カズキと会ってから数日の間ずっと、ある一つの考えが俺の頭を支配していた。

 あの日、帰宅した俺はすぐに、アプリで宮田佐和子の名を検索した。結果は画面に表示しきれないほどあったが、どれもが高校時代の交際を簡単に記した物に過ぎなかった。

 俺は内心ほっとして閉じた画面を、思い直して再び開いた。

 検索窓に佐和子の名を表示させたまま、検索条件を「家族」に絞り込んで、もう一度ボタンを押す。


 当時、俺の中にあった物、あるいは失ってしまった物が、果たして愛と呼べる物だったのか、今ではもうわからない。それに、愛なんて言葉が、あの頃の俺たちに備わっていたかも疑わしい。

 だが、新しい世界を目指した俺が冷たく放り出した物を、まだ少しでも手元に抱えていようと思った別の俺がいたことが、佐和子の死によって浮かび上がった罪の意識を僅かに軽くしたのは間違いなかった。


 次の日曜日、珍しくアラームを掛けて早起きした俺は、アプリでブックマークしていた、ある世界を開いた。

 窓に切り取られた真っ青の空が、まるでその世界への入口のようにぽっかりと開いている。俺は一度深呼吸をし、赤いボタンに触れた。


「どうしたの? ぼうっとして」

 騒がしく走り回る子供たちの声がする。俺はハッとして手に持ったコーヒーカップを置いた。

「いや、なんでもないよ」

 俺の目の前には、見慣れたようで、見知らぬ印象の女が座っていた。

 別れてからの月日がずいぶん雰囲気を変えていたが、それは確かに佐和子の顔だった。いつの間にか俺の中に入り込んだ膨大な記憶が、すぐにその姿を当たり前の物として馴染ませる。そしてその記憶は、俺と佐和子の辿ってきた日々を残らず教えてくれた。

 元の世界とかけ離れた境遇のはずなのに、一瞬でこの世界の俺が本当の俺なのだという確信が満ちてくる。これがあの女の言う「調整」だろうか。今では前の世界での記憶が霞の向こうの景色のように薄らいでしまっている。

「見て。カエルの料理よ」

 視線を遣ると、上の娘が朝食の皿にカエルのおもちゃを載せて、弟に食べさせようとしている。

「美和、ご飯のお皿を遊びに使っちゃ駄目だぞ」

 たった今この世界にやって来たばかりのはずなのに、瞬時に浸透した記憶が、既に俺をこの世界の住人として平然と振る舞わせるまでに変えていた。

 美和と亮太。一つ違いの姉弟。俺たちの子供だ。それと佐和子の四人で今は暮らしている。佐和子は広告のデザイナーをしていたが、亮太が産まれる時に辞めた。一人だけなら実家の両親に手伝ってもらいながらどうにかやっていけたものの、労働環境としては真っ黒に近い業界だったし、二人目を身籠った時点で、悩んだ末に決断した。

「落ち着いたらフリーで細々とやってくわよ。今までの伝手もあるし、仕事さえ選ばなければ家賃くらいは稼げると思う」

 そう言って笑っていた佐和子は、実際俺から見ても物作りのセンスがあった。曲がりなりにも同じ業界で広告代理店の下っ端として働いている俺は、自分で何かを作る才能は絶望的だが、日々山のような制作物に囲まれて仕事をする間に、多少の審美眼は養われていたと思う。クライアントからの要望を、デザイナーのフィルターを通して形にする。佐和子はそのフィルターの性能が抜群だった。

 だから、どちかと言えば将来が明るいのは佐和子のはずだった。俺が子育てをするという選択肢もあったが、佐和子は頑なに自分が育てる方を選んだ。

「オープンの時間に合わせて行く?」

 ぼんやりと子供たちを眺めていた俺に佐和子が声を掛ける。

「そうだな。そうしよう」


 その日は、家族で水族館に行く約束をしていた。

 マイカーを走らせ、郊外の水族館を目指す。元の世界では滅多に車も使わなかったから、ちゃんと運転できるか不安だったが、記憶とともに感覚も呼び覚まされていたようで安心した。

