馬鹿にしてるんじゃん!」

「してないって」

 気が付くと二人は、歩道橋を渡り切ろうとしていた。

 もうあと数mなのだから帰ってほしい、と思いつつも敏彦は、

「俺の言ってるのはあくまで一般論で」

 敏彦が口を開いたのと、誰かが敏彦の横を猛然と通り抜けたのは同時だった。腕をザラザラとした不快な感触が撫でる。黒い髪、長身、一体何者であるか、考えるより先に体が動く。ぎりぎり先回りして、美鈴を突き飛ばすことができた。しかし。

 耳を劈くような悲鳴。美鈴の姿が遠い。

 強さを増した雨が敏彦の体をどんどん冷やしていく。腕だけが燃えるように熱かった。

 こんなときでも、べたつく視線は消えない。

 必死に目だけ動かして視線の主を探すうち、敏彦は意識を手放した。


 目が覚めると、ほんのりと手が温かい。敏彦の手を、母親がしっかりと握っていた。

 体を起こそうとして、口から低いうめき声が漏れた。

 腕から肩にかけて、がっちりと固定されている。そして、全身が熱を持っている。

 母曰く、敏彦は歩道橋を転げ落ちて意識を失ったらしい。幸いにも腰を強打して半身不随になる、ということは免れたが、無意識に利き手をつきながら転げ落ちたらしく、開放骨折。敏彦の左腕は見るも無残な状態になってしまったらしい。

「なんか痛いとかはないな」

 麻酔が効いているのだ、とは分かりつつも敏彦は呟く。

「でもきっと今日は熱が出ますよ。念のため、脳の検査もしなくてはいけませんし」

「すみません」

 担当医がいつの間にか横に座って、敏彦の目をじっと見ていた。

「それにしても本当に美形ですね、言われ慣れているでしょうけど」

「ええ、そうですね、三十年くらい」

 敏彦がそう答えると、担当医は大声で笑って、お元気そうですが大けがなんですから安静にね、と言って去って行く。冗談だと思ったのだろうか。敏彦にとっては冗談ではない。三十年以上、この顔面をぶら下げて生きている。これからもだ。

 体のだるさもあって、言われた通りベッドに横たわる。

 母はもちろん心配もしていたようだが、こういったことは一度や二度ではなかったので、敏彦の意識がはっきりしているのを見ると早々に帰宅してしまった。

 読書やスマートフォンをいじることもできないので、非常に暇だ。

 目を閉じて、自分の身に起こったことを整理する。

 あのバカな中学生のことはどうでもいい。聞くところによると、美鈴は敏彦が階段から落ちたのを通報もせずただ泣き叫びながら見ていて、たまたま通りかかった男性が救急車を呼んでくれるまで、敏彦は雨の中放置されていたのだという。敏彦は一応美鈴を庇ってこうなったわけだから腹立たしくはあるが、パニックになって何もできなくなる人間というのは存在するし、その後、敏彦を突き落とした何者かが戻ってきて改めて美鈴に危害を加える、などということにならなくてよかったとも思う。

 問題は、その何者かは誰なのか、ということだ。

 間違いなく視線の主――敏彦に気持ちの悪い手紙を送ってきた人間だとは思う。

『何するか分からないよ』

 まさか、こんなに早く、本当に手を出してくるとは思わなかった。美鈴のことも前から知っていたようだし、おおかた、一緒に歩いているところを見てかっとなったのだろう。

 雨の日に、あんなところから落ちたら死んでもおかしくない。美鈴は、敏彦が突き飛ばさなければ背面から落ちるところだったのだし、なおさらだ。

 いよいよ危険な人物だ。退院し、職場に復帰できるようになったら対処しなくてはいけない。

 敏彦はそのまま、眠りに落ちた。

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