「それじゃあ、契約させてもらうわ。指を出して」

 俺は右手を開き、女の前に差し出す。女は俺の手を取り、人差し指の先を強く摘まむ。すると、圧迫されて白くなった指先に、変化が起こった。傷を付けてもいないのに、小さな赤い点が現れ、次第に膨らみ、パチンコ玉ほどの球体になった。表面が細かく震えて、今にも弾けてしまいそうだ。どうやって取り出したのかわからないが、俺の血だろう。女はその血の玉を、指ごと咥えて、飲み込んだ。

「はい、終わりよ」

 俺は濡れた指先を眺めてみたが、やはり傷一つない。

「スマホに唾を付けたり、血を舐めたり、ずいぶん行儀が悪いんだな」

「言ったでしょ、この体は便宜上こうなってるだけの、ただの形。どこから出して、どこから入れるかなんて、どうでもいいことよ」

 女は飲み下した物を胃に送るように、ゆっくりと首筋から胸元を撫でた。

「ひとまず、わたしのやることは済んだわ。何か、質問ある?」

「まだ、アプリの説明をちゃんと聞いてない」

「さっきの話でだいたいわかるでしょ。使ってるうちに、慣れてくるわよ。もし何かトラブルがあったら、アプリの中に緊急連絡用の機能もあるから、必要だったら使って。一応、最低限のアフターフォローはしなきゃいけない決まりだから。ただ、下らないことで呼び出さないでね」

 機嫌を損ねたら、次こそは髪の毛を焼かれるのだろう。だが、まだ聞いておきたいことが残っている。

「ちょっと待ってくれ。いくつか確認しておきたい」

 女は面倒臭そうに振り返った。

「まず、飛んだ先でまたアプリは使えるのか?」

「使える。どの世界に切り替えても、自分のスマホに同じアプリが入ってる。仮にスマホを持ってない世界があったとしても、フィルタリングされて検索結果には表示されないから、安心して」

「他の世界に移っても、元の世界の俺はそのまま存在し続けるんだろう? そうなると、元の世界の俺からすれば、アプリでボタンを押して、そのまま何も起こらずスマホをポケットに入れて家に帰るってことになると思うが、それで辻褄は合ってるのか?」

「……あら、結構頭が回るじゃない。このアプリはね、無数に存在する世界の中で、ただ一つの世界にのみ存在するように作られてるの。……いや、その言い方は正確じゃないわね。このアプリは、主体としてのあんたに紐付いてるのよ。わかるかな。テレビを見てるあんたよ。ただ、その例えだと、見てるあんた自身はテレビの外にいるけど、このアプリを使うあんたは、テレビの中にもいるの。だから複雑なの。そこに整合性を持たせるのは、すごく難しいのよ。まあ、このアプリは、それをやってるんだけどね。何にせよ、あんたがアプリを使って別の世界に移った時点で、元の世界にアプリは残らない。当然、付随する記憶も消去される」

「もし元の世界の俺が、何かアプリに関するメモを残していたとしたら?」

「酒に酔った勢いで、三文小説のネタを書き留めたと思うでしょうね」

「アプリの動作する様子を撮影していたら?」

「いいアイデアだわ。試してみたら?」

「真面目に答えてくれ」

「このアプリはね、人間ではあんたにしか見えないの。カメラにも映らない。他人に画面を見せて必死に説明しても、陰でイカレ野郎だと噂されるだけよ」

「……よくできてるな。使用回数に制限は?」

「あんたが生きててスマホを触れる限りは、何度でも」

「もし飛び先の世界で既に俺が死んでいたら?」

「それも検索されないから大丈夫」

「検索は、キーワードだけか?」

「詳細検索ってボタンがあるでしょ。そこで色々条件を指定できるわ」

「……これか。職業、家族、身体的特徴……、プロフィールに含まれることはだいたい絞り込めるんだな。このマップは……、現在位置か。それから……、類似性、分岐時間なんてのもある」

「類似性は、今の世界とどれだけ似てるかってことね。ゼロから百まで。百に近付くほど似てる。分岐時間は、枝を辿って今の世界と分岐した時点ね。西暦、月、日、確か何時何分まで指定できたはず。そこそこ正確に絞れると思うわ」

「元の世界に戻るためのボタンはないのか?」

「直前の世界に戻る機能はないわ。要望が多ければ実装されるかもしれないけど。ただ、ブックマーク機能はあるから、こまめに記録しておけば、迷子になることはないでしょうね」