 休日の水族館は俺たちのような家族連れでごった返していた。そう言えば、結婚前に佐和子と二人でここに来た。タツノオトシゴが好きだと言って、佐和子は何度も水槽の前を往復しながら、子供の波が切れる度に張り付くようにして長い時間見入っていた。

「ママが好きな生き物、知ってるか?」

「なに? クジラ?」

「ペンギン!」

「もう少しでわかるよ」

 佐和子が亮太の手を引き、美和が俺の手を引き、四人並んで、一つずつ、ゆっくりと水槽を眺めていった。

 こんな時間が、俺にもあり得たのだ。一人の父親として家庭を持ち、幸せに暮らすだけの人並みな能力が自分にもあったのだということに、俺は自虐的な感動を覚えるとともに、言い知れぬ気味の悪さを感じた。

「ママ! これなに?」

「これは、トゲトゲっていうのよ」

「へんななまえ!」

「りょうた、ママうそいってるよ」

「ふふ。パパが、ほんとの名前を教えてくれるんだって」

「ええと、ガンガゼかな」

「ウニじゃないの?」

「ウニの仲間だよ」

「ささりそうで、こわい」

「毒があるからね」

「つよそう!」

 怖がりな美和と、物怖じしない亮太。表には出さないが興奮が隠しきれない美和と、まるで隠そうともしない亮太。対照的な二人だ。どちらが、どちらに似たのだろう。

 きっと亮太は佐和子に似たのだ。この世界の俺には、そう見えているだろう。

 佐和子は、強い女だ。俺はずっと、そう思っていた。


 どれだけ探しても、タツノオトシゴはいなかった。係員に聞いてみると、数年前に展示を取り止めたのだそうだ。理由はその係員も知らなかったが、あまり人気がなかったのかもしれない。

「残念だったな」

 俺と佐和子はベンチに座り、巨大水槽に魅入られた二つの小さな後ろ姿を眺めていた。

「あの子たちにも見せてあげたかった」

「また見れるよ」

「あたしが好きな生き物、何て言おう」

「ガンガゼは?」

「毒があるじゃない」

「ぴったりだと思うよ」

「どういう意味かしら」

 二つの影の上で、大きな鮫がゆっくりと旋回する。

「ねえ、タツノオトシゴって、龍の子供ってことでしょ。英語で言ったらシーホースで、海の馬よね。あなたは、龍と馬、どっちに似てると思う?」

「顔だけ見たら、馬かな」

「ふうん。あたしはね、龍に似ていて欲しい」

「欲しい?」

「うん。タツノオトシゴってね、魚なのに、魚の形をしてないのよ。見た目だけで言うと完全に仲間外れなのに、誰よりも独創的なの。それに、龍の子供なんて、存在しない物に喩えられてるのって、すごく変でしょ」

「そうかな」

「そう。だから、龍に似ていて欲しい」

 子供たちが並んで駆けてきた。

「ひらべったいのがいた!」

「ねえ、それよりママ、だれかイルカショーがあるっていってたよ」

「そうね、お昼ご飯食べたらイルカさん見に行こっか」

「えー、まだおなかへってない」

「あ! みずのなかに、だれかはいってきた!」

「エサあげるひとだよ、いこう!」

 二人はまた走って行った。

 佐和子は見物客で溢れるこのホールの中で、まるで自分と子供たちだけしか存在しないような穏やかさで、二人を見つめていた。その横顔は、ずっと昔から俺の記憶にあるはずの、知らない横顔だった。

