佐和子

 それからしばらくは、何事もなく過ぎた。何事もない日常とは、つまり、ドブ川の淀みに浮かんでは消える泡のような、この日常のことだ。あれから世界を飛んではいない。たまにアプリで適当に検索した結果を眺めてはいるが、気の利いた検索ワードも思い付かず、すぐに飽きてしまう。


 路地裏で恐喝に遭ってから、飲み屋への足も何となく遠のいていたものの、今日は久しぶりに寄ってみることにした。

 いつもの飲み屋街をぶらつきながら、一人でも入りやすそうな店を物色する。行きつけの店もあるにはあるが、別に店のオヤジと馴染みだとかいう愉快な話ではなく、ただチェーン店で余計な気を遣わなくていいから足が向きやすいというぐらいの理由だった。

 浮かれ歩く人並みを擦り抜けて、人通りの少ない路地に入ったところで、後ろから肩を叩かれた。嫌な記憶がフラッシュバックし、緊張して振り返る。もちろん、あの男ではない。だが、どこかで見たような顔が笑っていた。

「おう、久しぶりだな。俺、俺々、わかる?」

 対面式のオレオレ詐欺のような口ぶりで、男は必死に俺の記憶を掘り起こそうと努めている。誰だったか、確かに見たことのある顔だが、すんなり記憶と結び付かない。

「おまえなあ、こっちはすぐわかったぞ、変わってねえもん。カズキだよ、高校ん時の」

 思い出した。だが、思い出したくもなかった。つい先日、この男のことを考えたはずだったのに、名前と顔がこうも一致していなかったとは、自分でも驚きだ。

 そうだ。高校が同じだった男だ。名前は、カズキだった。そしてこいつは、俺がこの前アプリを手に入れた日に、分岐した別の世界でばったり出くわして、連れ立って飲みに行ったらしい男だ。あの時会いたくもないと思ったら、こうしてひょっこり現れるのだから、運命というのはクソみたいな偶然ばっかり吸い込んで回るバキュームカーの姿をしているのだろう。

「カズキか。高校以来だな。久々過ぎて、わからなかったよ」

「おまえ、これから飲むところ? だったらいい店知ってるからさ、一緒に飲もうぜ」

 その店は知っている。わざわざここから俺の会社の反対側まで歩いたところにあるのも知っている。断りの文句を探したが、こういう時に上手く口が回らないのも俺の駄目なところだ。結局、なし崩しに同伴することが決まり、さっき歩いて来たばかりの道を、またとぼとぼと引き返すことになった。


 カズキの案内した店は、確かに悪くなかった。素朴な店構えで、店内も地味を極めた風情だったが、隅々まで店主の目が行き届き、もてなしの加減も程よく、料理も堅実だった。高校を出て以来一度も会うことがなかった俺たちは、初めての乾杯を交わした。

 カズキはどこにでもいる、普通の男だった。どうして俺が、ただでさえ薄っぺらな記憶の中ですらこの男を遠ざけようとしていたのか、もはや思い出すこともできなかった。もしかしたら、こんな当たり前の和やかさを、俺は疎んでいたのかもしれない。凪いだ海の底にありもしない怪物の影を見て、今にも漕ぎ出そうとする船が、その鈍重な触手に絡め取られやしないかと怯えていたのだ。その妄信的な自己愛は、今の俺にもこびり付いたままなのだろうか。

 話は俺たちの近況から、自然な成り行きで高校時代のことに移っていった。俺よりも地元にいた期間が長かったカズキは、卒業後の同級生たちの事情について俺よりもよく知っていた。いや、比べるまでもなく、俺はその内の一つとして知らなかった。

「宮田とは、最近連絡取ってたか?」

 次々に並べられるぼやけた人影の中から、ふとくっきりとした一つの輪郭が立ち現れる。

 ——宮田佐和子。俺が高校の頃に少しだけ付き合っていた女だ。進路の違いで、卒業と同時に別れたのだった。

「いや、今何やってるのかも知らないよ」

「やっぱり、そんなもんだよな」

 心なしか、カズキの口調が変わったように思える。佐和子とは、別れてから一度も連絡を取っていない。まだ恋愛も覚えたてのガキだったし、互いにその程度の付き合いだったという印象しかない。

