俺は、確かに、自宅にいる。

 拳を何度か握り締めて、それが自分の体であることを確認する。

 そうだ、俺は、飲み屋を出て、そのまま電車に乗って真っ直ぐ帰って来たのだ。

 一つの記憶から、芋の蔓を引くように次々と想起される記憶の断片。それは絡まった紐をほどくような滑らかな心地よさで、瞬く間に頭の先から体の隅々まで染み渡る。そうして取り戻した記憶が、まるでそれが俺に起こったただ一つの事実であると自分自身を錯覚させるまで、大した時間は掛からなかった。


 便所を出て、ベッドに脱ぎ散らかされたスーツに触れる。滝のような水に打たれたはずなのに、少しの湿り気さえも感じられない。

 だが、俺は、知っている。わざわざ触れるまでもなく、それが濡れていないことを、はっきりと覚えている。鏡に脇腹を映してみても、何の跡もない。当然、痛くも痒くもない。

 ベッドに寝転び、アプリを立ち上げる。赤い枠線に縁取られた検索窓が表示される。試しに昨日の退社時間以降の分岐を検索してみる。結果は同じ、七件だ。一つずつ調べていくと、その内の二つが、路地で恐喝に遭遇した世界の物だった。ただ、どちらもその後に手に入れたはずのアプリについては言及されていない。それらの世界では、このアプリは存在しないのだ。

 しかし、面白いことに女の存在は簡単に記されていた。通りすがりの女に声を掛けられた、という程度の簡素な内容だ。女の言う通り、アプリに付随する記憶は改変されているのだろう。念のため、俺がやってきた元の世界と今の世界をブックマークしておいた。戻りたくなることはないと思うが、辿った足跡としての記録だ。

 次に、俺は類似度の範囲にゼロから百を入れて検索してみる。これで、存在する全ての世界が検索できるはずだ。結果の件数は、九が並んで最後にプラスマーク。「無職」のワードで検索した時と同じだ。

 いくつか表示してみると、こことは別の世界で実に様々な人生を送っている自分が現れる。多くは取り立てて変わった経歴でもないが、珍しいところで言うと、刑務所に入っている俺もいるらしい。どうやら痴情のもつれで相手の男に暴行を加えたようだ。まあ、大した罪ではないだろう。


 初めは面白半分で眺めていたが、次第に飽きてきた。表示される俺の姿に現実味を感じないし、ボタンを押すだけでその世界に飛べるとはわかっていても、いざ飛ぶとなると、簡単に決心がつくものではないということもわかった。別に今の人生を満喫しているわけではないが、全てを捨ててまるっきり違う自分になれる機会を与えられると、こんな下らない人生でもそれなりの名残りを感じるものなのだということに、皮肉めいた虚しさを覚えた。

 それに、全く違う世界に飛び込むのは、今でなくとも、本当にこの世界に嫌気がさした時まで取っておけばいい。それよりも、今の人生を少しでも良くするために工夫する方が、目下の楽しみとしては相応しい気がする。あるいはそれが、ただ俺が大それたことに踏ん切りが付かない、身も心も小物であるということの証明に過ぎないのかもしれないが。

 ちょうど明日は日曜だ。街でもぶらぶらしながら、このアプリの使い途を、ゆっくり考えることにしよう。



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