第3話 ひとりぼっちのカンタータ ⑩

 この部屋には窓がない。

 頼みの綱の文明の利器(スマートフォン)は俺も潤花も教室に置いたまま。

 何度もドアを叩いたり大声で助けを求めたりなどしたが、一向に誰かが近付いてくる気配はなかった。

 他に助けを求めるための手段がない以上、現状は八方塞がりだ。


「……はぁ」


 現状、今すぐ脱出できる術はない。

 とはいえ、みずほ姉ちゃんや小早川なら俺たちの姿が見えないことに気付くだろうし、みんなからの注目の的である潤花ならなおさら周囲が気にすることだろう。

 このまま誰かが俺たちの失踪に気付いてくれるのは時間の問題として、あとはそれをできるだけ早める方法を模索しなければならない。何より、放課後はすぐにでも行きたい場所がある。一刻も早くこの状態から脱却したいわけだが……


「どうした?」


跳び箱にもたれかかりながら、潤花が体育座りしてこっちを見ていた。

 すんと力の抜けた無表情の潤花は、じっと俺のことを見つめたまま、さっきから妙に大人しい。何か変なものでも食べたのか、いつもの覇気が感じられなかった。


「怒ってるかなって」


「怒られたいのか?」


「ううん」


「もともとノブが緩んでたんだろ。ウルじゃなかったら俺がやってた」


「……ごめん」


「別にいいって」


 ……調子狂うな。

 俺は横目で潤花を見つつ、外れたドアノブを無理やり元にはまっていたドアの穴に押し当てて捻った。何かの間違いでうまくハマってくれれば儲けものだが。

 ガチャ──ガチャガチャガチャ。

 やはり、そううまくはいかない。

 何度ドアノブを捻っても、むなしく空回るだけだった。


「……ねぇ」


「ん?」


「壊さない? それ」


「壊すって……これをか?」


「うん。そのドア古いし、二人で本気出せば多分ぶっ壊せるよ」


「……いや、ダメだろ」


「不可抗力じゃない? 学校の管理問題だし」


「だからってそう簡単に壊していいことにはならないだろ。どうせ部活が始まる時間になれば誰かがここに来る。我慢しろよ、いろいろ」


「……じゃあさ、誰か来るまで何かして遊ぼうよ。二人で遊んでれば、誰かが物音に気付いて早く気付いてくれるかもしれないでしょ?」


「何して遊ぶって言うんだよこんなところで」


「なるべく騒がしい遊びがいいんだけど……あ! そうだ! あれやろあれ!」


「あれって何だよ」


「柔道」


「……何て?」


「だから、柔道」


 脳内で壮大な宇宙が広がった。


「何で柔道?」


「ここってそこそこ広くてマットあるし、大きな音立てれば早く気付いてもらえるでしょ? 名案だと思わない?」


「いや、柔道ってお前……」


 俺は部屋の片隅にあった体育マットをおもむろに広げる潤花を見た。

 スレンダーながらもはっきり凹凸が目立つボディラインに、胸元の白いTシャツから覗く艶やかな肌。普通、体育の後であれば多少なりとも汗の臭いがしようものだが、体育準備室のこもった空気に混じって香る潤花のそれは、うっとりしそうなほど官能的な匂いだった。

 ごくりと生唾を飲む。

 無理だ。こいつに『女』を感じたら俺の下宿生活は一巻の終わりだ。死ぬ。


「嫌だよ。何で女子と柔道なんかやらなきゃいけないんだ」


「いいじゃん。私を倒したら何でも言うこと聞いてあげるからさ」


「お前な、どうしていつもそうなんだ?」 


「……いつもって?」


「何でもかんでも力任せで、先のことを考えない。もっと周りにいる人たちのことを見習えよ。優希先輩だって、趣味に関すること以外では意外とまともだろ? そういう分別を見習ってウルも弁(わきま)えろよ」


「──私とは遊んでくれないんだ」


「は?」


「もういい。私といても衣彦つまんないみたいだから」


 潤花は口を尖らせてぷいっとそっぽを向いた。

 こいつ……!

 信じられない。精神年齢イヤイヤ期真っ最中か? はーーー死ぬほどめんどくせぇ……小学校低学年の従妹の方がまだ聞き分け良いぞこんなの。良い年こいて不機嫌で人をコントロールしようとしやがって……!


「ガキみたいな拗ね方すんなよ。誰もそんなこと言ってねーだろ」


「だってそうじゃん。みんなといるときの方が、衣彦楽しそうだもん」


「別にお前だけつまらないとか他のみんなの方が楽しいとか、んなこと一度も思ったことない。俺が嫌だって言ってんのは、なんでわざわざお前と柔道で勝負なんかしなきゃいけないんだって──」


「勝負じゃない」


「はぁ?」


「勝負じゃない。ただの遊び」


 念を押すように繰り返し、潤花は俺を冷たい目で見下した。


「どうせ、衣彦と私じゃ勝負にならないし」


「っ!」


「衣彦は本気でかかってきていいよ。その代わり、私のこと女だって思わないでね。下着掴まれても全然気にしないし、ケガしないようにちゃんと手加減してあげるから」


「てめぇ……!」


 青筋がぴくりと動いた。

 ふつふつと怒りが込み上がり、全身が熱くなった。


「何? 怒ったの?」


 潤花の声色が変わった。

 いつかの、階段の踊り場で聞いた、あのときの口調だった。

 重く、冷たく、挑発的な口調で、潤花は言う。


「──逃げようとしたくせに」


「誰が──逃げるかコラァ‼」


 俺は床を蹴って飛び出した。

 いい加減、頭にきた。

 格闘技経験者だかなんだか知らんが、俺だって空手の経験者だ。体格や筋力だって俺の方に分がある。一度思いっきりぶん投げて、生意気な態度を取ったことを後悔させてやる。

 俺の突進に対して、潤花は物怖じせずに真向から踏み込んできた。

 上等だ。このまま腕力にものを言わせてやる。

 間合いに入り、お互いの手が直線上に交わった。

 勢いの分、俺の方がわずかに早く潤花の奥襟を掴んだ。一瞬遅れて潤花の左手が俺の襟を掴むが、もう遅い。このまま引き込んで思いっきり体勢を崩してやる。そう思った瞬間、

 ──え。

 岩?

