アプリ

 這い出るようにベッドから出たのは、もう太陽もマンションの頭上に差し掛かる頃だった。文字通り人生を変える事件が起こっても、染み付いた習慣はなかなか取れないらしい。


 安物のボトル入りコーヒーをグラスに注ぎ、黴が生える直前の食パンを齧る。テレビを付けると、昼の情報番組がとある有名女優の不倫騒動をすっぱ抜いていた。俺はその女優の名前をアプリで検索してみる。もしかしたら、どこかの世界で俺と接点があったかもしれない。

 検索結果には、口笛でも吹くような気軽さでゼロの文字が座っている。そのまま俺は、テレビに映る顔を手当たり次第に検索してみる。けれど、いくらやっても結果は同じだ。残すは熱湯で戻した高麗人参のような芸能記者のみとなったところで、スマホをベッドに放り投げた。

 どれだけ世界が無限に枝分かれしても、平凡な人間には平凡な世界しか用意されていないのだ。例えばこの世界とまるで似ていない世界に飛んだとしても、そこで生きているのは俺なのだ。少しぐらい経験に違いが出たからと言って、俺が俺以上の何かになることはない。

 俺はスマホと財布だけをポケットに突っ込んで、部屋を出た。


 わざわざ繁華街まで出る気も起こらず、近所の商店街まで歩くことにした。流れているのか止まっているのかもわからない退屈な川を横目に見ながら、午後になりたての気怠い日差しを浴びて歩いていると、前から犬を連れた老婆が近づいてきた。

 擦れ違いざまに、もしも今、俺がこの婆さんを締め殺したらどうなるだろうと考えた。白目を剥いた婆さんの横でやかましく吠え立てる犬を蹴り飛ばして、俺はアプリで別の世界に飛ぶ。悪行を犯した俺はどこかに消えてしまう。現実には消えるわけではないが、意識の埒外に出てしまった世界は、もはや存在しないのと同じだ。

 老婆は俺に微笑みかける。俺も軽い会釈を返す。

 この先を曲がればアーケードの入口だ。日曜のこの時間なら、昼飯を求める買い物客で賑わっているだろう。包丁を握り締めて、商店街に闖入した俺は、悲鳴を上げて逃げ惑う人々を、手当たり次第に切りつける。通報を受けた警官が俺を押し倒す前に、返り血で濡れた指で、適当な世界を検索して、ジャンプする。俺は、何事もなかったかのように、行く先の世界で生き延びる。


 このアプリは、きっとそういうことができてしまうアプリなのだ。どれだけ狂った凶行に走っても、どれだけの血を浴びても、どれだけの幸せを踏みにじっても、俺はその全てを簡単に精算して、何も知らない人間ばかりの世界で、易々と生きていくことができるのだ。

 俺は、どんな人間だろうか。寝ても覚めても下らないことばかりの日々に疲れて、いつまでもうだつの上がらない自分をとっくに見限っていたとしても、俺は果たして、気軽に人を殺せる力を与えられて、天命を得たようにそれを振り回す人間だろうか。

 ふと、コーヒー豆のようなあの男の顔が脳裏によぎる。前の世界で、俺を散々痛めつけて、金を奪った男だ。もしもあの男が、俺の金を使い切った後で、アプリを操作して別の世界に飛んだとしたら。男は入れ替わった世界で、悠々と潔白の道を歩くのだ。

 俺とあの男は、同じだろうか。それとも、何か違うところがあるのだろうか。


 アーケードが見えてきた。想像よりも人は少なかったが、思い思いの目的を持った人々で賑わっている。目的のない俺は、そこに溢れる日常を眺めながら、ぼんやりと、アプリのこと、女のこと、それから舐められた指の感触など、浮かんでは消える取り留めのない思考を、ただ流れるに任せて歩いた。

 その時、カラカラと甲高く鳴る鐘の音を聞いた。見ると一軒のスーパーマーケットの前に人だかりができている。景気の良い男の声。沸き起こる拍手。どうやら福引きをやっているらしい。

