第11話 ヘルミーネ  王太子視点

 フロルン王国王女ヘルミーネとはかなり昔からの付き合いだ。


 最初に会ったのは5歳だかその位で、今ではもうほとんど覚えていない。その後も子供の内は大体年に一度か二度位は会っていたのでは無かったか。当時は両国の関係はまだ良好だった。


 仲はまぁ、悪くは無かった。喧嘩友達と言った感じだった。何しろ彼女は王女だったから気位も高く態度も大きい。何時も遊んでいる貴族の息子や娘達はどうしても私を王子として扱ったから、その尊大な態度は新鮮だった。彼女の方も自分に控えない存在が珍しかったらしい。仲良く遊ぶと共によく喧嘩もした。私には喧嘩が出来る存在は彼女しかおらず、彼女もまたそうだったのだろう。口喧嘩や時には取っ組み合いの喧嘩までした覚えがある。


 10歳を超えたあたりで父母から彼女が将来の妃になるだろうと聞かされた。私はその頃は妃がどんなものであるかの実感など無い。そうなのか、とは思ったが、彼女との関係が変わることは特に無かった。


 ところがその頃から両国の関係が悪化し始めた。祖父王が崩御し父が即位したのだが、まだ権力の安定していない父王の隙を狙ってフロルン王国が何人かの国境の貴族に誘いを掛けたらしい。幸い離反にまでは至らず大事無かったのだが、その事で両国の関係は悪化して婚約は取り止めになった。


 その後、両国は和解したので、またヘルミーネが我が国に来たり、私がフロルン王国に行ったりして、15歳くらいの時には婚約式の日取りを打ち合わせる位までいった。もっともこの時も私は別にヘルミーネ自身に愛情など無く、以前のお転婆はすっかり鳴りを顰め美しい少女に育った彼女を無感動に見ていた。この頃には国内の貴族の子女からのアプローチが日増しに激しくなっていて、私は既に女性不審になりかかっていたのだ。


 この時の話は我が国の別の隣国がフロルン王国に働きかけ、侵攻を企んだせいで壊れてしまった。戦争になりフロルン王国は我が国に味方すべき所を中立を保ったのだ。幸い侵攻は撃退して隣国には大きな代償を払わせたが、フロルン王国との関係は再び悪化した。


 その後、両国の関係は何回かの交渉の末に良化。両国友好の証に私たちの婚姻が取り沙汰された。私が18歳の時だ。私はこの頃には女性に辟易としており、妻が決まるのなら何でも良いと歓迎した。


 ところがこの時も偶発的な事件が思いの外大問題となり、両国は戦争する事になり、再び縁談は立ち消えになってしまった。この時の戦争では私も出陣して幾らかの戦果を上げた。


 戦争は概ね我が国の勝利で、フロルン王国から賠償と領地の割譲を得た。そして全ての交渉が終わると再び婚姻の打診があったのだった。この時は私もヘルミーネも適齢期であったから、普通なら問題無く成立する筈であった。


 ところがこの頃は、私が女性への不審と蔑視が行き過ぎるあまり、女性を一度抱いては捨てるという暴挙を繰り返していた時期であり、それがフロルン王国の耳に入って先方が激怒し、またも話は流れてしまった。

 

 それから既に三年は経過していた。私は今年で24歳。一つ下のヘルミーネは23歳の筈だ。私はヘルミーネほどの器量良しならとっくに嫁に行ったものだとばかり思っていた。23で未婚だともう嫁ぎ遅れと言って良い年齢だからだ。ところがそうでは無かったらしい。


 フロルン王国の使者がやってきて、小さな謁見室で父王、母、私の前で言うには、ヘルミーネは私に嫁ぐために他の縁談を断ってきたらしい。本当かどうかは分からないが。


 しかし、そんな事を言われてももう困る。私はようやくカムライールを妃に出来るところなのだ。私はその場で断ろうとして、考え直した。カムライールを無事に妃にする為には揉め事は無い方が良い。私は使者を待たせ、まず父母と協議した。


