『幸せがもたらすもの』

 食べるという行為は、生きる上で必要不可欠なものだ。何かを食べなければ、動くこともできなくなるし、遠からず命も尽きてしまうだろう。「生きる」ということは、「食べる」ということであるとも言い換えられるかもしれない。


 目の前に並んだ料理を眺めながら、俺はしばし黙考していた。


 茶碗に盛られた白いご飯から、温かな湯気が上がっている。空腹であることを差し引いても、温かなご飯なら三杯は食べられるだろう。だが、大皿に山と積まれた山菜の天ぷらや、これまた温かいお吸い物が揃っていれば、ご飯がさらに進むというものだ。


「……カナン、よだれが垂れているよ」


 大人しく隣で座っていたリンドウが、石を食みながら顔をしかめる。思わず口に手を当ててみたが、無論そこによだれなどあるはずもなく。睨む代わりに無言で石喰いから石を取り上げると、リンドウは俺の足の裏に指を突き刺した。


「人でなし」

「私は人じゃない」

「石でなし」

「そんな言葉はない」

「穀潰し」

「それは君だ」

「うるさい」


 食卓下での攻防。そんなことは実にどうでも良い。リンドウが俺の手から石を奪い返したところで、部屋の入り口が開く。居住まいを正した俺たちに、この家の主人——田舎道で出会った老婆が柔らかな笑顔を向けてくる。


「おやおや、召し上がっていても良かったのですよ?」

「いや、家にあげてもらった上に食事まで頂くわけには……」

「気にしなくて良いのですよ。困ったときは助け合うものでしょう?」

「ええ……いや。しかしここまでして頂く理由が」


 俺は少々困惑していた。田舎道で出会った老婆——ハナさんは、難儀している俺たちを近くにある村の自宅に招いてくれた。困っていたのは事実だったので、それだけでも有り難かったのだが。彼女はどういうわけか食事まで用意してくれた。


 ここまで親切にされてしまうと、逆に裏があるのではと思ってしまう。そんな俺は疑い深すぎるだろうか? けれどなんの見返りも求めず身知らずの人間を家に招く心境は……まあ。俺が汚れすぎているだけの話かもしれない。


「良いんですよ。こんなに作っても、食べ切れるような大家族じゃないですからね。むしろ食べて頂いた方が、余らなくて私たちもありがたいのよ」

「……う……む。そこまで仰って頂けるなら、断るのは野暮というものですね。では……いただきます」

「はい、どうぞ召し上がれ」


 押し切られてしまった。仕方ない、というのも失礼だろう。俺はありがたく食事を頂くことにした。隣のリンドウを見れば、大人しく石を食み続けている。かすかに眉が寄っている気がするが、気にせず俺も食事に箸をつける。


 白いご飯を口に運ぶと、温かさに心が和んだ。噛みしめるたびに広がる甘みが、なんとも言えない幸せな感覚をもたらしてくれる。……そこまで腹が減っていたとは自分でも驚きだ。あまりがっつくのも行儀が悪いと思いながらも、箸は天ぷらに伸びる。


「足りなければ、まだありますからね。たくさん召し上がってくださいな」


 ニコニコと笑うハナさんの言葉に頷きながら、俺は無心で料理を片付けていく。

 山菜の天ぷらは、ふきのとうだろうか。苦味も少なく、衣はサクサクとしてとても美味しい。それに梅塩をつけた頂くと、程よい塩気が加わり一味違う感じになる。


 お吸い物に口をつける。これは菜の花が入っているのか。薄味かと思ったが、意外に濃いめの味付けで疲れた体にはちょうど良い。もしかすると、わざわざそうしてくれたのだろうか。


 ハナさんに声をかけようと視線を上げたときだった。軽やかな足音が廊下の方から響いてくる。「あら」とハナさんが腰を浮かすと同時に、部屋の入り口が開かれた。


「おばあさま! ただいま戻りまし」


 た。というところだったのだろう。しかし当然というべきか、その言葉は途切れた。ところで視線はというと、俺たちの上で静止している。いや、それは正確ではない。彼女の——現れたのは女性だった——視線は俺の顔に突き刺さっていた。


「……ふ」


 ふ? ふきのとうの天ぷら。……ではない。彼女の少し切れ長の瞳が、俺の顔に据えられたまま動かない。なんとなく嫌な予感がするが、逃げ出す余地はどこにもない。


 無言で見つめ合っていると、隣で石が砕ける音がした。石喰いは呑気に食事を続けている。そんなちぐはぐな状況の中、彼女はおもむろに口を開き、そして——。


「——どこから入り込んだの! この不審者!」


 叫びが俺の耳を貫く。いや、少し待ってほしい。そう返す間など許されもしないのはどういうことなのか。驚きと嘆き。そのどちらも言葉にできない俺の顔に、彼女が手にしていたカゴが激突した。

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