第3話 ひとりぼっちのカンタータ ⑪
白くぼやけた視界の中心に、姉ちゃんがいた。
よく見るとそこはおれたちが通っていた小学校の教室で、黒板に張り付けられた日直の名前のマグネットも、壁に並べられているクラスの習字の半紙も、すべて見覚えがあった。
何でここに姉ちゃんがいるんだ。
教室の窓からは夕陽が射しこんでいる。
もうとっくに空手の時間じゃないか。
早く行かないと。焦りが胸をざわつかせた。
──姉ちゃん、どうしたの?
おれは聞いた。
姉ちゃんは何も答えなかった。
──稽古、行かなきゃ。
もうすぐ、大会じゃないか。みんな気合入れてるのに、行かなかったら怒られる。
みんな、姉ちゃんを待ってるいるんだ。
──行かない。
──え?
外から、キャハハハと笑い声がした。
姉ちゃんのクラスの子たちがみんなで長縄飛びの練習をしていた。
こないだうちに遊びに来た子たちだ。
その中に、みずほ姉ちゃんもいる。
姉ちゃんは窓越しに、みずほ姉ちゃんたちを見ていた。
──行きたくない。
おれは、姉ちゃんの言っている意味がわからなかった。
腹が立った。
何だよそれ。
行かないってなんだよ。
お父さんもお母さんも、みんな、姉ちゃんに期待してるのに。
おれなんかと違って。
強いくせに。
おれが毎回どんな思いで稽古してるかもしれないで。
強かったら、自分だけそういうわがままが許されるとでも思ってるのかよ。
そう文句を言おうとしたのに。
振り向いた姉ちゃんは、まるで傘もささずに雨に打たれているみたいな表情だった。
──なんだよ……。
眉を下げて、唇を固く閉じて、何かを言おうとしている雰囲気はあるのに、何も言おうとしない。
どうしてそんな顔をするんだよ。
おれは姉ちゃんにそれ以上なんて声をかけていいかわからなくて、ただ困っていた。
──泉ー! 衣彦ー!
そんなとき、声が聞こえた。
──将悟がアイスおごってくれるんだってよー!
──言ってねーーー!
廊下から、外の笑い声に負けないくらいの叫びが聞こえた。
龍兄と、キャプテンだ。
二人とも、この時間はいつも習い事があるはずなのに、どうしてここにいるんだ。
いつもなら、そんなことは気にしないで喜んで教室から飛び出していた。
でも、今日はダメだ。
俺と姉ちゃんは、空手に行かなきゃ。
けど──姉ちゃんは、歩き出した。
二人の声のする方へ。
──姉ちゃん⁉ 空手は⁉
姉ちゃんは廊下の方に目を向けたまま、おれの横を通り過ぎた。
──衣彦は、行きたいなら行きな。
突き離しているのか、ついてこいという意味なのか、よくわからない口ぶりだった。
ただ、そう言った姉ちゃんの横顔には、さっきまでの陰りはなかった。
プールから水面に顔を出したときみたいに、何かから解放されたような表情だった。
「──十秒‼」
「っ⁉」
耳を貫くような叫び声で、視界の霧が一瞬で消し飛んだ。
「十五!」
危ねぇ! 失神(おち)るところだった!
俺は意識の混濁を振り払うように身体を起こそうとするが、しなやかな弾力に阻まれてみ身動きが取れない。動けないのは首から上だけではなく、右腕もだ。伸びきった右腕はミシミシと音が聞こえそうなほど強い力で押さえつけられ、五体のうち辛うじで動くのは左半身だけだった。
潤花に三角締めを決められているのだ。
「二十! ギブ⁉」
再び潤花が叫んだ。
意識が飛びそうになったのは迂闊だった。
朦朧としながらも、降参を促す潤花に負けじと必死で声を振り絞る。
「誰が、するかよ……っ!」
「あっそ!」
一瞬、視界がブレたかと思いきや、首の圧迫感が衝撃に近い勢いで急激に強くなると同時に右腕がさらに引き絞られる。
「っ⁉ ぐ……っ!」
こいつ、遊んでやがる!