「最後にもう一つ。世界は、俺とは無関係なところでも分岐してるんだろう? 俺の状態が全く同じでも、世界のどこかで何かが変わっていれば、それらは個別の世界として検索結果に表示されるのか?」

「表示されないわ。……ええと、そうね、あんたの状態が同じなら、重複した結果は省かれると思って」

「なるほど。だいたいわかった。最後に一つ。マニュアルがあれば欲しいんだが」

「あんた……、インターネットを検索するのにもマニュアルが必要なタイプ?」


 最後まで憎まれ口を叩きながら、女は路地の奥へと消えた。てっきり魔法のようにパッと消えるか、異世界の門でも開くのかと思ったが、普通に歩いて行ってしまった。人間の世界で、人間の振りをして暮らしているんだろうか。俺が今まで知らなかっただけで、あんな奴が、この社会にたくさん紛れ込んでいるのかもしれない。

 女の口振りからすると、俺のアプリのように、妙な商品を受け取った人間が他にもいるということだろう。けれど、女の言う通り、周囲への影響が最小限に留まるよう配慮されているなら、そういう人間同士が接触することも、そもそも互いの存在を認識することもないはずだ。このアプリだって俺が世界を行き来するだけで、他人がそれを知ることはない。


 それにしても、とんでもない物を手に入れてしまった。改めて、そう思う。慎重に検討した上で使うべきだと思うが、目先の問題として、この脇腹の痛みと、濡れた服をどうにかしなければいけない。

 試しに、ごく近い世界に飛んでみるか。俺がこの路地に入らない世界、それとも、上司が会社をクビにならない世界に行くべきか。いや、あのクズは辞めて然るべきだ。最善の選択はどれだ。選択肢は、いくつある。最近どこかで、世界は分岐したのだろうか。

 俺はアプリを起動する。分岐時間に三十分前の時刻を入れて、ボタンを押す。俺が飲み屋を出て、ふらふらと路地に入る前の時間だ。

 検索結果は……、ゼロ。

 つまり、おれは必然としてこの路地に入ったのだ。路地に入らない、という状況は存在しなかったことになる。もっと秒単位で無数に分岐している世界を想像していたが、俺一人を基準に考えれば、案外こんなものなのかもしれない。それならば、次はさらに分岐時間を戻して、俺が会社を出て、飲み屋を探して歩いていた頃に設定してみる。

 結果は、七件。意外と多い……と言っていいのだろうか。結果の中から適当に開いて確認してみる。プロフィールは、特に変わりない。たった数時間前のことだから、当然だろう。違いがあるのは「過去二十四時間の行動履歴」という欄だ。いくつか開いて比べてみると、どうやら飲み屋の選択を迷った挙句に、どの飲み屋を選んだかで分岐したらしい。確かに、歩きながらどの店に入るか迷った気がする。

 なるべくこの路地から離れた店のものを探してみる。……あった。会社から見て、まるで逆方向だ。なぜわざわざ道を戻ってそんな店まで足を運んだのか。読み進めてみると、飲み屋を探している途中でばったりと旧友に出くわして、そいつの馴染みの店に行ったらしい。その世界に飛べば、俺の脇腹も服も無事で済みそうだが、この旧友にはあまり近付きたくない。高校の時に同じクラスだった奴で、向こうは俺のことを慕っていたようだが、俺は嫌っていた。酒の勢いで、また会う約束でも交わしていたら最悪だ。

 他の世界をいくつか見てみると、無難な選択肢を見つけることができた。別の飲み屋に入店し、そのまま家路につき、既に帰宅しているようだ。特に変わったことは起こっていない。


 よし、この世界に決めた。

 俺は書かれてあることを隅々まで精読し、内容に問題がないことを確認すると、非常口のようなボタンの上に軽く指を浮かせて押す準備をした。

 今から、俺はこの世界とは異なる、別の世界へとジャンプする。その世界では、ほとんど俺と同一の人間が、たった数時間の違いではあるが、この俺とは別の人生を歩み始めているところだ。俺はその人生に乗り移る。この世界の全てを捨てて、アプリと、記憶だけを携えて。


 ボタンに、指が触れる。

 最終確認のダイアログを承認する。

 直後、背後から巨大な掃除機に吸い込まれるような、強烈な引力を感じたかと思うと、次の瞬間、俺は自宅の便所に座っていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る