 父が言い難そうに言うには、ヘルミーネを妻に迎えてくれるなら有り難い、との事だった。何しろフロルン王国の王女である。彼女を妻にすればこれより先、フロルン王国を完全に同盟国に出来る。彼女は言わば人質にもなるから、フロルン王国の裏切りをかなり抑制出来るだろう。フロルン王国の王は優柔不断で流され易いタイプで同盟者としては信用出来ないのだが、流石に娘が嫁いでいれば簡単には裏切るまい。


 フロルン王国が信頼出来れば我が国は他の隣国との関係に集中する事が出来る。最近は安定しているが、豊かな我が国を狙っている国は少なく無い。外交手段として政略結婚はありふれたものだし、最も容易な手段でもある。私が今まで独身だったのも天の配剤。我が国の未来を思うならヘルミーネを娶るべきだろう。


 と父は言った後、苦笑した。


「だが、それでもそなたはカムライールを妃にしたいのだろう」


 私は一も二も無く頷いた。私はカムライールを妃にする。これはとっくに決めたことでフロルン王国が今更何を言ったところで変更する気はない。


「そなたの意思は尊重する。私たちにとっても孫を産んでくれたカムライールは娘に等しい存在だ。蔑ろには出来ない」


「そうですよ。命懸けで王統を繋いでくれたカムライールに報いなければ王家が恩知らずの誹りを受けましょう。大丈夫です。この話は断ります」


 母も言ってくれた。父母の賛成があれば大丈夫だ。私と父母は改めて使者を呼び、正式に縁談を断る事を告げた。使者は驚いたようだったが、私が妃は内定している事を告げ、フロルン王家とヘルミーネに事情の説明と断りの書簡を出すと聞くと納得してくれたようだった。


 使者を招いて夜会を開き、その席に招いた貴族達にもフロルン王国との縁談は王家の総意として断ることを告げた。貴族たちの中には「せっかくの良い縁談をお断りになるのは勿体無い。カムライール様は愛人に留めたままヘルミーネ様を妃になさっても良いのではないですか?」と言ってくる者もあったが、私は「私の妻はカムライールだけで良い」と一蹴して、ヘルミーネを受け入れる気はないことを周囲に強く示した。


 使者は納得して帰ったのだし、私と父から明確な断りの書簡も持たせたのだ。私はこの話は終わったものと思っていた。なのでカムライールにはこの事を言わなかった。カムライールは回復しつつあるとはいえ、産後の本調子でない身体だったし、子育ても乳母任せにせず色々と大変そうだったからだ。一応周囲には口止めをしていたが、彼女を妃にした後にそれと無く教えるつもりだった。


 ところが、再び使者が来て、フロルン王家から再度縁談を推す書簡が届いたのだった。あれほどはっきり断ったのに縁談を続けようというフロルン王国には呆れてしまうと共に困惑した。もちろん、私はもう一度縁談を進める気はないと断ったのだが、使者が言うには「内定しているという妃は平民の愛人だそうではないか、王女であるヘルミーネよりも平民を選ぶなど納得出来ない」とあちらの王が怒ったらしい。


 そんな事を言われても困る。私はカムライールは平民ではないし、彼女は愛人ながら子供も産んでくれて王家は彼女に深く感謝している。何より私が深く彼女のことを愛しているのだと書いて再度断りの書簡を使者に持たせた。


 しかし直ぐに早馬が来て、フロルン王国は執拗に縁談の継続を願ってきた。どういう事なのか。フロルン王国国境に領地を持ち、フロルン王国の内情に詳しい貴族を呼んで話を聞くと、どうもヘルミーネの嫁入りなり婿取りなりが難航しているのだという事だった。彼女が格下に嫁ぐのを拒んでいる由で、どうしても私の元に嫁ぎたいとの事だった。確かに近隣国でフロルン王国に対等に付き合える国は多くは無いし、結婚適齢期の息子がいる国はどうやら我が国の私だけらしい。