やろうと思えばいつでも締め落とせたのに、さっきはわざと力を抜いていたのだ。
手加減なんかしやがって! ふざけんな!
そう絶叫したい衝動を堪えて歯を食いしばる。が、その我慢も限界に達してきている。
苦しい。息ができない。大蛇に締め付けられているような絶望的な圧迫感だ。
ギ、ギ、ギと耳元で歯の軋む音が聞こえる。
まずい、このままだと今度こそ気を失う。
それとも先に意識が飛ぶのが先か。
どっちが先か検討もつかないが、たとえ首の骨が折れたとしても死んだとしても、絶対に負けを認めるわけにはいかない。絶対にだ。
俺は、もう一度精一杯の抵抗をするため右腕に力を込めた。
これでダメなら噛みついてでも抜け出してやる。
一瞬の隙をつき、ある秘策で三角締めからの脱出を試みようとしたその時……首にかけられた力がふっと解放され、全身に自由が戻った。
「はい三十秒。チャレンジ失敗だね」
「っ⁉ ……くそったれ‼」
ドンッ! と拳をマットに叩きつける。
屈辱だ。
完全に子供扱いだった。
勝負が始まってからどれほどの時間が経過しただろうか。
全力で掴みかかっては足元をすくわれ、カウンターを誘えば力で圧倒される。挙句の果てに寝技に持ち込まれて『三十秒以内に三角締めから逃げられたら衣彦の勝ちで良いよ』という挑発に一泡吹かせてやろうと挑んだ結果、この有様だ。
結局、俺は威勢よく噛みついたくせに、一度として潤花を地に伏せることができていない。
畜生……!
何十回と挑戦していれば一本くらいは取れるはず。そんな算段すらも甘い見込みだったと思い知らされる現実だった。
「どうする? まだやる?」
「生殺与奪の権を敵に委ねんな! やるに決まってんだろ! ギッタギタにしてやるから今のうち首洗っとけザコ!」
「あはははっ! すごいすごい! 衣彦、やっぱり面白いね。そしたらちょっと休憩してから再開しよ。首痛いでしょ」
「はっ、こんなもん痛くも痒くもねーよ。やるぞ。今すぐだ」
「無理しない方がいいのに」
「その余裕が──むかつくんだよ!」
なんとかして一矢報いてやる。
そのがむしゃらな一心で立ち向かっていったが、結果は惨憺(さんたん)たるものだった。
バカの一つ覚えに奥襟を取りにいけば腕をもがれるように巻き込まれ投げられる。
力任せに押し倒して足をかけようとすれば背負われ、かつがれ、足を取られる。
組み付いて隙をうかがおうとしようものなら、尋常じゃない腕力で崩されて豪快に投げられる。
そんな調子で、十回以上は投げられただろうか。
「はぁ……! はぁ……っ!」
酸素が足りない。心臓がバクバクする。
空手の組手の三分間に匹敵する……下手をすればそれ以上に体力を消耗していた。
休みなく動き回っているせいもあるが、汗で全身が不快なほど湿っている。
にも関わらず、潤花は──息一つ乱れていない。
まったくもって気に入らない女だ。
「…………」
その瞳には、哀れんでいるかのように、憐憫の情が映っていた。
高いところから見下しやがって……!