「飲み物買ってくるよ」

 俺がそう言うと、佐和子は前を見つめたまま、頷いた。

「なあ、佐和子」

「うん」

 歓声が上がる。ぱらぱらと手を叩く音が追いかける。

「どうしたの?」

 佐和子が振り向く。

 俺は思わず目を逸らし、言いかけた言葉を飲み込む。

「タツノオトシゴ、また見に行こうな」


 自販機でボトル入りの麦茶を買うと、俺はポケットからスマホを取り出した。


 俺は、佐和子を愛している。

 ただし、それはこの世界の俺だ。

 道端に捨てられていた子猫が、翌日にはいなくなっている。俺は「きっと誰かに拾われたのだろう」と、無責任に安堵する。どこか別の世界で、幸せに暮らしている佐和子を見て、俺はそんな身勝手な安心を得ようとしていた。確かに、幸せな佐和子はそこにいた。けれど、だから何だと言うのだ。

 無数に枝分かれした世界で、全ての俺も、全ての佐和子も、同じように存在している。あるいは、存在していた。この世界で幸福を手に入れているからと言って、俺のやって来た世界の佐和子が生き返ることはない。それは既に決定してしまったことだ。過去に戻ってやり直すことはできない。

 例えば、このまま前の世界を忘れてこの世界で幸せに暮らしてみたらどうだろう。この世界の俺は佐和子を愛しているのだし、上手くやっていけるはずだ。

 しかし、俺は知っているのだ。前の世界の俺にその愛がなかったことを。そこには、容易く飛び越えられない深い断絶がある。いくら新しい記憶が俺をこの世界に馴染ませても、遠い過去への罪悪感が心の奥底にこびり付いていたように、この愛への違和感もまた消えないしこりとなって残り続けるだろう。それに、一度佐和子のことを置き去りにした俺が、どの面を下げて別の世界の俺が大事に育ててきた幸福に割り込めると言うのか。


 佐和子は死んだ。

 どうして死を選んだのかは、わからない。俺の知らないどこかで、いつの間にか死んでしまった。何が彼女を殺したのか、きっと追及したとしても、納得のいく答えは出ないだろう。

 俺に責任があるかと言われたら、あるかもしれないし、ないかもしれない。今となってはそれもわからない。ただ一人答えを知る人間は、いなくなってしまった。だから、よみがえった罪の意識は、この先も永久に拭われることはない。

 俺がやるべきなのは、俺が自ら選び、積み重ねてきた全てのことに、折り合いを付けながら生きていくことだけだ。

 このアプリでどれだけの世界をまたいでも、遺してきた世界は、消えるわけではない。いつか俺がその世界のほとんどを忘れてしまっても、そこには、変わらず俺が生き続けているのだ。


 俺はアプリを起動する。


 もう一度、佐和子と子供たちの顔が見たかった。

 流れ込んだ記憶が、感覚が、俺の決意を鈍らせる。すぐそこに、俺の家族たちがいる。三人とは、たった数時間の関係だ。けれど、もう何年も、ずっと一緒にいたのだ。

 俺はアプリの調整とやらを憎む。まさかここまで強力に人格を組み立てるとは、本当に驚異以外の何物でもない。例え俺がこの世界を去っても、この世界の持ち主だった俺は残る。そして、家族は幸せに続いていく。何の悲しみも残らない。しかし、俺は、失うのだ。たった一つだけの俺の魂の中で、何よりも大事な家族を消し去るのだ。

 これは俺の罰だろうか?

 だとすれば、なんという滑稽な罰だろう。ほんの数時間だけ家族の真似事をしただけなのに、耐え難い喪失の苦しみが俺の心臓を締め上げる。

 今すぐ、この麦茶を持って、三人の元に戻ればいい。

 しかし、それは俺の役目ではないのだ。俺の意識の下で眠っている、この世界で生きてきた俺に託すべきことだ。

 俺は、帰らなければいけない。


 ブックマークしていた世界を開く。

 赤いボタンに触れる。

 しがみついた心を乱暴に剥ぎ取るように、強烈な力が俺を吸い上げる。


 俺はいつかお前たちを忘れるだろう。

 けれど、どうか、元気でいて欲しい。

 急速に薄れゆく意識の中で、俺はそう願うことしかできなかった。



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