第12話 別れ話  王太子視点

 カムライールの所を離れてヘルミーネの所へ向かう。ヘルミーネは若い貴族たちに囲まれて談笑していた。既にしてサロンの主人のような風格がある。この様な場では目立たないようにでしゃばらないように振る舞うカムライールとはまるで違う女性なのだ。


 ヘルミーネは私を見てニッコリと微笑んだ。彼女は今日会ってから今までの間、常に私に対する親愛の情を隠さない。自分の感情をあからさまにしないのが習い性である王族としては珍しい態度だ。


 彼女が私を愛しているというのはある程度本当なのだろう、と私は認める。幼少の頃より仲が良かったのは事実であり、断続的に縁談があり、将来の伴侶としてお互いに意識し、私ですら彼女の事を出来れば好ましく思おうと考えていたのも事実だった。ヘルミーネはもう少し本気で私達の将来の事を考えていたのかも知れない。


 私はヘルミーネを誘い、ホールからすぐ側の談話室に移った。ヘルミーネは粛々と付いてきて私の対面のソファーに腰掛けた。ヘルミーネは微笑みを絶やさず、私もまた微笑みを浮かべていたが、私が切り出したのははっきりした別れの言葉だった。


「やはり、君と結婚する事は出来ない」


 ヘルミーネは表情を動かさなかったが、僅かに膝の上の手が揺らいだ。


「私にはもう生涯の伴侶と定めた女性がいる。私は彼女を妃とする。故に君とは結婚出来ない」


 ヘルミーネの周囲にいる侍女、侍従、護衛騎士などが息を飲むのが分かった。理由は。


「フロルン王国王女たる私ではなく、平民のカムライール様をお選びになるという事ですか?」


 ヘルミーネの言葉が全てを表しているだろう。身分を考えれば二人は比較するのも烏滸がましいくらいの差がある。その二人を秤に掛けて平民のカムライールを選ぶということは、ヘルミーネをというかフロルン王国の権威を平民以下であると言うに等しい。しかし私は即答した。


「そうだ」


 ヘルミーネの侍女たちの周囲に怒気すら浮かぶのが分かった。私の言葉をフロルン王国への侮辱と取ったのだろう。そう思われても仕方が無い。


「君とカムライールを比べてカムライールを選んだのではない。私が愛したのが君ではなくカムライールだっただけだ。それは分かってもらいたい」


「私は別にあなたにカムライール様と別れろとは言いませんよ?王族に愛人がいるのは当たり前のことですもの。王族にとって妃というものがどのような意味を持つのかはあなたもお分かりのはず」


 そう王族にとって妃とは、結婚とは政治的な意味を持つ。他の方法では得られない強固な繋がりを作る為に王族は婚姻を行うと言っても過言ではない。その意味で言って私は結婚しても政治的な意味合いが全く無いカムライールではなく、フロルン王国との同盟強化という政治的に強力な意味を持つヘルミーネと結婚すべきなのだ。そこに愛などなくてもだ。


 愛が欲しければ愛した女性を愛人にすれば良いのだ。そのために公的な愛人という制度はあるのだから。事実上の妻として、日陰の身では無く公的な立場が与えられる。歴代の国王の中には王妃は内宮に閉じ込めて愛人のみを社交界に伴ったという極端な例もあると聞く。


 ヘルミーネを形式上の妻として、カムライールを本当の妻として扱えば良いだけだ。カムライールは社交がそもそもそれほど得意ではないし、屋敷で静かに暮らすのも好きなのだ。表の派手なことはヘルミーネに任せ、私とカムライールは屋敷でこれまで通り静かに暮らせばいい。それが最善だ。


 分かってはいる。しかし、今や私にはそれが出来ない。理由はそれがあまりにもヘルミーネに不誠実だからだ。


 私はカムライールに出会い彼女を愛するようになるまで、女性に対して徹底的に不誠実だった。寄ってくる女性を遠ざける為だけにその女性を抱いて、そして捨てていた。一回関係を成立させた後で明確に捨てる事でその女性を侮辱したのだ。それがその女性を以降遠ざけるのが最も簡単だったからだ。