俺は潤花を睨み返す。
凡人が必死こいてもがく姿がそんなに気の毒か。
お前に立ちはだかった何人もの人間を、何度もそういう目で見てきたんだろう。
そうやって、他人と線を引いて生きて。
お前は何がしたかったんだ。
「休憩! 私、ちょっと疲れちゃった」
「んだよ……これからだってときに……」
「膝笑いながらよく言うよ」
敵に塩を送られたのは屈辱だったが、正直この休憩は助かった。
これで少しの間、作戦を練れる。
どうする……どうやって勝つ。
俺は膝に手をつきながら考えた。
このまま、まともにやったって勝てる気がしない。
半端な奇襲が通用する相手じゃない。何かぶっとんだ奇襲で、潤花の意表を突くしかない。
考えろ。どうする。
こんなとき……姉ちゃんやキャプテンなら、ここから逆転できる方法を戦いながら思いつけるだろう。
龍兄やみずほ姉ちゃんなら、うまく潤花を丸め込める話ができるだろう。
どうする。みんななら……
目を閉じて意識を集中したその時──ポケットの違和感に気付いた。
「……!」
思わず笑みがこぼれそうになった。
どうやら、俺に勝利の女神を導いてくれたのは、意外な人物だった。
直、悪かったな……お前の言ってたこと、本当だった。
いつか直が言っていた言葉が脳裏を横切る。
「衣彦はさ」
ふいに、潤花がぽつりと呟いた。
「何でそんなにがんばるの?」
「……何?」
「だって、最初に投げられたときからわかってたでしょ? 私に勝ち目はないってさ。衣彦も空手やってたんだから、相手との実力差なんて普通の人よりもよっぽど理解してるはずじゃん」
俺は顔を上げ、くの字に曲げていた腰を伸ばしてまっすぐに潤花と向き合った。
「なのに、何でそんなにがんばるのかなって。私にはわかんないな。何回やっても、結果は同じなのに」
ため息混じりに深呼吸をした。
胸の奥のわだかまりが少しずつほぐれていく。
霧が晴れるように煩雑した思考がクリアになる。
ようやく、呼吸が整った。
「……勝ち続けなきゃいけないのは怖いだろ」
「ん?」
「負けたら、今まで積み上げてきたものが一瞬で崩れる。自信も、プライドも、評価してくれた人の信頼も、全部。だから、『強い人ほど臆病だ』って、誰よりも強い人たちがそう言ってた」
「何が言いたいの?」
「そのしがらみから解放してやるって言ってるんだよ。俺が勝負してるのは……ウル、お前に勝つためだ」
「ぷっ……はははは! その有様でよく言うね!」
「人に偉そうなこと言ってるけどな……お前の方こそ、自分のことをわかってないんじゃないか?」
「えぇ? 何が?」
「お前は自分が思ってるほど特別な人間じゃないってことだよ」
「……どういう意味」
潤花の表情からすっと笑顔が消えた。
一瞬で部屋中の空気が張り詰めた気がした。
無言の潤花の表情にはいつもの飄々とした笑顔はなく、そこには人形のように無機質で、ゾッとするほど無機質な美しさだけが残っていた。
「ここ最近、ずっと違和感があったんだ。『普通の高校生』がどんなものか知りたがってたお前が、どうしてそれと真逆の行動ばっかりしてるのかって」
「…………」
「クラスに友達がいるくせに、放課後や休み時間に一人で行動したり、わざわざ入る気のない部活の体験入部を繰り返して、自分の力を周囲に誇示するようなマネしたり……やってることがちぐはぐで、矛盾してる」
「別に、体験入部なんてただの興味本位だし、一人でいたのだってただ勧誘から逃げてただけで深い意味なんてないよ。それに私、『普通になりたい』なんて一言も──」
「だったらいちいち『自分だけ仲間外れ』みたいな顔して突っ立ってんじゃねーよ! こっちはずっとその顔チラついて迷惑してんだよ‼」
「……っ⁉」
「いい加減ごまかすのはやめろ! お前は気まぐれでそんなことをしてるんじゃない! わざと孤立しようとしてるんだ! 道場破りじみた体験入部も、放課後や休み時間に一人でうろついているのも全部、周りと違う自分の姿を見せつけて、近付いてくる人をみんな遠ざけようとしてたんだろ⁉ 自分が『普通じゃない』ことを自覚させられるのが怖い、他人とは境界線を張ろうとする、人に関わらないように一人にでいるくせに、いつも誰かを探してる……そんなやつが『人とは違う』だなんて、笑わせんな! お前の正体はみんなと同じ、ただの臆病者だ‼」
