第3話 ひとりぼっちのカンタータ ⑫ 完

 体育準備室拉致監禁・婦女暴行疑惑事件から三日が経った。

 その日、俺はあらぬ疑いをかけられたものの、潤花の弁明によってなんとか周囲への誤解が解消された。潤花の人望は職員室で絶大らしく、ほとんど鶴の一声で「この子がそう言うなら」とすんなり説得を受け入れてもらった。なお、誤解で飛び蹴りをされたギャルの愛羅にはお詫びのタピオカをご馳走される約束を取り付けられてしまった。最初は面倒なのでいらないと断ったが、筋を通したいと強引に押し切られる形となり、不必要なタピ友の輪を広げてしまったことを無性に後悔した。        

 まぁ、オタクに優しいギャルに悪いやつはいないんだけども。

 そしてその後の、数日ぶりに下宿生全員が揃っての帰り道。

 みずほ姉ちゃんと小早川の二人の間でご機嫌な様子の潤花を後方で眺めながら、優希先輩に今回の経緯をかいつまんで報告すると、こんな話が返ってきた。

 

「潤花がああなったのは、きっと私のせい」


 先輩は申し訳なさそうな顔でそう言った。


「私、昔からこんな感じで、変わってるでしょ? それで、子供の頃から学校でからかわれたり、親しいと思ってた友達から陰口言われたりすることが多かったの。そのたびに、潤花が意地悪する人たちから私を守ってくれてたから……きっと潤花の中で、誰かを信じるのが怖くなったんだと思う」


「私が弱いせいで、潤花を独りにさせちゃった」


 それは違う。

 そう否定しようとしたところで潤花が俺たちに話しかけてきたので結果的にその話はうやむやになってしまった。それ以降、先輩の過去についての話はいまだにできていない。

 先輩は自分を責めていたが、その生き方を選んだのは潤花自身だ。誰かから強要されたわけじゃない。

 ただ、潤花は今になって正しいと思って貫いてきた生き方が、高校で違う価値観に触れて、戸惑っていたのだろう。

 このままでいいのか。自分は間違ったことをしているんじゃないか。

 潤花は、そんな疑問に陥って迷子になってしまったんだと思う。

 それに対して、俺はどうすれば潤花が納得する答えに辿り着くのか。

 そのことを、ずっと考えていた。

 人の気持ちなんてわからない。

 だからこそ考えるんだ。

 それを伝えあぐねていたまま──とうとうこの日がやってきた。


「ご注文は?」


「アイスコーヒーで。衣彦は?」


「メロンソーダ」


「メロンソーダは……」


「あれ? あ、ないですね」


 席にあったドリンクチケットのメニュー表を確認すると、確かにメロンソーダの表記はなかった。


「ジンジャエールならあります」


「あ、じゃあそれで……」


「かしこまりました」


「ふっ……」


「……何がおかしい」


「大丈夫、笑ってない。メロンソーダ、私も頼みたかったなー……ふふっ」


「絶対バカにしてるだろ! どうせ俺がトイレでも行ってる隙に『どんな店にもメロンソーダがあるのが当然みたいな顔してるメロンソーダ信仰、怖いわ』とか呟いてSNSでディスる気だろ! そうに決まってる!」


「あはははっ! 疑心暗鬼過ぎ! そうじゃなくってさ」


 からかうように潤花はにやりと目を細める。


「緊張してるの? こういうお店初めて?」


「そのセリフ、薄暗い照明の個室でもう一度言ってくれ」


「どゆこと?」


「いや、なんでもない」


 ここは、商店街の一角にあるライブバー『MUSE』の店内。

 レトロな装飾の店内は、ボックス席が三つとカウンター席。それに二人がけの席が三つと、店内の一番奥にドラムやキーボードが配置されたステージがあった。壁には世界的有名バンドの色褪せたポスターやポストカードが貼られており、店の隅にあるごついスピーカーからはゆったりした曲調のジャズが流れ、店主のこだわりがよく表れていた。どの席も満席で、俺たちが着いた頃にはほぼ席が埋まっていた状態だったが、常連らしき人に席を譲られて座ることができた。


