「あんた、スマホは持ってるよね?」

「そこの水溜りに落ちてる鞄に入ってるはずだ」

「出して」

 鞄は安物だが、財布や電子機器が濡れるのはそれなりに困る。取り出してみると、運良く中身は無事だ。

「貸して」

 女は俺の隣に座るや否や、スマホを掠め取ると、自分の指を舐めて、何かを描くように唾液の付いた指で画面をなぞった。

「拭いて返してくれよ」

「黙ってて」

 画面に指を立てたまま、目を閉じて何かを呟く。囁くような小声で聞き取れなかったが、きっと俺の知らない言葉だろう。

「できたわ。起動してみて」

 俺は女の唾液で濡れたスマホを起動した。


 画面に、見慣れないアプリのアイコンがある。と言っても、ただの単色の赤い四角でしかない。アプリの名前は……。

「なんだこれは、文字化けしてるぞ」

「ああ、悪いね、ちょっとまだバグが残ってるかもしれない。中身はちゃんとあんたのわかる言葉になってるはずだから。とりあえず、開いてみて」

 アイコンにタッチする。垂れたばかりの血痕のような、不吉な色のアプリが立ち上がる。

「検索窓がある。それだけだ」

「見せて。うん、問題なく起動してる」

 女が画面を覗き込む。こうして見ると、本当に、ただの若い女にしか見えない。薄っぺらで特徴のない顔立ちも、素朴な味があると言えなくもない。いや、正体は悪魔じみた何かだ。人間を評価するのと同じ目で見てはいけない。

「……で、なんなんだ? このアプリは」

「そうだね、あんたの子供の頃の夢は?」

「夢? 何になりたかったか、という意味なら、覚えてない」

「つまんないわね。じゃあ、今なりたいものは」

「特にない」

「何でもいいから適当に言って」

「だったら、総理大臣だ」

「馬鹿なの? まあいいわ。検索窓にそう入力して」

 俺は言われるまま「総理大臣」と入力して、検索ボタンを押した。

「何も表示されないぞ。検索結果はゼロらしい」

「まあ、そうなるよね。ちょっと貸して」

 女は画面に何やら入力して、俺に返した。

「出てるでしょ、検索結果が」

 画面には「無職」と検索された結果が表示されている。件数の箇所には数字の九がたくさん並び、最後にプラスのマークが付いている。

「どれか開いてみて。ただし、その先は触らないで」

 適当に一つを選んでみる。画面が切り替わり、ずらずらと文章が表示される。

「……俺の名前が書いてある。それから、住所、電話番号、家族構成、身長、体重……、職業の項目は無職になってるな。その下にもまだ色々書いてある。一体何なんだ、これは」

「パラレルワールドって知ってる?」

「世界が同時にたくさん存在するってやつだろう」

「そう。まあ、人間が想像してるパラレルワールドと同じではないんだけど、世界は常に分岐してるの。分かれた世界は、それぞれが独立した世界になる。あんたが開いたそれは、今この世界と並行して存在している別の世界の情報よ」

 プロフィールらしき情報の下に、簡単な年表が添えてある。最下部には、ボタンがある。ドアを開けて出て行こうとする人間の絵が描かれたボタン。非常口のサインのようだ。これは……いや、まさか……。

「残念ながら、あんたは何をやっても総理大臣にはなれなかったみたいね。世界は無限に存在し得るけど、可能性のない世界は誕生しない。もちろん、あんたがこれから死ぬ気で努力すれば、いつかは結果に表示されることもあるかもしれない」

「このボタン……」

「押さないでね。押したら無職になるわよ」

 こんな突拍子もない話、すんなり信じられるわけがない。このボタンを押したら、別の世界に行くということか? いや、行くのではなく、その世界の自分に入れ替わる、というべきなのか。そしたらこの世界にいる俺はどうなる。俺の意思と無関係に生き続けるのか、あるいは……。

「ボタンを押したら、今の俺は死ぬのか?」

「あんた、思ったより馬鹿ね。同時に存在するのよ、あんたも、世界も、無数にね。テレビのチャンネルを切り替えるのと同じよ。あんたが見てなくても、番組は放送されてるでしょ。見てる番組が切り替わるだけ。常に見てる主体は、あんたよ」

 俺の意識のようなものが、色んな世界の俺に乗り移るというイメージか。しかし別の世界の俺は、どこで枝分かれしたかにもよるが、現在置かれている状況も、生きてきた過去も、この俺ではない。そんなに簡単に入れ替わることができるとは思えない。

「飛んだ先の世界で、俺は別の人生を生きてるんだろう? それなら記憶はどうなる。ここで、こうしてあんたと取引した記憶も、その事実もなくなって、俺はまるでその世界に元から生きていたように、何の疑いもなく新しい世界に溶け込むのか?」

「結論から言うと、記憶は残る。飛び先の世界では、二つの記憶が合成された状態として残る」

「それなら、何度も入れ替わったら、その度に別の人生の記憶が何人分も増えていくってことか?」

「調整が入るのよ。比較的近い分岐なら、そもそも記憶もほとんど共通してるから、特に調整はいらない。けど、もし分岐点が遥か過去に遡るようであれば、丸々別の人生の記憶が合成されるから、必要な調整がされるわ。例えば、昔の記憶って曖昧でしょ。中には、現実だったのか夢だったのかわからないほどおぼろげな記憶もある。昔のことを思い出して、ああ、そんなこともあったなあ、って思い出す。でもその記憶が、今の世界での記憶なのか、別の世界での記憶なのか、はっきりしないくらいにぼかされるの。そして、いずれは元の世界の記憶が消去されて、新しい世界の記憶だけが残る」

「アプリで人の記憶までいじれるのか」

「人間にとってはアプリの形をした、わたしたちの技術よ」

 悪魔に、脳味噌を掻き回される。いや、この女の姿が着ぐるみに過ぎないように、悪魔というのもただの着ぐるみでしかない。それならば、俺の目の前にいるのは、一体何なのか。

「おまえは……、本当は誰なんだ?」

「見ての通りよ。結構可愛くできてるでしょ?」

 この女は、俺の全く理解の届かないところにいる。これ以上、詮索しても、考えても、無駄だ。今の状況を、手の届く範囲で考慮するしかない。

 そして、それなら、もう結論は出ている。

「ああ、可愛い。どこにでもいるくらいにはな」

「……で、どうするの?」

「もらうよ。つまり、取引は成立だ」

 

 本当は、あの男に殴られて、薄汚れた雑居ビルの裏で意識を失って、夢でも見ているのかもしれない。もしも夢なら、好き勝手に楽しんでやればいい。夢じゃなかったら、そうだな、まあ、不利益はないと言う女の言葉を、今は信じてやることにしよう。



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