 ヘルミーネが嫁ぎ遅れ掛かっているのは、私との縁談のせいだというフロルン王国の意見には納得出来ないが、このまま嫁に出せないと困るというフロルン王国の事情も理解出来なくは無い。国内貴族、特にフロルン王国に関係が深い貴族にはこの縁談を推進する意図もある者も多く、そういう者は私や父と面談して縁談を推してくる事もあった。私も父も「既に妃はカムライールで内定している」と言っているのだが、隣国の王女よりも貴族になっているとはいえ平民出身で、しかも既に愛人身分に収まっているカムライールを選ぶ事が理解出来ないという者も多かった。


 何度も何度も早馬が往復した結果、フロルン王国は「兎に角ヘルミーネをそちらに行かせるので直接話をして欲しい」と言ってきた。私は断ろうと思ったが貴族たち、そして父母からとりあえず来訪を認めて会って、その上で断る事を要請された。来訪まで言下に断ると、さすがに両国の関係が悪化しかねないからだ。王女のわがままを聞き入れてフロルン王国国王の顔を立てる形を取れば、破談にしても相手の面子も立ち易かろうとの事。仕方が無い。私は「こちらとしては破談の意図は変わらない。来訪を一応認めるが、これで縁談は決定では無い」と強調し、フロルン王国がそれを受け入れて初めてヘルミーネの来訪を認める事にした。


 会ってヘルミーネ直接断れば流石にこれ以上強引に縁談を推しては来るまい。ヘルミーネは話が分からない女性では無かった筈だ。私は来訪は認めるが、王都には入れずに城壁の面会所で話をして、そのままヘルミーネを帰すつもりだった。それというのもヘルミーネの事を私はまだカムライールに秘密にしていたからである。ヘルミーネの来訪を彼女に知られたくなかったからだ。こうまで話が長引いて大騒ぎになるとは思っていなかった私は、社交界にも「カムライールがショックを受けるといけないから縁談の事は秘密にして欲しい」と言い含めておいた。その甲斐あってカムライールは何も知らないのだ。ところが流石にヘルミーネが王都に入って、王宮で歓迎式典でも開かれればカムライールに隠しては置けなくなる。私はカムライールに平穏に暮らして欲しいのだ。


 ところが、ある日私が帰宅すると、カムライールが見るからにしょげていた。驚いて私が理由を尋ねても言葉を濁すではないか。ハーマウェイに説明を求めると、下級侍女の噂話を聞いてヘルミーネの来訪を聞いてしまったらしい。私は激昂して下級侍女を首にしろ!と叫んだのだが後の祭りである。


 私はカムライールに説明することにしたのだが、カムライールは明らかに落ち込んでおり、私に妃がいないのはおかしいのだから、ヘルミーネを妃に迎えるべきであるなどという始末だ。私は彼女と強制的に目を合わせて言った。


「君が妃になればいい」


 カムライールは私の正気を疑うような顔をした。私はこれまでも彼女を妃にするために色々やっていた事を告げ、たとえ戦争になろうともフロルン王国の要求は突っぱねてカムライールを妃にすると宣言した。


 しかしその瞬間カムライールは顔色を青くして叫んだ。


「戦争などになったら、両国の人々が大変な事になります!お願いです。そんな事は止めて下さい!」


 驚くほど強い拒絶だった。私はカムライールがこれほど戦争を嫌う理由を理解しておらず、拒絶されたことに少なからずショックを受けてしまった。


 私が呆然としていると、カムライールは部屋を駆け出して行ってしまった。ハーマウェイが私に言った。


「少しお互いに頭を冷やした方がよろしゅうございましょう」


「・・・カムライールは妃になりたく無いのだろうか」


「カムライール様が何をお望みかも分からずに動かれても駄目だということでございますよ」


 カムライールの望み?