「良い雰囲気のお店だよね、ここ。何を命令されるのかと思ったけど、まさかこんなところでデートのお誘いとは思わなかった」


 潤花をこの店に連れて来た目的は、件の柔道ごっこ勝負で俺が勝ったら何でも言うことを聞くという約束を果たしてもらうためだった。

 まだこの店を選んだ理由については明かしていないが、それを聴いたら潤花が一体どんな顔をするのか気になるところだ。


「念のため言っておくが、断じてデートじゃない」


「えー、違うのー? ざんねーん」


「少しも残念そうじゃなくて逆にありがたい」


「わかってないなー。これが照れ隠しだったら恋愛検定不合格だよ?」


「俺に言い寄ってくる女なんて勧誘かハニートラップか、周りにいる男目当てが関の山だ。違ったら詫びに切腹してやる」


「嫌だよ。私、介錯なんてしたくない」


「その前に止めろ」


「息の根を?」


「切腹の方!」


 俺がツッコミを入れると潤花はあっはっはと上機嫌に笑った。

 小洒落た店内でなんてくだらない会話をしているんだ。

 店内にいる四、五十代の客層と比べて明らかに平均年齢が低い俺たちだったが、潤花だけはこの空間に違和感なく溶け込んでいた。

 黒いブラウスにベージュのプリーツスカート、それにさりげなく覗くイヤリングを身に着けた潤花は、普段の動きやすそうな恰好と比べると、いつも以上に大人っぽい。もともと身なりから育ちの良さを窺えたが、こうして店員から両手でグラスを受け取る仕種ひとつを見てもやはりその所作には品があり、それを見ると今目の前にいるこの美人が自分とひとつ屋根の下で暮らしている現実が不思議に思えてしょうがなかった。

 しかし、気になる違和感は他にもあった。

 はっきりとわからないが、見た目だけではない何かがいつもと違う気がする。

 俺は潤花から手渡されたジンジャエールを飲みながら、その違和感の正体について思案を巡らせた。


「ん?」


 同じタイミングでアイスコーヒーを飲んでいた潤花が不思議そうな表情をした。無意識に潤花を凝視していたようだった。内心気恥ずかしくなって、動揺を悟られないよう関係のない話題を出すことにした。


「少しはわかるようになったのか? 人の気持ち」


「あー、その話?」


 潤花はストローから口を離して、潤花は静かにグラスを置いた。


「私、悟りを開いた」


「どんな悟りだ?」


「考えたところでわからないものはわからないんだから、その時間一人で筋トレしてたマシってこと」


「まさかの筋肉信仰」


「人間は裏切ることがあっても、筋肉は裏切らないからね」


「…………」


「でも……」


 ストローでコーヒーをかき混ぜながら、潤花は自嘲気味に微笑んだ。


「ちょっとだけ、疲れてたかも。ずっと、誰かの本音を疑って生きてたら」


「今は……そうでもないってことか?」


「下宿のみんなと、クラスの友達くらいはね」


「……そうか」


 俺は表情を変えないようにジンジャエールを飲みこんだ。

 その一言で、死にそうな思いをしながら潤花をここに連れてきた苦労がほんの少し報われた気になった。

 安堵のため息を吐いて、グラスを置く。

 ライブが始まる前に、仕返しをしなければならない。


「友達と言えばさ」


「ん?」


「今からやるミニライブ、俺の友達が出るんだ」


「へー。どんな人?」


 潤花は上品な仕種でグラスを傾け、ストローを口にした。


「久瀬さん。三組の」


「ふーん…………っ⁉ んっ! げほっ! げほっ!」


「大丈夫か?」


 一瞬の間を置いて、潤花が咳き込んだ。


「ちょっと、そんなの聞いてない……!」


「言ってないからな」


「ほんっと嫌だ……私、絶対嫌だからね」


「まだ何も言ってないだろ」


「どうせ『友達になれ』とか言うんでしょ⁉」


「そんなこと言わない。別に、何かして欲しいわけじゃない」


「はぁ? じゃあ何のために私をここに連れてきたの⁉」


「俺はただ、久瀬さんのライブを楽しんでくれそうなやつを連れてきたかっただけだ。だから、それ以上の望みなんてない。ライブが終わったあとのことは、さっさと帰ろうが、サインをもらいに行こうが、ウルの好きにすればいい」