「……違う」
潤花の目の色が変わった。
そこに映るのは今まで決して見せることのなかった、煮えたぎるような怒りと殺意。
圧倒的強者が見せる獰猛な威嚇だった。
とうとう、火が付いた。
ビビるな、俺。
立ち向かえ。
天才なんかに負けるな。
「何が違う⁉ 『人の気持ちがわからない』なんて悩んでたやつが、そんな適当な理由で一人になろうとするわけないだろ⁉ それとも、初めて会った日に言ってたお前の『楽しみ』っていうのは、そんなことなのか⁉ 本当はみんなと仲良くなりたいくせに、ずっと楽しみにしてたその場所を自分自身の手で壊すのが、お前の望んでた『楽しみ』なのか⁉ 答えろよ! ウル‼」
「違うって言ってるでしょ‼」
怒号で部屋中の空気がビリビリ震えた気がした。
射貫かれそうなほど鋭い眼光が俺を突き刺す。
震えそうな恐怖を決して表に出さないよう潤花をまっすぐ見つめ、拳を握り締める。
「さっきからなんなの⁉ 言ってること全部的外れ! 見当違い! 大体、私がどうだろうと衣彦には関係ないでしょ⁉ 知ったような口利かないでよ‼」
来た。
ついに潤花の図星を突いた。
今までの余裕がなくなり、初めて潤花が怒りを露(あらわ)にした。
「わかんねぇ女だな。最初から『勝負だ』って言ってるだろ。力比べじゃない。お前が音を上げるまで続く、我慢比べだ。お前が負けを認めるまで、絶対に無関係なんて言わせないぞ」
かつて、秋子おばさんが言っていた。
「学年総代だかスーパー新入生だかなんだか知らないけどな……」
『男なら意地を張れ』
「お前なんかしょせん、ただのウルだ。俺の敵じゃない」
『張り続けた意地が──男の器だ』
「弱いくせに! 強いふりなんかしないでよ‼」
俺が笑うと同時に、潤花は激高した。
潤花は床を踏み込み、怒涛の勢いで飛び出してくる。
やはり速い──が、俺だって何も考えずに挑発していたわけじゃない。
俺は怒涛の勢いで伸びてきた潤花の左手をカウンターの要領で叩き落とした。
空手の癖で拳を使って打ち落としてしまったが、そんなことを気にしている余裕はない。
俺は打ち落とした手をそのまま突き出し、潤花の奥襟を掴む。さらに、もう一度掴みかかろうとしてくる潤花の左手を右の外肘で弾き、左手で潤花の胸倉を掴みながら胸元を突いて距離を稼いだ。
──このまま前の足を牽制して、逆足で内股をすくってやる。
相変わらず潤花の体幹は恐ろしく強いが、全力で突き動かせば多少なりとも体勢は崩れる。
一度、素早く潤花の足を払いに行くが、今度は逆に腕を突き出されてあっさりと間合いを取られる。力が強い。それでも負けじともう一度同じ軸足を払いにいくが、今度は足を引かれて不発に終わった。だが、これは次の技をかけるための布石だ。
本命の勝負時。同じ足を払うように見せかけ、奥襟を掴んだ手を思いっきり上に持ち上げて潤花の上体を起こすと、狙い通りわずかに潤花の踵が浮いた。
今だ!
潤花の足元に逆足を差し込み、勢いよく真上へと刈り上げようとする──が、腰を回した瞬間、とんでもない力でその動きが阻まれた。
「へっ……⁉」
一瞬、腰を掴まれて動きが止まった。かと思いきや、俺の身体は緩慢な動きで徐々に上に持ち上げられていった。
おい。
ウソだろ。
潤花は、六十キロは超える俺の身体を、腰を掴んで軽々と持ち上げていた。
「調子に──」
信じられない。
今まさに、爪先が地面から離れようとしている。
やばい、これ、このままだと、投げられ──
「乗るなぁぁぁぁ‼」
ドタァン!
激しい音を立てて、室内が振動した。
ビリビリと耳が痛み、衝撃で一瞬頭の中が真っ白になった。
衝撃で身体が痺れている。投げられ過ぎて脳のダメージが心配だったが、今のところ意識は保っていた。
何だ今の……ブレーンバスターか?
勝負の真っ最中だというのに、相手の力が規格外過ぎて笑ってしまった。
この女──すげぇな。
そうやって、呑気に感心していたのが災いした。
投げられて呆気に取られている隙に、潤花は俺の右腕を掴んだまま倒れ込んだ。
まずい! こいつ、極(き)める気だ!