 カムライールは常に私を立て、私の役に立とうとしてくれている。しかし反面、彼女自身の望む事というのは非常に分かり難い。贅沢は望まず、名声も欲しがらず、社交界でも控え目に振る舞い、一度として我が儘を言った事が無い。しかし、欲しいモノが無い訳では無いだろう。


 私は愕然とした。既に二年以上二人仲良く暮らしていながら、カムライールの事を良く分かっていると思っていたのに、彼女の望む事が即答出来ないのだ。思えば彼女は確かに自分が妃になりたいなどと言った事はない。妃にすれば喜んでくれるだろうというのは私の独りよがりの思い込みだったのではないか。


 私は悄然としてしまい、ハーマウェイに促されるまま久しぶりに自室のベッドで眠った。ショックとカムライールがいない不安感で案の定まるで眠れなかったが。


 とりあえずカムライールがあれほど嫌がるのなら、フロルン王国と戦争になりそうな非礼な対応は止めることにした。具体的にはヘルミーネを城壁で追い返す予定を、ちゃんと王宮に迎え入れて歓迎の式典と夜会を開くことにした。はっきりと断るなら冷遇すべきなのだが、それはフロルン王国を完全に敵に回してしまう可能性がある行為だ。


 私はそれから毎日、言葉を尽くしてカムライールに、私が如何に彼女を大事に思っているか、感謝しているか。以前からずっっとカムライールを妃にしようと動いていて、父も母からも同意を得ているのだと伝え「私の妻はカムライールだけだ」と訴えた。


 しかし彼女は頑なに「ヘルミーネ様をお妃にお迎えください。私は愛人で満足です」と言い続けた。私は彼女の想いがわからなくなった。別々に眠り、寂しさにたまらない思いを募らせているのは私だけなのだろうか。彼女は私の事を愛してくれてはいなののだろうか。


 そんな筈はないと思う。カムライールが私を愛してくれている。それは確信として分かる。だが、彼女は私の妃になるのを望まないと言う。なぜなのだろうか。私は眠れないベッドで考え続けた。しかしはっきり答えが出ないまま、ヘルミーネが来訪する日が来てしまった。


 歓迎式典当日、私はカムライールをエスコートしようと屋敷のエントランスで待っていた。やってきた檸檬色のドレスのカムライールは髪を下ろしていた。下ろした髪は未婚を表す。私の愛人になってから、彼女は事実上の妻であるからと髪を上げていた。それを下ろしたのはヘルミーネをこれから妃にする以上私はまだ未婚であり、当然カムライールも未婚であるという事をアピールしているのだろう。私はハーマウェイを睨んだが彼女は悲しげに首を横に振った。カムライールの意向だということなのだろう。


 私は落ち込むと共に少し投げやりな気分になってきてもいた。そんなにカムライールが嫌がるのなら、カムライールの言う通りヘルミーネを妃に迎えてしまおうか。それで全てが丸く収まるのなら、カムライールの心に平穏が訪れ、私たちの関係が元に戻るのなら。


 王宮に着き、謁見室に入る。大謁見室での謁見の場合、王族は階の上、そのほかの貴族は階の下に並ぶ。カムライールはまだ王族ではなく伯爵夫人なので階の下。私は上と分かれなければならない。私は彼女をエスコートして彼女の立つ場所に連れて行った。


 伯爵夫人としてのカムライールの立つ場所と、私の王太子としての立ち位置。その離れた距離が心の距離のような気がして、私は溜息を吐いた。私はカムライールの手を離し、自分の位置に移動した。


 父母が入場し。階の上に上がり、席に着く。私は父の横に立ってヘルミーネの入場を迎えた。


 数年ぶりに見るヘルミーネは派手な容姿で、自信満々に入場してきた。謁見室に集まる貴族はどよめいている。その美しさと覇気は確かに一国の王女にふさわしい。彼女は昔から王女としてのプライドは人一倍高かった。


