女の全身が現れると同時に、男は俺を飛び越え、女の細い腕を乱暴に掴んだ。そのまま腕を首に絡めて背後に回り、汚れたナイフの鈍い光を目の前に閃かせる。

「待ってたよ」

 黒光りする顔面を女の白い頬に寄せて、男は寝かせた刃をその胸元に押し当てた。

「やめろ!」

 叫びながらも、体は動かない。飛びかかっても、刺し殺され、そのあと女がやられるだけだという確信が、俺の神経を凍りつかせる。

 男はじっくりと、撫でるように、女の身体にナイフの刃を滑らせる。まるで女自身の傷口が浮かび上がるように、シャツの表面に俺の血が染みていく。

「ビビりすぎて固まっちゃってる? ま、いいよ。うるせえのは嫌いだからな」

 女は俺を見ている。その顔からは、何の感情も読み取れない。

「なんで、来たんだ……」

 女は答えない。

「てめえが呼んでおいて、ひでえよな」

 男の荒い吐息が、女の耳にかかる。蛇に似た三角形の舌が首筋を這う。女の青白い耳たぶが、ざらついた赤黒い舌先と踊るように動く。抵抗されないと判断したのか、絡み付いていた腕は緩み、その片手は女の胸をまさぐり始める。

 女は硬直したまま、俺に向けていた視線を、ゆっくりと店内に巡らせた。

 なぜじっとしている?

 女の超常的な力があれば、こんな男の拘束など容易く抜け出せるだろう。なんなら、火でもなんでも出して、今すぐ殺してしまえばいい。

 男の指が、柔らかな女の膨らみを、激しく、何度も圧し潰す。その度に、赤い手形が残像のように重なっていく。

 堪らず叫ぼうとした瞬間、女が言葉を遮った。

「……天使」

 囁くような声だったが、女の唇は確かにそう動いた。

 天使。

 俺の頭の中で、その言葉が、何度もピンポン球のように跳ね返る。だが、それは無意味で虚ろな響きを繰り返すだけだ。

 天使?

 何が言いたい。悪魔のような女が、遂に明かした正体だろうか? わたしは、悪魔ではなく、天使でした。馬鹿馬鹿しい。そんなこと、今はどうだっていい。それに、人の不幸を集めて回る天使などいるものか。

「いいから、早く……」

 そう言いかけて、俺はふと女の視線に気づいた。店の入口側の壁、その一点に俺の目を導くように、何度も目配せをしている。見ると、そこには一枚の絵が掛けられていた。安っぽい額に入れられた、百円ショップで埃をかぶっているような、陳腐な絵だ。稚拙なイラストで、赤子の天使が描かれている。

 天使とは、この絵のことか? 一体この絵がどうしたというのだ。

 一呼吸置いて、女はまた呟いた。

「逃げて」

 毒蜘蛛のような指が、もぞもぞと移動し、シャツの合わせ目に忍び込む。

「逃げろだってよ。逃さねえけど」

 男は耳に噛みつきながら、いやらしく笑う。女は俺を逃がそうとしている。しかし、入口は男が塞いでいる。

 女は呪文のように、謎めいた言葉を繰り返す。

「走って。天使に向かって」

 シャツの中に潜っていた男の手が、突然、斧のように上下した。ボタンが弾け飛ぶ。はだけた布の内側から、肋骨の浮いた子供のような胸板と、下着に隠された二つの乳房が露わになる。毛むくじゃらの蜘蛛が張り付くように、男の太い指が、薄い布越しに女の乳房を鷲摑みにする。白い肉が、指の隙間から盛り上がって紅潮する。

 それでも、女は表情ひとつ変えずに俺を見つめ続ける。

「なあ、この女、感情が麻痺してんの? 反応がなさすぎて怖えんだけど」

 おーい、とぼやきながら、男はナイフの先端を女の胸に向けた。左右の鎖骨の間に、鈍色の切先が触れる。

 白い肌に、赤い雫が膨らむ。

「やめろ……! 頼むから、やめてくれ……。おまえも、なんでじっとしてるんだ? 前に俺にやったように、また……」

 ……違う。

 やらないのではない。できないのだ。

 女は言っていた。俺の髪の毛を燃やしたら、ただでは済まないと。女の世界にも、守るべきルールがあると。

 そうだ。この女は、人間に危害を加えることができないのだ。

「わたしは大丈夫。言ったでしょ、ただの作り物だって」

 俺の心を察したのか、諭すように、女は言う。

「それより、思い出して。グラスに注いだコーヒー。見えないけど、繋がってるの」

 ……コーヒー?