 まっすぐ潤花と目を合わせながら、淀みない口調で宣言する。


「俺はライブが終わったら久瀬さんに会いに行く。約束したんだ。ライブの後、連絡先を交換しに行くって」


「っ……」


「ウルはどうする? いや……どうしたい?」


「そういうやり方、ほんっとずるい。そんなこと急に言われたって、わかんないし……」


「まだ時間はある。演奏聞きながらゆっくり考えれば良い」


「……でも、だって、いきなり私がついていったって、変だよ」


「変じゃないし、大丈夫だ。もっと自信持てよ」


「そんなの、衣彦にはわかんないでしょ……」


「わかるさ。お前は『美珠潤花』なんだぞ?」


「……!」


潤花は驚いて口を開いた。

恨めしそうに俺をにらみ、何かを言いかけようとして、口の端をぎゅっと結んだ。

俺はそんな潤花に、もう一度訴える。


「だから大丈夫だ。俺が保証する」


「……言ったね?」


 慎重に確認するように、潤花が上目遣いで俺を見た。

 自信満々に頷くと、潤花はおもむろに手を伸ばしてきて、俺の頬をつねってきた。


「ちょっとでも変な目で見られたら、セロリどんぶり一杯食べてもらうから。覚悟しといてよ?」


「お前こそ、久瀬さんと友達になれたらもう二度とこんなことでうじうじするなよ」


「いちいち偉そうに言うな!」


「痛ってぇ!」


 ぐいっと口角を上に吊り上げられた。

 なんだってこのじゃじゃ馬はすぐ暴力に訴えるんだ。


「何でも勝手に決めつけないでよ。私、別に友達欲しいわけじゃないから」


「てめ──っ」


 頬をつまんだ手を振り払おうと潤花の手首を掴むが、その前に力が緩む。


「そんなの、衣彦がいればいいし」


「っ──」


 不意打ちでそんなことを言われて、毒気が抜かれる。

 卑怯だ。こいつ、狙ってこんなことを言っているのだろうかと勘繰ってしまう。


「お、俺だって別に、お前と友達になったつもりはない」


「ウソ。あのとき衣彦、私のこと友達って言ったじゃん」


「はぁ? 俺がいつそんなこと言ったんだよ」


「廊下で先輩に絡まれたとき」


「えぇ……? 言ったか?」


「言ったよ。憶えてるもん。嬉しかったから」


 潤花の指が俺の頬から離れた。


「いや、あの時は……」


 そのとき、店内の照明がふっと消えた。

店の奥から三人の男性とともに黒いワンピース姿の久瀬さんが現れ、ゆっくりステージに上がる姿が見えた。


「あ……」


──わかった。

周りが暗闇に包まれ、ようやく違和感の正体に気付く。

 

「ウル、お前もしかして」


 割れんばかりの拍手が店内に響き、俺の声がかき消されそうになる。

 さっき感じた違和感の正体。

 それは、華やかで優しく、透き通る泉のような清潔感の香り。


「香水、変えたのか?」


 しぃっ。


「……歌は静かに聞いて」


 唇に人差し指を当てながら、潤花はいたずらっぽく微笑んだ。

 

「…………」 


 それ以上は何も聞けなかった。

 やがて、マイクの電源が入る音とともに、キィィン、とハウリングが響いた。

 拍手の音が大きくなった。

 ここにいる誰もがみんな、ステージを見ている。

 潤花もだ。

 俺だけは、潤花から目を離せなかった。

 薄暗闇の中で、ステージからの光に照らされた潤花の横顔は、キラキラと輝いていた。

 音が遠くなった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る