 確かに、彼女を妃に迎えれば見栄えは良かろうな。私は無感動にそう思った。カムライールを妃に迎えられないのなら妃など何でも良い。誰もが望み認めるのならヘルミーネをお飾りに妃に迎えても良いのかもしれない。


 その時、ふと私はカムライールのことが気になって、彼女を上から探してみた。彼女がヘルミーネをどう見たかが気になったのだ。小さな彼女はすぐに分かる。彼女はハーマウェイと専属侍女に守られるようにして立って、ヘルミーネの事を見つめていた。


 カムライールは無表情だった。いつだって明るく微笑み。私といる時は常に幸せそうに顔を輝かせているカムライールが、全てを諦めたように表情を消していた。


 彼女の望み。私は自分の馬鹿さ加減に腹を立てた。そんなのは分かり切っていたではないか。彼女は私と幸せに生活することを何よりの喜びとし。私に尽くす事を何より優先する私の妻なのだ。


 やった事も無い社交も私の為ならと一生懸命こなし、ヘトヘトになりながらも立派にやり遂げた彼女なのだ。私の為を思えば自分の希望を殺してヘルミーネを妃に推すくらいのことは当たり前にするだろう。


 しかし、それを彼女が本当に望む筈がない。カムライールは私と生活を共にするようになってから、私が帰るのを毎日心待ちにし、遅くなるから先に休むようにと言っておいても食事も摂らずに待っている事もあるくらいなのだ。


 私の愛を失うことを常に恐れ、私が令嬢と長話をしようものなら落ち込んで大変なことになるとハーマウェイに聞いた。思えば私はそんな彼女を安心させたくて彼女を妃にしたかったのだ。


 ヘルミーネを妃にしようものならカムライールは生涯、私の愛を疑い、幸せを失う事に怯え続けるだろう。そんな未来を彼女に押し付ける訳には行かない。私がしなければならないことなど分かり切っているではないか。


 謁見の儀が終わり、私は控室に引き上げた。いつもならそこにカムライールが待っている筈なのだが、いない。私が侍従に尋ねると「王太子殿下にはヘルミーネ様をエスコートして頂かなければなりませんから」と言い難そうに言った。それはもっともな話で、ヘルミーネがたとえ縁談の相手で無かったとしても、未婚の王女が来訪してきた場合は王子である私がエスコートすることになるだろう。


 しかし、ここにいたカムライールを退けて、ヘルミーネをエスコートしたら、私がカムライールよりヘルミーネを選んだと見られてもおかしくない。私は大控室へ早足で向かった。


 貴族たちが大勢集まっている控室へ乗り込むと貴族たちが驚きに目を見張った。それはそうだろう。王族には専用控室があるからここに来ることなど無い。


 カムライールはソファーにちんまりと寂しそうに座っていた。いつもより更に小さく見えるようだった。その姿に私はたまらなくなり、私は駆け寄って彼女の頭をお腹に抱え込んだ。もちろん非マナー行為で。カムライールは慌てていたが構うことはない。私は彼女に詫びた。


「済まない!カムライール!来賓だから私がエスコートすべきだというので仕方無いのだ!許してくれ!入場したらすぐに君の所に駆け付けるからな!」


 これはカムライールを安心させると同時に、周囲の貴族へのアピールでもある。私は彼女の唇にキスをして、その場を離れた。カムライールは目を潤ませていた。私の思いは分かってくれたと思う。