 しかしながら私はカムライールと出会い、愛する喜びと愛される喜びを知った。本当の愛情を知ることで私は自分が如何に女性達にとんでもない事をしていたかを知ったのである。彼女たちは打算やその他の思惑が混ざっていたにせよ私を愛してくれていた。私が彼女達を抱いた時、彼女達は自分の愛に私が応えてくれたと思って喜んだだろう。私はその彼女達の喜びを踏み躙ったのだ。自分がカムライールに同じ事をされたなら、私はけして立ち直れないだろう。


 私はもうあのような不誠実な事はしない。出来ない。カムライールを誠実に愛するには、他の女性にも不誠実であってはならない。それが分かったからだ。そうでなければ私は自分の事を「誠実な方」と言ってくれたカムライールの前に立てまい。


 私のすべきことはヘルミーネに誠実に応対して、彼女に納得してもらった上でこの縁談を破談にすることだ。その為なら私はなんでもしよう。自分の為でなく、カムライールのために。


「私の妻は生涯、カムライール一人だ」


 私は言って、ヘルミーネに深く頭を下げた。周囲が動揺する気配がした。王族は謝罪をしても頭を下げることなど殆ど無い。まして他国の王族に頭を下げるなど戦争で負けでもしなければあり得ない行為だと言える。


「ヘルミーネ。長年、君を私との縁談で振り回してしまった事を申し訳無く思う。私の出来る限りで謝罪の証は立てよう。だから、どうかこの縁談は無かった事にしてもらいたい」


 もちろんだが。ヘルミーネと縁談を企んだのは私ではないし、本来であればとっくに成立していたはずの婚姻が未だに整っていなかったのはフロルン王国の不実のせいだ。本来私が謝罪すべき事では無い。


 しかし、こうして我が国に乗り込んできて私へ愛を訴えているヘルミーネは私に対する誠意を示していると言える。その誠意に対して誠意を返すには、ヘルミーネの顔を立てる必要があるだろう。私が言下に縁談など知らんと言い、ヘルミーネを追い返せばヘルミーネの面子を潰す事になる。


 ヘルミーネの面子を立て、縁談を円満に破談にし、両国の関係を平穏に保ち。カムライールとの幸せを守るには私があえて泥を被るしかない。まず自分を守る事を考えてはダメなのだ。その事をカムライールが私に教えてくれた。大事なものを守る為には自分の身を顧みてはならない。


 カムライールを守る為なら王族の誇りなど何回でも豚に食わせてやる。頭など何度でも下げるし、出来得る謝罪はなんでもしよう。私はそう決意してヘルミーネを見詰めた。


 ヘルミーネは微笑を崩さなかったが、僅かに悲しげな雰囲気を漂わせていた。彼女はお茶を一口飲み、ホウと息を吐いた。


「・・・それほど私との結婚がお嫌ですか?」


 私は返答に詰まった。嫌だというわけでは無かったからだ。


「・・・君と結婚すると思っていた頃に、君を嫌った事は無かった。結婚が嫌だった事は無い」


 結婚しないわけにはいかないのだから仕方が無い。誰でも同じだ、と考えていた事は確かだが、ヘルミーネと結婚することになるだろうと言われた時に「あんな女では嫌だ」とも思わなかった事も事実なのだ。むしろ小さい頃から気心が知れている彼女が相手でホッとしたのだ。場合によっては見も知らぬ他国の王女が嫁いでくる可能性もあったので。


 だが、私はカムライールと出会ってしまった。カムライールを愛し、幸せを得る間、ヘルミーネのことはカケラも思い出さなかった。つまり私はヘルミーネの事は好ましくは思っていても全く愛してはいなかったのだ。残念ながらそれが私と彼女の関係の全てだ。