 一瞬、時が止まった。

 充分な力を込めたはずなのに、潤花の上半身は微動だにしない。


「受け身‼」


「っ⁉」


 言うが早いが、奥襟を掴んでいた左腕が弾き飛ばされ、胸元に圧迫感が走る。

 そして、右腕が尋常じゃない力で巻き込まれるや否や──肺が浮き上がった感覚が襲って来た。

 浮遊感。そして、

 バンッ! ドッ!

 視界が急激に回転したと同時に、背中が叩きつけられる鈍い音がした。


「なっ……」


 視界にキラキラと光る極小の粒子が舞っていた。

 埃っぽい臭い。

 鼻孔をくすぐる甘い香り。

 じんじんと熱を帯びた背中の感覚で、俺はようやく自分が潤花に背負い投げされたことを自覚した。


「受け身、ちゃんと取れて良かった。確認するの忘れてた」


 俺は呆然として、口を半開きにしたまま潤花を見た。

 今、いつ投げられた……?

 立ち上がって手足をはたく。

 ……落ち着け。冷静になれ。

 ただ、投げられただけだ。

 どくん、どくん、と鼓動が速まる。

 俺は呼吸を整えながら、今になってウォーミングアップを始めた。


「柔道、本当にやったことないのか?」


「うん。一緒に格闘技やってたニュージーの友達と、遊びでやっただけ」


「……へぇ」


「私、すごい?」


「別に」


「ふーん」


 俺は何か言いたげな潤花を無視して周囲にあった鉄製のバスケットボールのかごやスコアボードを壁際に寄せた。すると潤花は「おっ」と感心したように口角を上げ、俺にならうように体操マットの近くにある用具を次々と片付け始めた。 


「やるぞ、もう一回」


「何回でもいいよ、来な」


 潤花は不敵な笑みを浮かべて言う。

 その余裕が腹立たしい。

 俺は深呼吸をして気合を入れた。

 さっきは不用意に突っ込み過ぎた。もう一度勝負、今度は慎重に攻めなければ。

 左足を前に出し、半身に構える。

 柔道なんて体育の授業でしかやったことがない。ほとんど空手の構えだ。

 それでも、空手でやってきた間合いの取り方は、多少なりとも通用する……はず。


「行くぞ」


「どうぞ」


 一、二、三歩。

 慎重に踏み出し、近付く。

 潤花は左利きらしく、右足を前に出したサウスポーの構えだ。

ゆっくりとした動きで右手を上下させ、俺との距離を測っているようだ。

 空手のときもそうだったが、左利き相手だと間合いが取りにくい。

 鏡のように相対する右利きの構えと違って、視界の奥から飛んでくる左手のタイミングに動きを合わせにくいのだ。

 ……左袖が遠い。もう一度奥襟を狙ってみるか。

 チラリと潤花の左手に視線を落とした刹那──


「ふっ──!」


 潤花が一気に距離を詰めて来た。

 でたらめな瞬発力だ。仕掛けて来たと思った瞬間には、もう襟を掴まれた。この反応を見るに、さっきはわざと俺に襟を掴ませたのだろう。

 俺は掴まれた手を払おうと回し受けの要領で潤花の手を払おうとするが、まるで万力のような握力で握られた手はびくともしない。

 こいつ、化け物か……⁉

 この細腕に一体どんな力があるんだ。潤花は片腕一本で俺の上体を激しく引き込む。踏ん張って堪えてはいるが、その抵抗もむなしく、徐々に体勢が前のめりに倒れていく。

 こうなったら、やられる前にやってやる。

 俺は苦し紛れに両手で潤花の襟を掴んで思いっきり引っ張り、左足を伸ばす。


「──っらぁ!」


 多分、内股だ。

 小難しい技は知らない。

 腕力のアドバンテージを最大限に利用して、力いっぱい潤花の身体を引き寄せながら、右足を跳ね上げようとする──が、その足は、むなしく空を切っていた。


「んなっ⁉」


 すかされた!

 行き場を失った右足が宙へと投げ出され、上半身が丸め込まれるように回転する。

 一瞬のよろめきの直後、

 バン! ダンッ!

 再び派手な音を立てながら、俺は無様に倒れこんだ。


「っ…………!」


 右腕を掴まれたまま、俺は呆然として潤花と目を合わせる。

 潤花はふっと笑みをこぼして目を細めた。


「二本目」


 ゆらりと、潤花の束ねた髪が揺れた。

 勝負にならない。

 ただの遊び。

 さっきの潤花の言葉を頭の中で反芻する。


「まだやる?」


 まだやる……?

 全身の血が沸騰するのを感じた。

 まだだと?

 ふざけんな。

 まだ始まってもいないだろうが。


「上等だてめぇ……!」


 一生かかってでも、絶対にそこから引きずり降ろしてやる……!

 男女。

 密室。

 肉体言語。

 何も起きないはずがなく──

 かくて窮鼠は、牙を剥いた。


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