技に入る寸前、咄嗟に肘を曲げて右手首を掴んだおかげでなんとか最悪の事態は免れた。
だが、最悪ではないだけで、状況は限りなく最悪に近い。
悪夢が再び蘇る。
地獄の横三角締めが俺を襲った。
「衣彦に何がわかるの⁉ 誰も、私の気持ちなんてわかんないよ! 私の普通は普通じゃないんだから! 知らずに誰かを傷付けて、誰の気持ちにも寄り添えない! ちやほやしてくれるのは最初だけで、どうせ……! 最後は……‼」
掴まれた右腕が内側流れてしまったら完璧に三角締めが極(き)まってしまう。
俺は右腕を抑えた左手に力を込めて抵抗するが、その手を引き剥がそうとする潤花もまた凄まじい握力だった。引退したとはいえ空手の経験者だった俺がいくら本気を出しても、潤花の力に押されている。左手の指が少しずつ剥がされ、腕の隙間に潤花の足が入り込む。
この足を伸ばされたらおしまいだ。
それでも、構うものか。
「分からず屋はどっちだバカ! 本当は気付いてるんだろ⁉ この学校で、あの下宿で、自分の周りにそんなやつなんかいないって! みんなに嫌われるのが怖いだけなんだって! 認めるまで何回だって言ってやる! へたれ! 腰抜け! 臆病者! 『友達になりたい』も言えない弱虫が、俺に勝った気でいるんじゃねー‼」
「うるさい! うるさいうるさい──うるさい‼」
啖呵を切ったと同時に潤花の足が伸びきり、左手が右腕から離れる。
極まった。
首の周りを、完璧に締められた。
「っ~~~~~~~~‼」
万力のような力で締めあげられ、声にならない悲鳴を上げた。
さっき絞められたときとは段違いの力だ。
粉々に砕けるんじゃないかと思うほど歯を食いしばって堪える。全身の血管が破裂して血が噴き出すんじゃないかと思うくらい苦しい。
このままだと、今度こそ十秒と意識がもたない。
──あれを、やるしかない。
それは、バカ力の幼馴染みにプロレス技をかけられたときに発見した切り札。
できれば女子を相手に使いたい技ではなかったが、こうなったら背に腹は代えられない。
一か八か。
頼む、効いてくれ。
俺は潤花の足の隙間に左手を滑り込ませ、親指に渾身の力を込める。そして潤花の足の付け根、鼠径部を全力で押した。すると、
「ひゃあっ⁉」
潤花の身体がビクンと跳ね、拘束する力が緩んだ。
その一瞬の隙をついて潤花の腰を思い切り押し上げて立ち上がり、三角締めからの脱出に成功した。
思いのほか、効果は抜群だったようだ。
「意外と可愛い声出すんだな!」
「っ⁉ ほんっとむかつく……絶対、ぶっ殺す!」
かぁっと音が聞こえそうなほど、潤花の顔が赤くなった。
珍しいリアクションが思いのほか可愛かったので思わず口元が緩む。
さっきまでそんな観察をする暇もないほど余裕がなかったが、今では精神的優位が逆転しつつあった。
格下に見ていた相手に手こずり、散々煽られたことに腹が立ってしょうがないのだろう。
挑発に乗って感情的になったことで潤花の視野は確実に狭くなっている。
これでいい。おかげで、ますます罠が仕掛けやすくなった。
「げほっ! げほっ! あー……」
俺は口元を手で覆って咳払いした。
唯一の勝ち筋は見えてきたものの、今の脱出で残った体力はほとんど消耗した。
次の勝機で決着が着くが、これを逃せば二度とチャンスはない。
「もういい。次でラストにするから。これで負けたら衣彦、二度と私のことをとやかく言わないで」
潤花は立ち上がり、ギロリと俺を睨んだ。
俺は返事の代わりに不敵に笑う。
これでやっと、勝負になった。
「っし──!」
決戦の火蓋が切って落とされた。
間合いに入った俺は踏み込んで釣り手を掴みにいくが、それを遥かに上回るスピードで潤花が先に俺の奥襟を捕らえた。ここにきて最速の動きに圧倒されながら、俺も対抗して潤花の奥襟を掴みにこうとするが、奥襟を掴まれ上体を激しく引き込まれたせいで頭が下がってしまい、それもままならない。引き込まれる力に対抗して踏ん張るとブチブチブチッ、と耳元で何かが裂ける音がした。
左手! 邪魔くせぇ!