「私は君が嫌いなのでカムライールと結婚するのではない。私が愛しているのはカムライールだけだから、彼女を妻にするのだ」


 ヘルミーネをじっと見つめる。彼女は微笑みを崩さず、やはり私の事を見つめている。そして表情を変えずに言った。


「それが、我がフロルン王国とあなたのエイマー王国との関係を永遠に断つ結果となってもですか?」


 当然の質問だった。両国の永遠の友好関係を構築するために計画された私たちの結婚なのだ。これを破談にすると言う事が即ち両国の断交に繋がる可能性は当然考えられる。


 これに対して「然り」と答えるのは簡単だ。私は当初そのつもりだったし、その結果フロルン王国と戦争になっても受けて立ち、自分で陣頭に立つつもりでいた。


 しかし、それはやはり不誠実な行為なのだ。カムライールがなぜあんなに戦争になるのを嫌がり、自分の意思を殺してでも戦争になるのを防ごうとしたのかを考えて分かった。


 ヘルミーネを怒らせ、戦争になり、両国に深い溝が出来ればそれは数世代に渡っての負債となる。その結果は私は勿論、王妃となるカムライール、そして敵対するヘルミーネをも長く苦しめるだろう。安易にヘルミーネを突っぱね、侮辱するのは簡単だが、それは私達の後先を考えない不誠実な行為で、やはりしてはならないのだ。まして私は将来の王であり、国家と民との未来に責任がある。


 国家の将来を思えばヘルミーネと結婚すべきところを我が意を通してカムライールと結婚しようというのだ。それ以上の我儘による被害を国家と国民に与えれば、私は暴君と呼ばれよう。カムライールは私を暴君にした悪女と呼ばれてしまう。彼女にそんな未来を与えるわけにはいかないのだ。


「そんな意図はない。フロルン王国はこれまでも我が友好国だった。これからもそうであって欲しいと思う」


「その友好国の王女にこれ以上の無いほどの侮辱を与えているという自覚は無いのですか」


「私はそうは思わない。愛の無い結婚をして君を不幸にすることが分かっているのに君を妻に迎える事こそ私は侮辱だと思う」


「平民と王女を秤に掛ける事自体侮辱なのですよ」


「私はカムライールと君を比較した事など無い。カムライールは君とは関係の無い所から来て私の心を奪ったのだ」


「あなたと会ったのは私の方が先では無いですか」


「私は幼少の頃より君と何度も会ったが君に心を奪われた事が無い。残念だが、私は君を愛する事が出来ない」


 私はきっぱりと言った。ここでうやむやに思わせぶりな態度をとるのはそれこそ彼女に対する侮辱だと思ったからだ。


 しかし、ヘルミーネは表情こそ変えなかったが、少し声を震わせながらこう言った。


「私は、あなたを幼少の頃から愛しておりますのよ、ブレンディアス」


 私は思わず息を止めた。王女であるヘルミーネがこうまで直截的な愛情の言葉を投げ掛けてくるとは予想外だった。勿論、貴族であり王族である彼女の言葉を丸ごと信じるのは危険な事ではあるが。


「一緒に遊んでいた頃より、あなたとの結婚を夢見ておりました。何度も縁談が中断しても、いつかあなたと再会して、結婚する時が来る。それだけを信じておりました」


 幼少の頃よりの彼女との思い出が浮かぶ。彼女が私に愛情を向けてくれたことが果たしてあっただろうか。覚えていない。私はカムライールを愛する前までは女性から向けられる感情はどれこれも煩わしいとしか思っていなかったのだ。だからヘルミーネの想いも感知出来なかったのだろうか。つくづく私は女性に対して酷い奴だったと思う。


「あなたがそれほどカムライール様を妻にしたいのなら仕方がありません。それならば私を愛人にしてはくれませんか?ブレンディアス?」


 私は驚きに目を見張り、ヘルミーネの周囲にいる侍女たちがざわめいた。


「姫様!それは!」


「もちろん、私は諦めません。幸い、愛人から妻に上がる実例があるのですもの。私はあなたを振りむかせて、カムライール様と取って代わるつもりですわ」


 なんとも堂々たる寝取り宣言である。如何にも彼女らしい。私は苦笑を微笑で隠すのに苦労した。


「そんな事は出来ないよ。ヘルミーネ。王女を愛人になどしたらフロルン王国全国民の怒りを買ってしまう」


「王女より平民を取られても、国民は怒ると思いますわよ?ブレンディアス」


「それはそうだろうな。そうならない為には君の協力が必要だろう」


「協力?」


「君が帰国した後にその事を吹聴すればフロルン王国で我が国への反感が生まれてしまう。そうせず、単純に君が私を気に入らなくて破談になった事にしてくれば良い」


 私は何しろ未だに隣国では「エイマー王国の処女喰い王子」で通っているらしい。悪評というのは簡単には消えないものだ。その悪評故に縁談が止まっていたのだ。悪評通りの酷い男だったから、と言えばフロルン王国の者逹は信じるだろう。


