第10話 カムライールの出産 王太子視点

 私とカムライールは基本的には楽しく暮らしていた。なぜ基本的なのかというと、色々面倒臭い事から避けられなかったからだ。


 カムライールは爵位を得て私の事実上の妻になった。それ自体は私は大変うれしく幸福なことだと思っていたが、それはそれまでおざなりにしていた社交にきちんと出なければならない事を意味した。パートナーがいるのに社交にちゃんと出ない王族などいない。王族にとって社交は仕事、義務なのだ。特に私はエスコート相手がいなくて居心地が悪いからと逃げていた夜会などはカムライールがいるから出ないわけにはいかなくなった。


 正直に言って私は屋敷に帰ってカムライールと仲良くしている方が夜会などより楽しいのだが、貴族界ではそれは許されないのだ。カムライールも激増した社交に驚き戸惑っていたが、我慢してもらうしか無い。その事を詫びるとカムライールは首を横に振った。


「ブレンディアス様のために私が頑張るのは当たり前の事でございますもの」


 カムライールは責任感が強い。それ故の返答だが、私はカムライールに自分が私のための働くのは当然だ、などと思って欲しくない。しかしながら私が無理しないで良いと言ってもカムライールが頑張らない訳が無い。私はくれぐれもカムライールに無理をさせないように。無理しすぎるようなら私に言うようにとハーマウェイに言いつけた。


 もっとも、カムライールは意外にあっさり社交界に受け入れられた。


 彼女の家は平民落ちしてしまっていたとはいえ、元々は名門と言って良いサリマルト伯爵家(貴族身分返上の際に家名は王室に返されていた)だ。5代前には王族の姫の降嫁があった程で、なんでそんなに落ちぶれてしまったのか不思議な位の家柄であった。そのため、あまり平民だからと蔑視される事は無かった。これは勿論「カムライールの血筋は実は良いのだ」と私、父母、侍女たち、そして国王夫妻である私の父母が宣伝に努めた効果ではある。


 カムライールは非常に腰が低く、人から敵意を買い難い性格であった事もある。平民だから卑下して腰が低いのではなく、先天的に物腰が丁寧なのだ。誰にでも、それこそ貴族になってからも下働きにまで丁寧で親切でにこやかなのである。それでいて卑屈なわけでは無い。侮辱には反撃はしないが受け入れることも無い。


 それなので例えば意地悪な令嬢や夫人がカムライールに嫌みや意地悪を言うと、彼女は微笑みながら相手をじっと見据える。逃げることも引くことも無く悲しげに微笑む。いつも明るい彼女がそうしているだけで、侮辱に対する悲しみと憤りが見る者に伝わって来るのだ。カムライールは容姿性格共に可愛らしく、その彼女が侮辱に耐えている姿は周囲の庇護欲を刺激すると共に相手の罪悪感をも強烈に刺激するらしい。侮辱した相手が周囲から窘められて謝罪を余儀なくされる事がよくあった。


 社交界で自分を強く主張するのでは無く、常に私を立てて控えめに振る舞う彼女は社交界で無害な存在として認知されたようだ。これが王太子の愛人として権勢を求め周囲と対立する性格だったなら反発は酷かったろう。


 それと、ハーマウェイが言うには私の女性についての悪評がいい方向に作用した面は否定出来ないとの事だった。私の周りに女性が寄り付かない現状は、貴族たちにとっては王族の危機に映るらしい。なので、誰でも良いから王太子に気に入られる者はいないのか?このままでは王族が絶えてしまう、と思っていた連中にとって、私に気に入られ愛されているカムライールは非常に貴重な存在に映ったそうだ。なので血筋は良くても平民身分であるカムライールに爵位を与えて公式な愛人にすることについてほとんど反対が無かったのだろう、との事。それなら私の悪評にも意味があったという事か。ついでに言えば容姿が幼いカムライールを見て私が幼女趣味と誤解した連中もかなり多かったらしく、私に10歳の娘を意味ありげに紹介してきた侯爵には怒りのあまり公衆の面前で怒鳴りつけてしまった。そのおかげでその後そういう事は無くなったが。