 フードコートでの話だろうか。なぜ今そんな話をする? 確か、俺と女とで缶コーヒーを飲んでいた。そして女は傾けた缶から、離れた場所に置かれた別のグラスにコーヒーを注いでいた。

「何が言いたい……? コーヒーがどうした?」

 女が答える間もなく、その胸に突き立てられた刃が、ゆっくりと、音もなく滑った。

「うるせえのは、嫌いだって、言ったよな」

 言葉にならない悲鳴が、俺の喉を震わせる。

 女の首の下から、赤いペンでなぞったように、まっすぐの線が現れた。その線は、女の下着に引っ掛かって一度止まり、弾みをつけてそれを両断したあと、小さなへその穴まで降りていった。遅れて滲み出した赤黒いインクのような血が、剥き出しになった乳房の間を伝い、へそのくぼみに溜まりながら、スカートの中に流れ込む。続けて、もう一本、二本、女の上半身に赤い線が増えていく。

 だが、女は動かない。声の一つも上げない。まるで、死体の解剖を見せられているように、淡々と、傷口だけが増えていく。


 目の前で、女が傷付けられていく。

 それなのに、この後に及んで、俺は打算している。

 手枷のまま、男に向かって頭から突進する。上手く男だけを突き倒して、すかさず女が滝のような水で男を怯ませて、二人でドアから飛び出す。

 できるだろうか。

 飛びかかった俺に、男はナイフを構えるだろう。手を出せない俺は、そのまま自分からナイフに突き刺さる。刃は内臓を掻き回し、俺はその場に倒れ込む。無駄死にだ。女も助けられない。

 だったら、どうする?

 女の言う通り、俺だけ逃げるのか。女はきっと俺を逃すために、わざわざここへやって来たのだ。

 女の言葉の意図がはっきりしないが、女の手引きで無事この部屋を抜け出せたとする。駅のそばに、確か交番があったはずだ。警察官を引っぱって、ここまで戻る。多少時間は掛かるが、現実的だ。感情に任せてやけくそに飛び込むよりは、二人とも助かる公算は大きい。

 だが、それでいいのか?

 すぐそこで俺のために血を流している女を置いて、俺は一人で逃げるのか。だいたい、ナイフに切り裂かれる女の姿を目の当たりにしながら、無様に座ったままで何の行動も起こさない俺は一体何なんだ?

 俺は女の顔を見る。

 磔にされ、処刑を待つばかりのように痛々しい身体の上に、見慣れた無感情な顔が乗っている。

 俺は、どうしたらいい。すがるような目で、俺は女を見つめる。いや、逆だろう。すがりたいのは、ナイフを突き立てられた、この女の方じゃないか。助けを求めていなくても、放っておくわけにはいかない。だからと言って、無闇に突っ込んでどうなるものでもない。それならば、やはり、女を信じて、俺だけ先に抜け出すべきなのか。だが、俺は……、

「おまえを……、置いては行けない……」


 女の表情が、わずかに動いた。

 それは分厚く張った氷の層が、一気に亀裂を広げるような劇的さで、凍りついた表情が突然歪んだ。瞬間、

「走れって言ってんのよ、馬鹿!」

 女が叫んだ。

「壁の両側を繋げたから、さっさと逃げろって言ってんの! わざわざこの馬鹿なゴリラに理解できないよう遠回しに言ってるんだから、そのくらいすぐに察しなさい!」

 呆気に取られる俺を、女は毛を逆立てた猫のような顔でにらみつける。初めて見せた、激しい表情だ。

「うるせえんだよ、耳元で」

 男が腕をなぎ払う。首を支点に、女の身体が矢印のように曲がり、勢いよく吹き飛んだ。女は壁に叩きつけられ、崩れるように倒れる。男はスカートからこぼれた足首をつかみ上げると、無抵抗な女の脚から下着を引きずり下ろした。そのまま両脚を引き寄せ、女の肩を叩きつけるように押さえ込み、拳を振り上げる。訓練されたような淀みない動作で、男は女を穢す準備を整えた。

「……顔は勘弁してやるよ」

 そう言いながら拳を下げると、代わりに女の頬をつかみ、顎から唇をねっとりと舐め上げた。

 女はまるで諦めたように、無表情な視線を俺に向けて、

「お願い」と呟いた。


 お願い、逃げて。

 女はきっとそう言ったのだろう。

 男は、女の胸から流れる血を顔中に擦り付け、不気味に冷淡な顔から、不釣り合いな荒い吐息を漏らしながら、ズボンのベルトを外した。

 俺は動けなかった。

 天使の絵に向かって飛び込めば、コーヒーがワープしたように、見えない抜け道を通って外に出られる。文字通り、女が決死で用意した逃げ道だ。

 しかし、俺は動けなかった。

 男に押さえつけられ、脆くも陵辱されつつある女の姿を見ながら、正体のわからない衝撃が俺を捕らえていた。呼吸することさえ忘れ、ただ折り重なった男と女の影に釘付けになっていた。