俺は奥襟を掴む潤花の左腕の袖を右手で思いっきり手繰り寄せ、その左腕を俺の左肘でがっしり押さえつけて密着した。
「ちっ!」
忌々し気に舌を打った潤花は距離を保とうと一歩後ろに下がるが、俺はすかさずそれを追う。今距離を取られたら何をされるかわからない。なんとかこの邪魔な左腕を切って、こっちの有利な体勢に持っていかなければ──と、逡巡している間に潤花は素早く腰を切って俺の右腕を振り払おうとする。指がちぎれるように痛むが、ギリギリのところで振り払われずに済んだ。
しかし安堵したのも束の間、今度は潤花が俺の右袖を掴み、強引に上体へと吊り上げた。
「ふっ──ぎ……!」
上半身が伸びきってしまうと踵が浮いて、たちまち足元を刈られてしまう。
俺は腰を落として踏ん張るが、潤花の腕力もまた凄まじいものだった。
全力の抵抗もむなしく、徐々に上体が起きていく。
まずい。このままじゃやられる。
「ウル……!」
名前を呼んだのは、まったくの無意識だった。
自分でも、何で口に出たのかわからない。
ただ、それを言った瞬間、何故か潤花の力がふっと抜けた。
引き上げられる力が急に失われてバランスが崩れた俺は、前のめりになって転びかける。そして、慌ててよろめいた瞬間に足が偶然、潤花の股の下に入り込んだ。
結果的に、それは奇跡だった。
「っ⁉」
がくん、と潤花の体勢が前のめりに崩れた。
俺が潤花の左袖と奥襟を掴んだまま倒れ込んだからだ。
潤花はぶら下がるような体勢になった俺に引き込まれないよう上体を起こそうとするが、俺はこのチャンスを逃すまいと、潤花の上体を押さえつけながらよじ登るようにバランスを立て直し、前傾の姿勢になる。
やっと体勢が整った。
今しかない。
俺は意を決し──
「ぷっ!」
潤花の足元に向け、口に含んでいたものを吐き出した。
「っ⁉」
ぽとん、と落ちたその黒い塊は、潤花の爪先に当たって力なく横たわる。
それは──まるで本物のように精巧に作られた、ゴキブリのオモチャだった。
「い──」
今まで強靭なバランスを保っていた潤花の体幹が、初めてぐらりと後ろに崩れた。
ずっと待っていた──この瞬間(とき)を。
「いやぁーーーーーーっ‼」
潤花が完全に後ろにのけぞった。
俺はすかさず潤花の軸足に足を絡ませ、ほとんど抱き着くような体勢で潤花に全体重を預け、床を蹴った。
「お──」
倒れろ。
倒れろ!
倒れろ‼
「おおおおおおおお‼」
まるで、コマ送りの中にいるように、ゆっくりと視界が傾き、そして、
ドタンッ!