 控室に戻るとヘルミーネが来ていた。ベージュ色のドレスを身にまとったヘルミーネは嫣然と笑った。


「あなたがエスコートして下さるそうね。よろしく」


 私は作り笑いを浮かべて言った。


「来賓は尊重しなければ我が国が恥をかくからな」


 ヘルミーネがふと、何かに気が付いて眉を顰めた。


「唇に何か付いていてよ?ブレンディアス」


 ああ。私はあえて唇を拭わずに言った。


「妻に詫びのキスをしてきたからな」


 ヘルミーネが僅かに眉間の皺を深くした。周囲の私の侍従や彼女の侍女が慌てているのが分かる。しかし私は笑顔を浮かべたままにヘルミーネに手を伸ばした。


「では行こうか。ヘルミーネ」


「・・・その前に唇は綺麗にしてくださらない?ブレンディアス」


 私がヘルミーネの手を引いて入場すると会場が大きくざわめいた。私がカムライール以外の女性をエスコートする事などあり得ない事だからだろう。私とてそう思う。ヘルミーネは当然という態度だ。私は彼女を王族の席へと案内した。彼女はフロルン王国の王族なのだからこれも当然だ。


 王族の席は4つしか無かった。父母と私、ヘルミーネの分だ。私はヘルミーネを向かって右端の席に案内し、座らせると直ぐに踵を返した。そして侍従に、もう一つ席を左端に用意する様に言った。


 カムライールは何だかこそこそと会場の端に隠れていた。恐らく私とヘルミーネを見たくなかったのだろう。私は彼女に申し訳なくて大急ぎで彼女を捕まえると、優しく王族の席にエスコートした。彼女は私の妻なのだから王族だ。それはこれからもずっと変わり無い。そして二人で左端の席に座って、私はカムライールの手を握った。いつも通りだ。


 周囲が戸惑っているのが分かる。カムライールも戸惑っているが、無視する。彼女が自分の希望を押し殺しているなら、彼女の心は私が開かなければならない。彼女の心を開いて本当の希望を引き出し、その希望に私が答えなければ私達は先に進めまい。


 父と母が入場して私たちに笑い掛けた。特にカムライールを見て明らかにホッとした顔をした。父母はヘルミーネの来訪が決まってからカムライールが気分を害するのではないかと随分気を揉んでいたのだ。


 貴族たちの挨拶が終わるとカムライールが立ち上がり、ヘルミーネに挨拶しようとした。私は一緒に立ち上がり。むしろ私が先導してヘルミーネの前に出る。


「ヘルミーネ、彼女がカムライール。私の最愛の人だ」


 縁談の相手に向かって自分の愛人を最愛の人と紹介するなど、面と向かって喧嘩を売る行為である。私は気分を害したヘルミーネが怒って席を立つのではないかと思ったのだが、彼女は顔色一つ変えなかった。


 父母も交えて談笑が始まったのだが‘、ヘルミーネはしきりに私との幼少時の思い出を語り掛けてきた。ヘルミーネとの共通の思い出は少なく無い。彼女はそれを語る事で私の情に訴え、縁談の継続を訴えているようだった。同時に、付き合いの長さをカムライールに見せ付ける意味もあるようだった。


 しかし私は、昔の事は昔の事だと取り合わなかった。大事なのは今であり、私が今愛しているのはカムライールだという事実だ。


 しかしヘルミーネは私の冷淡な態度にも怯まなかった。彼女は熱情を持って私への愛を訴え、理を持ってこの縁談がもたらす両国の利益を説いた。彼女がこれほど私との縁談に執着しているとはちょっと想定外だ。プライドの高い彼女の事だ、私が冷淡に拒絶すれば引くと思ったのだが。


 これ以上強く拒絶すると侮辱になってしまう。王女を公的な場で面と向かって侮辱などすれば国際問題だ。戦争になってしまう。私は戦争になろうとも構わない覚悟だが、カムライールはあれ程戦争を嫌がっていた。出来ればもう少し穏当に破談にしたい。