「両国との平和を守る為だ。この通り。臥して頼む」


 私はまた頭を下げた。


 ヘルミーネはつまらなそうに小さな溜め息を吐いた。


「何一つ私の希望は通さないのに、私にはあなたの希望を叶えよと仰るのですね。立派な王族におなりですこと」


「両国の安定は私だけでなくそなたの利益にもなると信じている。それ以外にも私に出来る限りの便宜は図ろう」


 ヘルミーネは私との縁談が成立しなかっら場合、他国の王族か自国の有力貴族の元に嫁ぐ事になるだろう。そうなれば彼女は政治の舞台に出る事になる。その時に私からの「便宜」つまり私に対する貸しは彼女自身や彼女の夫の非常に有力な政治的カードになるはずだ。


 将来的な大きな国家的な負債になるのだから王族は普通このような貸しを認める事はない。まして他国の王族には。私はあえてそのような失点をヘルミーネに提示して見せたのである。それが私の出来る限りのヘルミーネに対する誠意だった。


 王族であるからにはヘルミーネにも私が提示したモノの大きさがわから無い筈は無い。彼女からの愛情は明確に拒否したのだから、ヘルミーネとしては引くしか無いが、面子として何も得ずに引くわけにはいかないだろう。私はあえて自分の非を認め実利ある条件を提示してみせることでヘルミーネに引くことを促したのである。


「私の欲しいものはあなたの謝罪ではなくてよ?ブレンディアス」


「そなたが私を愛しているという言葉は信じよう。ヘルミーネ。その上で私はやはり君を愛する事は出来ないと伝える」


 私がそう言うと、この時初めて、ヘルミーネは私から視線を外した。目を伏せて、寂しそうにも見える表情を浮かべた。私は黙って待った。


「・・・ブレンディアス」


 やがてヘルミーネは私に呼び掛けた。


「あなたの気持ちは良く分かりました」


 分かってくれたか。私は少しホッとした。しかし安心している場合ではない。おそらくヘルミーネは破談の引き換え条件を何かしら出してくるだろう。感情的に激昂して泣きながら国へ帰るような女性ではない。昔から私が何か悪戯をしたら必ずやり返してきたものだ。私は緊張を抜かずに備えた。


「されど、私はフロルン王国第一王女。貴方に断られたとて、何も得ることも出来ずにおめおめ帰るわけにはいかない立場。それはお分かりですね?」


 私は微笑したまま頷いた。さて、どんな無理難題が飛び出す事か。身構える私にヘルミーネは予想外の事を言い出した。


「私を抱いてくださいませ」


「は?」


 私はあまりの事に間抜けな声を出してしまった。咄嗟には意味が掴めない。ヘルミーネの周囲の者たちも呆然としている。一人ヘルミーネだけが面白そうに微笑んでいる。


「・・・どういう意味なのだ?」


「貴方は『処女喰い王子』なのでしょう?貴方を誘惑してきた処女は皆貴方に抱かれたと聞きました。私も正真正銘の処女ですもの。貴方に抱かれる資格はあると思いますわ」


 なんというか、何もかもおかしい。間違っている。私は頭を抱えたくなった。


 私に付けられた不本意な異名はともかく、私は別に好んで処女を抱いた訳では無い。私を誘惑してきた貴族令嬢が、処女である率が高かったというだけで、処女ではない令嬢もそれなりにいたのだ。故に、私に抱かれる資格に処女である事、なんて条件は無い。