激しい振動とともに、俺たちは倒れこんだ。
「……!」
室内に静けさが戻った。
ドクドクと心臓が脈打つ音だけがすぐ近くで聞こえた。
熱湯が巡っているかのように、身体が熱い。
俺の下敷きになって倒れた潤花は、驚愕の表情で固まっていた。
潤花は、大きな目を何度も瞬きさせて放心状態だった。
俺は覆いかぶさっていた身体をどかして潤花と目を合わせる。
「……一本、でいいな?」
「…………」
何が起きたのかわかっていないのだろうか。それとも、現実を直視できず我が目を疑っている最中なのか。呆然とした反応が余りにも長く続いていたので心配しかけたとき、ようやく潤花の表情が変化した。
「……ふふっ」
「?」
潤花の肩が震えた。
「ふっ……はは……ふふふ、あーっはっはっはっは! 口からゴキブリ……! 口からゴキブリって‼」
「バッ……本物じゃねーよ! オモチャだ! オモチャ!」
「あっははははは! ゴキ……ゴキブリのオモチャ! あはははは! ゴキブリのオモ……ふっ……ははは! やめてよ……! あっはは……!」
潤花は腹を抱えてその場で大笑いした。
それに釣られて、俺も笑ってしまった。
全身が、汗でびっしょり濡れている。
全力で掴み合ったせいでジャージの襟や袖はだらしなく伸びきって、着ていたTシャツも掴まれたときに破けていた。
お互い、新品の指定ジャージがボロボロだった。
バカバカしい。
埃まみれで、汗臭くて、笑えてくる。
まるでガキの喧嘩だ。
「……私の負け」
ひとしきり笑ったあと、潤花は寝転がったまま視線を俺の方に向けた。
殺意も敵意もなくなって、憑き物が取れたような表情をしていた。
青空のように澄んだ瞳で俺を見る無邪気な少女。
そこにいたのは、いつもの潤花だった。
「……いいのか?」
「仕方ないからそういうことにしといてあげる」
「なんか勝ちを譲られたみたいで腹立つな」
「んふふ、実際そうじゃん」
「やっぱ納得いかねー」
「じゃあもう一回する?」
「──俺の勝ちだ」
「今キメ顔しないでよ!」
俺が今日で一番かっこつけた顔を見せると、潤花は再び腹を抱えて笑った。
俺も自分のその滑稽さに堪えきれなって、そのまま潤花と横並びに寝転がって笑い続けた。
我ながら、奇妙な光景だと思う。
ついさっき鬼の形相で俺を絞め落とそうとしていた女と、今では肩を並べて笑い合っているのだ。
ボロボロになりながら勝負を制したことに、達成感や満足感なんて何もない。
あったのはただの、安堵感だった。
「ねぇ衣彦」
しばらくしてから、潤花がぽつりと呟いた。
「もし私がある日突然、今まで覚えてきたこと全部忘れちゃって、身体が動かなくなったりしたら、その先どう生きればいいと思う?」
「いきなり何言い出すかと思ったら」
「ずっと思ってたの。自分の力だけを頼りに生きてきたから、そうなったときのこと考えたら、私には何も残らないって」
「何も残らないなんて冗談じゃないぞ」
大きく嘆息する。
「お前な、それで今までしてきたことがチャラになると思うなよ? 万が一そうなったら、お前にされたこと全部、仕返しに行ってやる」
「……そのときの私が、そう簡単に衣彦を相手にすると思う?」
「人の気持ちなんてわかるかよ」
「……!」
「その代わり、俺のしたいことははっきりしてる。それだけだ」
俺は潤花を真っ直ぐ見た。
潤花は一瞬目を見開いたあと、ふっと頬を緩めた。
ドキッとするような笑顔だった。
同い年とは思えないほど母性に溢れ、慈愛に満ちた眼差し。
これで余計なことさえ言わなければ本当に──
「ゴキブリ口に入れた人にドヤ顔されてもなぁ」
「オモチャだっつってんだろ! しばくぞ!」
なけなしの体力を振り絞って叫ぶと、潤花は再び爆笑して俺の肩を叩いた。
まぁ、ここで余計なことを言うのが美珠潤花なんだよな……と妙に納得するものがあった。
「あーもう! 衣彦のこと笑ってたらこんなやつに負けたのかって悔しくなってきた! ねぇ! もう一回勝負しよ! 勝負!」
「どういう感情経路だよ! 絶対しないからな! 今日の勝負は終わり! はい! 俺の勝ち! 以上!」
「えー! 嫌だ! もう一回! ね! 一回だけでいいから!」
「言いながら前三角極めようとしてんじゃねーよ! 痛っ! バッカおま……痛ってぇ! もう! やめてっ!」
