何度か目が覚めたと思う。しかし、起きたところで夜までやることもない。無駄に腹が減るだけだ。

 完全に覚醒する前に目を瞑り、また覚めてはまた眠り、少しずつ暗くなっていく世界を遠くに感じながら、暗闇が部屋を完全に浸してしまうまで、夢とも現実ともつかない景色の中を漂い続けた。

 こういう眠りが、いつも俺の人としての尊厳を、少しずつ、鰹節でも削るように、じわじわと摩滅させていくのだ。もう既に、半分くらいは削り取られて、みすぼらしく痩せてしまっているだろう。俺はそれがわかっていながら、何度も同じことを繰り返す。何の考えもない。むしろあらゆる思考を遠ざける暗鬱な磁力のようなものが身内に沸くのを、見ないようにしているだけだ。


 ベッドに転がったまま、スマホで時間を確認する。抽選時間はとっくに過ぎていた。砂を詰めたように重い体をゆっくりと起こし、電気を点ける。数字を控えた券を取り、サイトで当選番号を確認する。

 並んだ数字を、一つずつ確かめていく。券に印字された数字と、発表された数字を比べると、並びも数も合致する枠が、三つあった。

 ここに来て、ようやく当選パターンの種類を確認する。これほど何も知らずにくじを買う人間はきっと俺くらいのものだろう。当たった数字の個数によって「スージー3」から順番に「スージー9」まであり、三つ的中させた俺は「スージー3」の栄誉に預かることになった。

 そして、当選金額は……、二百円だ。

 まあ、そんなものだろう。何か当たっただけでもマシだ。アプリを立ち上げ、宝くじを買った時間を指定して検索する。

 しばらく読み込み中のアイコンが回転するのを眺めていると、やがて画面が切り替わった。

 ……たった一つだけ、検索結果が表示されている。一つだけ? くじの結果を網羅するなら「スージー3」を除いて、ハズレ一件と、「スージー4」から「スージー9」までの六件を合わせた七件の結果が現れるはずだ。

 俺は汗ばむ指先で結果をタッチする。二十四時間以内の行動履歴を注視する。ほとんど今の俺と変わるところはない。注意深く読み進めると、最後の方に、覚えのない一文があった。俺はそれを読むと、アプリを閉じて再びベッドに体を投げ出した。

 そう、確かに、商店街を歩いている時にカレーの匂いがしていた。宝くじを買った後、俺はどこにも立ち寄らずまっすぐ帰宅した。しかしこの世界の俺は、きっとその匂いで閃いたのだろう、スーパーで出来合いのカレーライスを買って帰っていたのだ。

 ページの下までスクロールし、赤いボタンを押す。巨大な手に捕まえられるような衝撃が俺の全身を突き抜ける。


 ベッドから立ち上がり、冷蔵庫を開ける。カレーをレンジに入れて、スイッチを押す。テーブルに残った紙切れは、さっきの世界と一文字の狂いもない「スージー3」の当選券だった。

 俺の意図する通りに、世界は分岐しなかった。あるいは、分岐していたにも関わらず、表示されてはいなかった。俺はカレーの容器をゴミ箱に放り込み、部屋を出た。


 コンビニで缶ビールを買った帰り道、家に戻る気にもなれず、薄暗い公園のベンチに腰を下ろした。鉛筆を転がした俺の世界は分岐していない。カレーを買った世界は分岐した。これは何を意味しているのか。

 アプリを立ち上げる。画面の一番下を見ると「緊急のご連絡はこちら」と書かれたボタンがある。もしかしたら、アプリのバグかもしれない。それだったら、緊急の用事ではないが、クレームの一つとして対応してもらう必要があるだろう。

 能面のような女の表情が浮かび、少し迷ったが、俺はボタンを押した。

 しばらくお待ちください、という画面が出たきり、何も変わらない。メールでの問い合わせか、あるいは直接電話でも繋がるのだろうか。画面が変わるのを待つ間に、俺は缶ビールを開けた。

「ずいぶんお気楽な緊急事態ね」

 思わず、ビールを噴き出した。振り向くと、ベンチの横にあの女が立っている。

「手が滑って押しただけなら腕の一本で許してあげるけど、下らない用件で呼び出したのなら生きては帰さないわよ」

 この前と同じような服装だが、悪態は前回以上だ。運悪く虫の居所が悪い時に呼び出してしまったか。どうやら今夜は、このまま五体満足では帰れないらしい。

 下手な言い訳をしても聞く耳はなさそうだから、単刀直入に切り出した。

「宝くじを買った。それから商店街の福引き。どちらも分岐した世界は表示されなかった。これはバグじゃないのか?」

 少し間を空けて、女は答えた。

「バグじゃないわ」

「だったらなぜ……」

「仕様よ」

 女の表情は変わらない。押し黙ったままの時間が続く。しかし、これで話を切り上げられては堪らない。

「カレー……。そう、カレーを買った俺は分岐してたんだ」

 我ながら間抜けなセリフで笑ってしまうが、女の表情はぴくりともしない。

「用がそれだけなら、帰るわよ。次にこんなふざけた用件で呼び出したら、バラバラにして野犬の餌にするから」

「ちょっと、待ってくれ!」

 女の後ろ姿に呼び掛ける。情報が足りない。まだ、聞かなければいけないことがある。この女だけが、糸口なのだ。

「だいたい、この緊急用ボタンは、いつなら使えるんだ? 俺がこのアプリを使って死にかけでもしたら、緊急だと認めてくれるのか?」

「そうね。その時は、また呼んで」

 女は振り向きもせずに闇の中へ消えた。慌てて追いかけたが、女はもう、どこにもいなかった。


 何かを隠している。俺が聞いたことが、何か不都合な核心に触れたのだ。女は、バグじゃないと言っていた。それに、仕様だとも。決して「福引きの結果は変わらない」とは言わなかった。まるで、世界が分岐していることを女自身も知っているのに、何かの理由で選択肢を消し去っていることを隠しているかのようだった。

 このアプリには、そしてあの女には、まだ俺の知らない謎がある。いや、あの女自体が、そもそも人間の形をしたブラックボックスのような存在ではないか。信じ切ってはいけない。どこに落とし穴があるのかもわからない。その落とし穴は、きっと地獄の底まで通じているのだ。



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