漆黒の慕情
芦花公園
見られている
第1話
少し古びた五階建てのビル。高さはそんなにないけど、横に広い。
前に何台も車や自転車が停まっている。お母さんたちが、時計を見ながらうろうろと歩き回っている。
しばらくすると中から子供たちが出てくる。笑顔だったり、悲しそうにうつむいていたりする。お母さんたちは子供たちのもとに駆け寄って行って、なにか話している。微笑んでいる人もいれば、叱りつけている人もいる。でもどのお母さんも、子供のことを一番に考えているのが分かる。優しい目をしているから。
ねえママ、私とママにはこんなとき、なかったよね。女の子は、勉強なんてできなくてもいい、って言ってたもんね。
ほんとは私もこういうの、やりたかったよ。
ママのことを考えているうちに、子供たちはいなくなっていた。
私は気を引き締める。
あの人ともう少しで会えるからだ。私、変じゃないかな。
一応、美容院には一か月に一回通ってるし、そこで買ったトリートメントも使ってる。マキシ丈のワンピースはプリーツが入っていて、店員さんにも、お客様、背が高くていらっしゃるからお似合いですよって言われた。今日は香水も使ってみた。ママが、パパとデートするとき――私はそんなところ見たことがないけど――に使ってたっていう、ヨモギみたいな匂いのもの。私はすごくいい匂いだと思ったけど、彼はどうかな。気に入ってくれるかな。
やっぱり女の子は綺麗じゃないとダメだってママが言ってた。ママって古いよ、なんて言ったけど、私も実はそう思っている。
結局、女は綺麗じゃないと愛されない。最近はジェンダーとかルッキズムとか、そういうことにうるさい人が増えて、こんなこと言ったら問題になる。でも、そういうのはあくまできれいごとで、そんなきれいごとを掲げたところで現実が変わることはない。
美人が嫌いな男の人なんていないし、容姿以外の能力で女性を選ぶと言っている人だって、同じくらいの能力があるブスと美人なら、美人を選ぶに決まっているのだ。
私は深呼吸をして、背筋を伸ばした。
ママが、あなたは考えごとをしているとき額に皺が寄っているよ、って言ってた。猿みたいですごくみっともないよって。
せっかく彼と会う日なのに、色々考えたらダメだ。
ほら、彼が出てきた。
どんなに遠くからでもすぐ分かる。
彼は、抜群に美しいからだ。
綺麗な人のことを、「何か非現実的な材料で作ったような」なんて書いてたのは村上春樹だっけ。読んだときは随分気取った言い方をするなあ、なんて思ったけど、彼はまさにそういう感じだ。本当に完璧に整っていて、でも、人形とか、そういう人工的なものとは違う。超現実的。陳腐な表現に落ち着いてしまうけど、夢のように美しい。
お母さんたちの何人かが、彼を一目見ようと、出待ちをしていることは知っている。これでも減った方だ。塾の公式サイトでお知らせが出たから、少しでも常識的な人は「出待ち」行為をやめたのだ。
私は残った非常識なお母さんたちを冷ややかな目で見つめる。
そんなことしたって彼があなたたちに興味を持つわけがないのに。
だいたい、結婚していて、子供もいて、馬鹿じゃないんだろうか。
自分の選んだ男で我慢しなさいよ。
あわよくば、彼に振り向いてもらおうと思っているに違いない。下品で最低な発想。
彼はそんな女、一番軽蔑しているはずだ。
私が睨みつけていると、下品な女どもの一人がこちらを向いた。目が合う。彼女の口からヒッと短く悲鳴が漏れる。そのまま、息子を抱きしめて、彼女は足早に去って行く。
下品な上に失礼な女。
自分の振る舞いを鑑みれば、睨みつけられるのも当然なのに、被害者ぶって、私をバケモノでも見るみたいな目で見て。
いけない。ガラス窓に映った自分の顔を見てはっとする。額に皺が寄ってて、猿みたい。
こんな顔で彼に会ってはいけない。
彼の唯一無二のパートナーである私は、彼と同じくらい――は無理でも、彼の横にいて恥ずかしくないくらい、綺麗でなければいけないのだから。
私は有象無象の下品な女たちとは違う。大声を上げてはしゃぎながら彼に近寄ったりなんてしない。
私はそっとつま先で彼の影を踏んだ。
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