 ナイフを片手に持ちながら、男は器用にチャックを下ろし、ズボンをずらした。赤熱した木炭のような男の局部が踊り出る。男はそれを大事そうに握り、女のスカートの中に差し込んだ。


 女の背中には、翼が生えていた。

 あの日、あの夜、暗い路地裏で、俺はそれを見上げた。

 そして俺は、その翼を、もっと間近で見たいと、きっとそう思ったのだ。周りの全てを包み込むような、強い光を、一番近くで浴びていたい。そうやって、俺も同じように輝くことができる。

 カズキは佐和子と俺が似ていると言った。けれどそれは、ただ俺が佐和子の放つ光を隣で反射していただけだった。

 俺はいつも、輝くもののそばにいたかったのだ。例えそうして反射した光が、ただの幻の光でも、俺はそうやって光に包まれていたかった。

 女が倒れている。

 その背中に、翼は見えない。

 振り乱された髪の毛が、胸元から流れ落ちる血が、そして男の動きに合わせて小舟のように揺れる身体が、まるでちっぽけな人間そのもののように、俺の中にある女の姿を残酷に上書きしていった。

 お願い、助けて。

 それは、独り言のように、俺の心の奥底から聞こえてきた。俺の中にある、俺が作り上げた独りよがりな女の幻が、叫んでいた。

 お願い、助けて。

 助けて。


 気が付くと、突進していた。

 男は女の太腿を抱えて前後に揺れながら、今にも果てる寸前のように大きく仰け反っていた。

「やめて!」

 女の声がする。誰に向けられた声だろう。一瞬見えたその顔は、見たこともない悲しげな目で、俺を見つめているようだった。

 俺は手枷の付いた両手を後ろに回したまま、男の巨体に肩から突っ込んだ。衝突の直前、男はナイフを俺の胸に突き上げた。

 俺は男もろとも倒れ込む。

 目の前で、男の顔から炎が上がった。

 顔の穴という穴から、バーナーのような火炎が噴き出す。あっという間に、首から上だけがきれいに消し炭と化して、男は動かなくなった。水蒸気のような白煙が、男の顔があった部分からぷすぷすと音を出して立ち昇っている。


