エピローグ

 古い雑居ビルの屋上、血を浴びたように錆びきった貯水タンクの上に、女が座っている。

 女は通りを見下ろしている。

 夜は盛り場として賑わうその通りには、今は昼食を求めるサラリーマンたちが行き交っている。誰もが空腹に追い立てられ、頭上から見下ろす女に気付く者はいない。

 ビルの間を風が吹き抜ける。通りを歩いていた誰かが、乱れた髪の毛を掻き上げながら、ふと見上げたビルの屋上から、いつの間にか、女は消えている。


 男が一人、同じように腹を空かせて歩いている。夜は酒のため、昼は食べ物のため、ふらふらとこの通りに吸い寄せられて来る、他の多くの人間と変わることのない、ありふれた男だ。

 男は通りすがりに、ガードレールに座った女を一瞥する。女はじっと、その男を見つめている。

 男は目を逸らして歩き去ろうとする。

「ねえ、今、わたしのこと見たでしょ」

 ふいに女が話し掛ける。

 男は怪訝そうな顔で立ち止まる。

「わたしのこと、知ってる?」

 男は一瞬考えるように顔をしかめるが、すぐに不審な目つきに変わり、そのまま無言で歩き出す。女はガードレールの上から、立ち去る男を見つめている。

「元通りに、なったわね」

 その言葉は、遠ざかる男の耳には届かない。

 女は男の後ろ姿を見送りながら、小さな声で呟く。

「不思議な、生き物だわ」

 囁くようなその声は、風に流されていく。


 男はしばらく歩いて振り返ったが、ガードレールの上には、誰もいない。

 女のいた場所には、もう、誰もいなかった。



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アンパラレル 細井真蔓 @hosoi_muzzle

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