「元気でやってるかな」

 カズキは焼酎のグラスをあおってから、

「死んだよ」

 と、呟いた。


 心地よくて、無責任な思い出だけを眺めていたかった。しかしその事実は、俺の視界に突然暗幕を投げ掛けた。

 佐和子が死んだ。もう十年くらい連絡すら取っていなかったのに、それは地の底から伸びてくる荊のように俺の足首に絡み付き、遠い記憶の底に引きずり込もうとする。

 佐和子の記憶。最後に会ったのは、いつだったろうか。俺と佐和子は、どんな言葉を交わしたのだったか。

「……病気か?」

 上擦った声で聞きながら、俺は心中に不吉な予感が膨らむのを感じていた。そして、カズキは、その予感の球心をたった一言で貫いた。

「自殺した」

 なぜだろう。

 佐和子の死を知った瞬間から、その答えは俺の目の前に置かれていた気がする。しかし、予感の残滓をいくら手繰り寄せても、その先には、もう何も残ってはいなかった。

「……いつだ?」

「去年だよ。俺もあいつとは仲良かったからな、卒業してからもたまに飯食いに行ったりしてさ」

 カズキの手の中で、グラスの氷が鳴った。

「こんなこと聞きたくねえだろうけどよ、結構ショック受けてたぜ、おまえと別れたの。まあ、それから何人か男がいたっぽいけど、どれも長続きはしなかったみたいだな」

 言葉も、感情も、さらさらと指の間から零れ出し、俺はただ、曖昧な相槌を打つことしかできなかった。

「ここ数年は何となく俺も疎遠になっててさ、正直、あいつのことも忘れてたよ。知ったのも、ついこの前だし。けど、やっぱり考えるよな。俺が何か話を聞いてやれなかったのか、とかな」

「俺は、今まで知らなかった」

「全然会ってねえだろ、地元の奴らと」

「……俺のせいだと思うか?」

「馬鹿、おまえ、相変わらず自意識過剰だな」

 カズキは笑った。

「誰のせいでもねえだろ。決めたのは、あいつ自身だよ」


 佐和子は、美大を目指していた。最初の年は入試に失敗し、バイトしながら絵の勉強をすると言っていた。俺は隣の県で就職が決まっていたから、家賃が勿体ないし実家から通えと言う親の反対を振り切って、一人暮らしをすることにした。

 俺たちは、そこで別れた。ただ距離が離れるからという以外の理由があったのか、今ではもう覚えていない。新天地に赴くのに、しがらみを捨てたかったのか、何にせよ、その時にはもう互いの間に愛はなかったのだと思っていた。

 別れてから、佐和子に連絡を取ろうと思ったことは一度もなかった。佐和子からも特に音沙汰はなかったし、時々思い出したとしても、何となく元気でやっているだろうというくらいにしか思わなかった。最近では、もう思い出すこともなくなっていた。

「カズキと会ってた時は、何か抱え込んでる素振りはあったのか?」

「いや、あんまり愚痴るタイプでもなかったじゃん。普通だったよ。案外、死ぬ直前でも、何で死ぬのか、あいつ自身もわかんなかったのかもな」

 カズキが何もできなかったように、俺にだって、できたことは何もないだろう。思い詰めた人間に対して、他人ができることなんて、あるんだろうか。思い詰める前に何かできなかったのかと後悔しても、そんな結果を、誰が予想できるだろう。

 けれど、もし、あの時俺たちが別れなければ、今でも佐和子は生きていたのだろうか。いずれ俺との関係は終わっていたとしても、もっと別のやり方で、前向きに終わることもできたのだろうか。

「人間死んだらどうなるんだろうな」

 独り言のように、カズキが言う。

「……わからないな」

「例えば俺が死んでも、誰かが俺の葬式をして、ずっと世界は続いていくんだよな。それってなんか、すげえ怖いな」

 そう、残された者だけが、もうどこにもいない人間のことを考えるのだ。死んだ当人は、もう誰のことも思い出さないのに。

「それで、こんな風にして、おまえとかがさ、酒を飲みながら、俺の話をするんだよ」

「そうだな」

「嘘つけ。おまえはしねえだろ。俺が死んだことにだって、気付きもしねえよ」

 カズキは屈託なく笑った。


 店を出ると、雨が降り出していた。

 カズキはこの辺りに住んでいるらしく、駅に向かう俺とはそこで別れることになった。

 去り際に、カズキは言った。

「おまえと宮田は、似た者同士だったよ。だから、今日はおまえと話せてよかった」

 雨の中を走り去る、カズキの後ろ姿を見ていた。

 俺と話せてよかった、と言ったカズキの真意はわからなかった。佐和子に似た俺と打ち解けて話すことで、どうしようもない無力感への代償としたのか。それとも佐和子と似た俺の中に、同じような危うさを見たのだろうか。

 しかし俺たちは、次に会う約束もしなかった。きっとこの先、再び会うこともないのだろう。佐和子とも、二度と会うつもりもなく別れたが、本当に、これでもう二度と会えなくなった。

 俺は、カズキから佐和子の死を聞かされた時、それが自殺によるものだと予感した。けれど、それは予感ではなかった。

 俺はまた、自分勝手に恐れたのだ。自分の人生すらろくに描けない男が、知らず知らず誰かの人生を黒く塗り潰していたかもしれないと、その可能性を突き付けられることを恐怖したのだった。

 つまり俺は、佐和子が死んだと聞いた時、真っ先に自己保身に走ったのだ。悲しみよりも、衝撃よりも、何よりも先に、「俺のせいじゃない」と、そう叫んだのだ。


 雨はあっという間に土砂降りに変わった。カズキの背はもう見えなかった。

 俺は佐和子のことを忘れてなどいなかった。まるで自然に別れた振りをして、佐和子の気持ちなど存在しなかったと思い込み、そうやって罪悪感を心の奥底に封じ込めていただけだった。

 だが、もはやこの罪を贖う術はない。

 この罪に付けられた名前の持ち主は、もうどこにもいないのだ。



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