 女が見下ろしている。

 血塗れの身体で、俺の背中に腕を回し、手錠を外した。

「人間を殺したら、まずいんじゃなかったのか……?」

「最悪よ。ほんとに。あんたがグズグズしたせいで」

 俺は床の上で、女に抱えられるようにだらしなく横たわっている。

「俺は……、刺されたのか?」

「ええ。もうしばらくしたら、死ぬわ」

「簡単に言うんだな……」

 自分の胸に手を当てる。ぬるりとした感触が、出血の多さを伝える。胸全体に痺れたような感覚があるが、不思議と痛みは強くない。

「スマホを取ってくれないか……? さすがに、この状況なら、アプリでどこか無事な世界に、飛ばなきゃいけないだろう」

「無理よ」

「なぜだ……?」

「もうアプリは動かない」

 俺は霞み始めた目で女の姿に焦点を合わせようとする。

「死が迫る人間には、このアプリは働かないのよ」

「……助からないのか?」

「もう、手遅れだわ」

 女の顔が、ぼんやりと、大きくなったり、小さくなったりする。頭の中に透明な風船が膨らんでいく感じがする。脳が圧迫され、考えがまとまらない。

「……死んだら、どうなるんだ?」

 前にそう言ったカズキの言葉を思い出す。

「あんたは、そこで終わるわ」

「他の世界に散らばった俺は、どうなる?」

「主体としてのあんたが死んでも、世界に紐付いたあんたたちは、そのまま、変わらず生き続ける。全てのあんたが死んだ時が、個体としての、本当の死よ」

 結局、世界がいくつあっても、死ぬ時は、何もできずにただ死ぬだけなのか。

「だったら……、またこの不幸を、おまえにやるよ」

「言ったでしょ。わたしはもう不幸を集めてないのよ」

 身体から血が流れ出るとともに、記憶も、思考も、次々に俺の中からこぼれていく。そして、それはきっと、もう取り戻すことができない。

「俺は、このまま消えるのか?」

 女は言葉を選ぶように、少しだけ間を空けてから、言った。

「前に話したわね。人間は、漫画を読むニワトリだって」

 覚えている。返事をしたつもりだったが、声にならなかった。

「わたしが今集めてるのは、人間の……死よ」

 人間の、死……。

「あんたたちは、わたしたちにとってはニワトリなの。人間がニワトリを食べるように、わたしたちは、あんたたちを摂食して生きているの」

 虫の羽音のような雑音が、耳元で鳴っている。そのせいで、女の声がうまく聞き取れない。

「あんたが意識と呼んでいたもの。それが、わたしたちの住むレイヤーでは、わたしたちの……言わば食料になるのよ。人間は、生きていれば娯楽を生み、死ねばわたしたちの食料になる。もちろん、他にもいろんな用途がある貴重な資源なの。そして、その中で最も重要なのが、食料としての用途……。だから、死に瀕した人間を、もうアプリは助けない」

 女の声が遠くなっていく。虫の音が大きくなる。

「ずっと昔に、わたしたちが人間を食べ始めた時から、ずっと変わらない取り決めなのよ。生きている人間を殺して食べることはしない。生かしておけば、人間は勝手に増えるからね。できる限り全ての個体をトレースし続けて、死んだ時、ようやくその命をもらうの。あんたに渡したアプリは、その効率化のためのフィールドテストの一環よ」

「俺を、おまえが……、食べるのか?」

 かろうじて聞き取れた女の声を繋ぎ合わせて、言葉を返してみる。ちゃんと、会話になっているだろうか。

「わたしかどうかはわからないわ。わたしは集めるだけだから」

「俺を食う生き物と、喋ってるなんて……、変な……気分だな……」


 テーブルに向かい合って、女が座っている。女は頬杖を突いて、ぼんやりと、遠くを眺めている。

 俺は女の横顔を眺めながら、独り言のように呟く。

「死を集めるなんて、まるで悪魔というより死神だな」

 寂れたフードコートの一角だ。休日の昼下がりだというのに、俺たちの他には、誰もいない。

「ニワトリってのは、家畜って意味だったんだな、それも食肉用の。前におまえが言ってた、飛べない鳥の例え話も、好きだったのに」

 女はいつの間にか向き直り、無言で俺を見つめている。女と俺の間には、グラスに注がれた飲み物が二つ置かれている。

「どうやって命を抜き取るんだ?」

 女は気怠そうな仕草で、グラスに刺さったストローを吸った。

「行儀の悪いおまえのことだから、またそうやって、魂を口で吸い出したりするんだろうな」

 女に吸われた指の感触を思い出しながら、俺はグラスのコーヒーに口をつけた。女のグラスには、赤い液体がなみなみと注がれている。あれはきっと、俺の血だろう。

「前に一度、アプリで検索してみたよ。おまえと、もっと、なんて言うか……、親しくなっている世界がないものか、と」

 人形のような瞳が俺を見つめている。その奥にあるものは、相変わらず見えないままだ。

「けど、なかったよ。だいたい、おまえの名前もわからないんじゃ、検索のしようもない」

 俺は笑ってみせた。女はまるで無関心な顔で見ている。瞳に映った俺の影が、居心地が悪そうに身じろぎする。

「なあ、まずは……、おまえの名前から、教えてくれないか?」

 女は無言で俺を見つめる。

 そして、ふと、女が顔を近づける。

 俺の口に、女の唇が重なる。

 白っぽい午後の光が、女の顔と、世界を、音もなく呑み込んでいく。

 俺はその恍惚の中で、目を閉じた。


 女が見下ろしている。

 後ろに、暗いバーの天井が見える。

「俺は……、意識を……」

「ええ」

 女の顔はぼやけて、見えない。

「夢を……見ていた……、俺はフードコートにいて……」

 自分の声が、遠くの誰かの話し声のように、か細く響く。

「妙な、夢だった……。おまえは……、なぜか、ふいに……」

 白い靄が、女の後ろを横切っていく。男の死体から上がる煙だろうか。見えない壁の穴を、風が抜けているのかもしれない。

 俺は女の顔を見上げる。どこかで見た光景だ。けれど、それがどこだったか、もう思い出せない。

 これが、俺が最後に見る景色だろうか。

 ふと、曖昧な女の輪郭が、水面に映る影のように揺れる。

 天井のライトが、女の頭の後ろで、ぼんやりとした光の輪を作る。

 その輪が、虹色に滲む。

「……いい夢だったかしら?」

 細くたなびいた煙が、女の肩越しに見える。

 まるで、それは、

「翼が……」

 俺は手を伸ばそうとしたが、もう身体は動かなかった。



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