 カムライールは時折不安そうに目を泳がせていた。その度に私は彼女の手を強く握り直した。握り返してくる手は震えていたが、しかしそれでも彼女は握り返してきてくれた。


 ダンスの時間が来て、私はヘルミーネをエスコートしてホールの中央へ出た。本当はカムライール以外の手を取りたくなど無いのだが、来賓への礼を尽くすためなのでやむを得ない。儀礼的に離れて踊れば良いか、と思っていたのだが、ヘルミーネはスッと身体を寄せてきた。それを見て楽団はワルツの演奏を始める。


 ヘルミーネの顔が私の間近にある。妖しく微笑み、彼女はそっと私の肩に顔を伏せた。


「やっと願いが叶いますわ。ずっと、こうしてあなたと踊りたかった」


 そういえば彼女と踊った事は無かったな。私はそう思いながらゆっくりとステップを運ぶ。官能的なワルツ。ピッタリと寄り添い、体温をお互いに感じ、香りを移し合うこのダンスは恋人同士の踊りと言われ、私はこれまでカムライールとしか踊った事は無かった。


 ヘルミーネは楽しそうだが私は自分の間近からカムライール以外の香りが漂ってくるのに違和感があり過ぎた。身体が小さなカムライールと背の高いヘルミーネとではステップも違い、微妙に合わない。私はヘルミーネと踊りながらカムライールのことばかり考えていた。


 三曲を踊り終わり、ヘルミーネと離れる。彼女の手を離すと私はすぐにカムライールの元へ向かった。


 カムライールは私が来るのを見て随分とホッとした表情を浮かべていた。私が来ることを期待して待ってくれていた表情だった。私が手を取ると彼女は目を潤ませた。


 そう。カムライールは私を待ってくれている。私は何度でも彼女を迎えに行かなければならない。


 カムライールを抱き寄せると、彼女は顔を顰めた。そして自分の顔を私の肩に押し付けている。そこはヘルミーネがダンスの最中ずっと顔を寄せていた所だ。ヘルミーネの香りが移っていたのだろう。


 踊り始めてもカムライールの表情は晴れなかった。ヘルミーネに対する遠慮、そして自分の思いに対する葛藤。彼女の迷いを私は見てとった。

 

 私はカムライールの耳元で囁いた。


「君の、思う通りにしようと思う。君がヘルミーネを娶れというなら彼女を妃としよう。彼女を追い返せと言うならその通りにしよう。君はいつだって私の事を最優先に考えてくれている。私も、そうしたい」


 私は彼女に願って欲しかった。いつだってカムライールは自分の欲求を言葉にしない。私の事を優先して自分の事を後回しにする。だから私は彼女に自分の願いを行って欲しいと願った。その上で私の想いを伝える。


「ただ、忘れないでくれ。私のとっては君が一番大事で、君だけが愛する人で、君だけが私の妻なのだと。それはたとえヘルミーネを妻に迎えても変わらないのだということを」


 カムライールは息を詰まらせた様に私の事を見つめた。みるみる顔が赤くなり、瞳が輝いたかと思うと、彼女は私に抱き着いた。ダンスの途中だというのに。私は彼女を抱き止め、そのまま彼女を抱き上げて踊り続ける。羽毛のように軽い彼女だから成せる技だ。


 カムライールは私の胸に顔を埋めて泣いているかの様だった。そして、そのままうめく様に言った。


「私は、ブレンディアス様のお妃になりたいです。一生、あなたを他の誰にも渡したくありません」


 とうとう言わせた。頑なに自分の願いを口にしなかった彼女に言わせることが出来た。私は喜びに震えながらカムライールを固く抱き締めた。


 こうなれば私に怖い物など無い。`カムライールが願ってくれるなら、私は万難を廃してその願いを叶えようではないか。


 しかし同時に、カムライールは事を荒立てたくないという希望も持っている。であれば私のすることは一つ。ヘルミーネを納得させた上で破談にする事だ。それにはヘルミーネと誠心誠意話し合う必要がある。


 私はカムライールに「私を信じてほしい」と言い置いてヘルミーネのところへと向かった。

 


 


 


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