 そして誘惑してきた女性を抱いたのは捨てるためで、抱いてその後で捨てた方がハッキリと関係を終わらせられるからだし、全員を一度づつ抱いたのは特別扱いを吹聴する者を出さないためだ。抱かなければ抱かないで「私は特別大事だから抱かれないのだ」と言う令嬢がいたのである。


 故に誰の目にも私の「特別」がカムライールであると分かる現在、令嬢を捨てる事も平等に扱う必要も無い。私はもうカムライール以外の女性を抱く気は無い。カムライールが妊娠中にさんざんウーフ辺りに誘われたが、私には全くその気が起こらなかった。


 つまりヘルミーネが処女で私に好意を持っているからといって、私が彼女を抱く必要はもう無いし、その気も無い。


「そのような事は出来ぬ。ヘルミーネ」


「これは私の名誉の問題なのですよ。ブレンディアス」


 ヘルミーネは意外な事を言った。彼女の説明はこういう事だった。


 ヘルミーネが私との縁談を希望し、エイマー王国に出向いている事はフロルン王国では周知の事実なのだという。しかしながら、この縁談はけして国民に歓迎されているわけでは無いらしい。偏に私の評判が悪いからだ。


 処女喰い王子。女癖の悪い女の敵。そんなのに我が国自慢の美しき第一王女が嫁がせるなんて酷い、くらいに思われているそうだ。そんな状態で私が単に断ってこの縁談が破談となり、ヘルミーネが帰るとどうなるか。


 女癖の悪い処女喰い王子が何故か手を出さなかった王女、にヘルミーネはなってしまう。なぜ手を出されなかったのか。詳しい事情を知らない連中は面白おかしく言うに違いない。年増だったからとか、実は既に処女では無かったからだ、とか。そういう噂が立つことは女としての名誉に関わる、というのだ。


 それを防ぐには私がヘルミーネを抱いて、その上で破談にする。そうすればヘルミーネの面目は立ち、フロルン王国の国民の同情がヘルミーネに集まるという寸法らしかった。


 思わずそうかと頷きかけたが、いや待て、と思い直す。色々とおかしい。


「いや、私の噂はともかく、そんな私に抱かれたという話が知れ渡ればそなたの評判に逆に傷が付く。私が王子であり、上位である私が召した為に断れなかったという事に出来る我が国の令嬢たちとは王女のそなたは事情が異なるであろう」


 我が国の令嬢たちなら私に傷物にされても言い訳ができるが、他国の王女のヘルミーネが私と関係したのに結婚しなかったら、それは単なる醜聞で、そもそも評判が悪い私は兎も角、処女を失ったヘルミーネは致命的な醜聞を背負う事になりかねない。


 ましてそんな醜聞をヘルミーネに負わせたらフロルン王国の国王や国民が激怒しかねないだろう。本当に戦争になってしまう。


「そなたが何を考えているのかは知らないが、そのような事は出来ぬ」


 ヘルミーネは寂しそうにふふふ、と笑った。


「理由は、なんでもいいから、貴方に抱いて欲しいのですよ。ブレンディアス」


 思わず息を呑んだ。ヘルミーネの王女の仮面が剥がれ、少しだけ昔の、お互い本気で喧嘩さえしたあの頃の、少女ヘルミーネの顔が覗いた気がした。


「私の最後のお願いです。私を抱いて下さい。ブレンディアス」


 正直に言うと、その瞬間だけは心が動いた。


 女性の気持ちは分からないが、愛しい人と身体を重ねたいという気持ちは良く分かる。女性は愛しい人にこそ純潔を捧げたいと願うものだという。ヘルミーネはそれほど私を想っているという事なのだろう。


 王女であるヘルミーネが全てを投げ出して、私を求めている。それは人として男として大変に名誉なことで、嬉しい事であった。


 長年の付き合いの彼女が最後の願いだと言うのだ。叶えてあげても良いのでは無いか。今まで散々やってきたことだ。明確に関係を持ち、そして終わらせた方が関係をスッパリ終わらせることが出来る。ヘルミーネもここまで言ったのだから後腐れのある事は言うまい。


 ・・・しかし、私の心はそこまでしか動かなかった。私の心はカムライールに繋ぎ止められている。彼女の側を離れることは無いのだ。ヘルミーネを抱く事は、カムライールへの裏切りだ。