 俺はふと思い立ち、近寄ってポスターを見る。このスーパーで千円の買い物をする度に抽選券が一枚渡され、券一枚で一回の福引きができるようだ。

 欲しくもない五百円のエコバッグを二つ買い、抽選券を一枚手にした俺は、早速抽選場所に並んだ。順番を待っている間に、今の時間をメモして、景品の一覧を眺める。残っているのは、一等、三等、五等、それから大量のハズレの飴玉だ。景品の内容は、今はどうでもいい。抽選器の中身は見えないが、恐らくほとんどはハズレだろう。

「はい、じゃあ一回まわしてくださいね」

 抽選券を渡し、ハンドルに手を掛ける。俺は神妙な気分で、抽選器の穴を見つめる。きっとこの派手な法被を着た男の目には、たかが一回の福引きに全身全霊を注いで集中する憐れな男の姿が映るのだろう。けれど俺にとっては、何色が出たって問題ではないのだ。

 ハンドルを回す。乾いた音を立てて玉が転がり出る。

「残念! またチャレンジしてくださいね」

 飴玉を受け取ると、俺は会場の脇でスマホを取り出した。アプリの検索画面に、メモしておいた時刻を入れてボタンを押す。抽選器の中に玉がいくつ入っていたかはわからないが、百個入っていたとしたら、百通りの世界に分岐したはずだ。その内、俺の状態に照らして重複した結果は省かれるから、結果は、一等、三等、五等、ハズレの四つのパターンに絞られるだろう。ハズレを引いたこの世界と同じ結果も表示されないとして、いずれかの景品が当選した三種類の結果が残る。

 俺は検索結果が表示されるまでの数秒の間、はやる気持ちで待ち構えた。


 ……なぜだ。俺の推理が間違っているのか?

 結果は、ゼロ件だった。世界は、分岐していない。

 考えられる可能性は、まず、この抽選器にハズレしか入っていなかった場合だ。露店のくじ引きでは、当たりを入れていないような悪どい業者もいると聞く。しかし、その可能性も、たった今消えた。俺の少し後ろに並んでいた客が、五等を引き当てたのだ。俺の困惑を嘲笑うかのように鐘がカラカラと鳴る。

 もう一つの可能性は、これはあまり信じたくないが、くじ引きの結果は絶対に変わらないということだ。俺がハンドルを回した時、回した力加減や抽選器の中の状態が同じであれば、出てくる玉も必ず同じになるのではないか。……いや、本当にそうか? 例えば俺が石ころを拾って、それを足元に落とせば、それは必ず同じように転がるのか?

 ……駄目だ。これ以上は、考えてもわかる気がしない。学のない俺には、玉の転がり方なんて小難しい話はお手上げだ。高校までの勉強で解ける問題ではない気がする。まともに授業さえ聞いていなかったのだから尚更だ。

 試しに、ネットで「福引き」と「確率」というキーワードを合わせて検索してみる。結果を何ページか見てみたが、俺の求める答えは見つからない。「福引き」「結果」「変わらない」と検索してみても、同じだ。

 こういう時に、ネットはまるで役立たずだ。そもそも、ここに表示される検索結果だって、検索エンジン側が独自に収集した結果に過ぎない。実際にウェブ上に存在する全ての情報を直接検索しているわけではない。

 ……待てよ。直接検索していない……?

 もしかしたら俺は前提から勘違いしていたのかもしれない。女もこう言っていたはずだ。

「フィルタリングされて検索結果には表示されない」と。

 この福引きの結果だってそうだ。実際に起こり得る結果が、馬鹿正直にそのまま表示されているとは限らないではないか。複雑な物理の計算は知らないが、もし本来であれば全ての当選結果に辿り着くように世界が分岐していたとしても、それが何らかのフィルタリングをされていて、アプリ上はあたかも分岐が存在しないように表示されている可能性はあるのではないか。

 だが、何のために?

 飲み屋を出た俺の世界は、このアプリ上でいくつかに分岐していた。しかし、福引きを回した俺の世界は、アプリ上では分岐していない。その違いは、何なのか。何か意図があってそのように設計されているのか? あるいは、そんな仕様にしなければいけない理由があるのか。


 考えても、明確な答えは出ない。この思い付きだって、検討外れだということもある。やはり石ころだって、福引きの中の玉だって、常に同じように転がるのかもしれない。

 ずっと抽選会場の横でスマホをいじっているので、福引きの係員が怪訝そうにこちらを見ている。俺はスマホを仕舞ってその場を去った。



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