「さっきのリベンジ! 十秒! 十秒だけ堪えられたら私の勝ちで引き分けね!」
「だ、誰か助けてーーー!」
──刹那、
「潤花ぁぁぁあぁぁ‼」
バンッ! と激しい衝撃音とともに、体育準備室の扉が開いた。
現れたのは、ドアから差し込む後光を背負って立ちすくむ、ギャルの姿だった。
「あ、愛羅」
「へ?」
アホみたいな声が漏れた。
「潤花! よかっ……え⁉ ちょ、何⁉」
確かに助けてとは叫んだ。
だからって、俺が前三角締めを極められている状態で……素人から見て、俺が潤花に馬乗りになって襲い掛かっているようにしか見えないこのタイミングで駆けつけてくるなんて、あまりにも理不尽じゃないか。
「……落ち着いて聞いてくれ。違うんだ」
「え? 何が?」
「ウルは黙ってろ……!」
「あ、あんた……何して……」
しまった。状況をさっぱりわかっていない潤花に対して語気が荒くなったせいで、誤解がさらに助長した。
恐る恐る愛羅の様子をうかがうと、愛羅は口をパクパクさせながら肩を震わせている。
あ、これは、ボルテージが上がっ……
「潤花に触んないでよぉぉぉぉぉぉ‼」
ギャルは激怒した。
必ず、この邪知暴虐の男を除かねばならぬと決意したように、猛ダッシュで突っ込んできた。
潤花に身体を押さえつけられているこの状態で、それをかわす術(すべ)はない。
ドフッ、と鈍い音を立てて、愛羅の飛び蹴りが俺の脇腹に突き刺さった。
「痛ってぇーーーー!」
「ちょ……愛羅⁉ 何してんの⁉」
「だってこいつ、潤花のこと……!」
「衣彦! 潤花! 大丈夫⁉」
「衣彦くん……ど、どうしたの……⁉」
俺が悶絶していると、体育準備室にばたばたと人が駆け込んできた。
聞き慣れた声はみずほ姉ちゃんのものだった。隣には小早川もいて、その後ろからは潤花の取り巻きのほか、体育教師の古山の姿まであった。
「古賀ー! お前、何して……本当に何してるんだ?」
あんたに余計な雑務押し付けられたせいで殺されかけたんだよ……!
駆けつけてきたみずほ姉ちゃんと小早川に介抱されながら、俺は精一杯の憎しみを込めて古山を睨んだ。
「愛羅、私なら全然大丈夫だから。大げさ過ぎだよ」
「心配したんだよーーーー‼ 潤花のバカーーーー‼」
「愛羅……」
「潤花さん! お怪我はありませんでしたか⁉ 私、潤花さんに何かあったんじゃないかと思って、心配で……!」
「もう、二人とも、潤花の言う通り心配し過ぎ。聞いてよ潤花。愛羅と可憐ってばね、やめなって言ってるのに三年生のいる階ですっごい大声で潤花のこと呼んでたんだよ?」
「そういうマキさんだって! 潤花さんに何かあったらどうするんだって先生に怒ってたじゃないですか!」
「わ、私はそんな強く言ってないし! 余計なこと言わないでよ!」
「可憐……マキ……」
「でも……潤花ちゃんも衣彦くんも、無事で良かった」
「ね! そーだよね! ほら潤花! もう大丈夫だからね⁉ とにかくみんな本当、無事でよかった!」
「ですよね⁉ ほら、愛羅も可憐も! 潤花ハグしよ! ハグ! もう怖くないよ!」
「潤花~~~~~~!」
「潤花さーーーーん!」
「え、ちょ、みんな……私今汗臭いから……!」
「おい、お前ら……」
蚊帳の外で呆然と立ち尽くす古山の横で、女子六人から一斉に抱き締められた潤花は、まるで幼稚園児達に囲まれる子犬のようにもみくちゃにされていた。
恥ずかしそうに……けれど、嬉しそうに。嫌がる素振りを見せながらも、口元には確かに控えめな笑みがあった。
そんなにぎやかな光景を、俺は体育準備室の壁にもたれかかりながら、ぼんやりと見ていた。
「……ほら見ろ」
これで、少しはわかっただろ。
人の気持ちなんて、わからなくて当然。
それなのに、人の気持ちをわかろうとして、それで悩んでるお前を、誰が嫌うっていうんだ。
その証拠が、今そこにあるだろう。
「ごめん……」
みんな、わかってるんだ.
ウルを見てたら、誰だってわかる。
「ごめんね」
たとえどんなに強くたって。
どんなにひとりになろうとしたって。
「みんな、ごめんね……」
ひとりぼっちは、寂しいだろ。
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