 ヘルミーネとワルツを踊った後、カムライールが嫌そうにヘルミーネの香りを消すべく私の肩に顔を押し付けていた事を思い出す。ヘルミーネを抱いて私の身体中からヘルミーネの香りが漂おうものなら、カムライールは私に手も触れさせてくれなくなるに違いない。


 私の最優先はカムライールのためにある。それがたとえヘルミーネの最後の願いだろうと、カムライールが悲しむような事をするわけにはいかない。


 縋るような目を向けているヘルミーネを、私は王族らしい作り笑いで見返した。


「ヘルミーネ。それは出来ない」


 ヘルミーネの顔に大きな感情のさざなみが走り抜けたが、ヘルミーネは少し顔を伏せただけで感情を抑え切った。顔を上げた時には優雅な微笑みだけがその顔にある。


「そう。残念。貴方に抱かれて帰った後『貴方の子供が生まれた』と叫んでエイマー王国の皇位継承問題を引き起こしてやろうと思ったのに」


「そうは行かない。君の考えなどお見通しだ」


「嘘よ。貴方はそんなに鋭い男じゃないわ。私が掘らせた落とし穴に、私がちょっと煽てたら見事にハマったじゃない」


「そういう君も考えが昔から浅かったじゃないか。橋の欄干を歩けるのだと言い張って見事に転落して泣いていたのは忘れてはいないぞ」


 私たちは睨み合い、そして笑った。


 それから私たちは幼い頃の思い出話に花を咲かせた。私と気兼ね無くお互いの失敗を当て擦りながら、赤裸々に昔話が出来る友人は彼女しかいなかった。彼女にとってもそうなのだろう。私たちはお互いの記憶違いをなじり合い、時に大声を出し、大きな声で笑いながら、長い時間昔話に興じた。


 ようやく話を終えてヘルミーネと別れたのは朝方だった。私はヘルミーネを客室までエスコートすると、自分は待たせていた馬車に乗り込み屋敷に帰った。王宮の部屋で泊まっても良かったのだが、なんとなく予感があった。早く帰りたかったのだ。


 すっかり明るくなった頃に屋敷に戻ると、驚いたことに眠そうな顔のハーマウェイが出迎えてくれた。彼女は自分の家庭があるから通いであり、屋敷に泊まる事などまず無い。彼女は私の事をじっと見つめるだけで何も言わなかった。言わんとすることは分かったので、私は頷いた。


「大丈夫だ」


 ハーマウェイはホッとしたような顔をした。


 ハーマウェイに先導されてカムライールの部屋に行く。ハーマウェイが迷わずカムライールの部屋に案内するということは、やはりカムライールは起きているのだろう。

 

 私が部屋に入るとカムライールがバッと立ち上がった。私は思わず苦笑した。明らかに徹夜明けだ。目が腫れてしまってほとんど開いていないほどだ。眠る気になれなかったらしい。


 私は彼女にそんな思いをさせた自分が不甲斐なくてなんだか涙さえ出そうになった。しっかりしなければ。私は王太子妃、いずれは王妃となるカムライールと、王子イーデルシアを守らなければならないのだ。ヘルミーネを始めとする他国の王族と渡り合って、家族と王国を守り戦わなければならないのだ。


 だが、とりあえず今は休もう。カムライールも私もここ数日まともに眠っていない上に今日の徹夜である。これ以上の寝不足は心と体の健康に関わる。それにやっと縁談に片がつく見込みがついたのだ。カムライールの意思も確認した。久しぶりにカムライールと二人、安心して眠りたい。


 私はカムライールを抱え上げるとベッドに放り出し、自分も下着一枚の姿になってベッドに潜り込み、カムライールを背中から抱え込んだ。久しぶりのカムライールの体温だ。一気に眠気が落ちてくる。心得ているハーマウェイと侍女がカーテンを閉め、ドアを閉じる。


 私は疲れと安心感と充実感と、まだまだたくさんの不安を心の中に抱えながらも、この時ばかりはカムライールの体温に癒されながら安らかな眠りに落ちたのだった。

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