 公式のパートナーが出来た私には社交の開催義務が生じた。王太子なら当然の義務である。この義務は当然カムライールにも降りかかり、圧倒的に社交をこなす必要が多い女性であるカムライールの方に更なる負担を掛ける事になった。貴族女性、特に高位貴族の女性なら幼少の頃から社交に連れ回され、その中で社交を開催する手順や段取りを覚えて行くものらしいが、カムライールには当然そんな経験は無い。そのため彼女は大変困ったようだったが、幸い彼女に付けた専属侍女のコルメリアが社交に長けた人材だったらしく、カムライールを大変助けてくれたようだった。


 コルメリアは私の妃候補として屋敷に上級侍女として送り込まれて来た者で、アピールがしつこいのですぐに寝て捨てた女なのだが、カムライールと仲が非常に良くなって献身的に仕えてくれている。カムライールを妃に上げたらコルメリアには詫びなければなるまい。


 コルメリアがした準備にカムライールも独自のアレンジを加えていた。彼女は実家が貿易商だったために異国の品物に詳しく、室内の装飾に異国の布や置物、変わった蝋燭やお香などを取り入れている。それを夜会やお茶会でもやってみる事にしたらしい。結果は好評で、彼女の独自色として軽い流行になったようだ。王妃ともなればやること成すことセンスが良いと言われ流行に出来るようで無ければ駄目だ、と王妃である母が言っていたのでカムライールはこの点で合格だったと言って良いだろう。


 ただし、人数の少ないお茶会や晩餐会は兎も角、舞踏会の開催は本当に大変だったらしく、開催前一ヶ月ほどはあの明るいカムライールの口数が減ったほどだった。私は心配し、できる限りの手助けはしたのだが、私は公務が忙し過ぎて助けるにも限界がある。出来るのは毎月にも求められる開催頻度を「忙しいから」と出来るだけ引き延ばして半年に一度にする事ぐらいだった。


 ただ、カムライールは社交で楽しく貴族令嬢や夫人と交流すること自体は嫌いではないし、おいしい食事も好きでお茶会や夜会が全く楽しくないと言うわけでは無さそうだった。王太子の愛人という立場で君臨するのでは無く、小さくて可愛く誰にも好かれるというキャラクターでカムライールは王国の社交界に受け入れられた。カムライールを王太子妃にするにはまずは貴族たちに好意的に受け入れられなければならないから一安心だ。


 お披露目から一年ほど、私とカムライールは仲良く幸せに暮らしていた。私はこのような穏やかな日々が永遠に続けば良いと思っていた。



 ある頃から、カムライールがこそこそと何かやっているのには気が付いていた。屋敷の図書室や王宮の大図書館を見て回り何か調べていたり、貴族夫人、しかもあまり交流が無かったような年の行った夫人の話を熱心に聞いていたりした。そして食後のお茶が変わった香りのものを飲んでいたり、部屋に漂う香が変わったりした。


 極めつけが閨だった。カムライールは自分から房事を求めることは無い。というか、私がしたがる時にするだけで結構な頻度になるので、カムライールが求める必要が無いとも言える。それがある夜、彼女の方から求めてきたのだ。一昨日にしたというのに。私は不審に思いながらも彼女を抱いたが、おかしな行動を確認したくてハーマウェイに尋ねて見た。ハーマウェイは苦笑しながら「カムライール様は殿下の御子を身籠もりたいそうですよ」と言った。なんでも妊娠するに適したタイミングで房事を行うと良いと聞いたそうで、それが昨日だったのだとか。


 何故子を欲しがるのだろうか、勿論、私もカムライールとの子は欲しいし、彼女を妃にするには子が出来た方が容易になることは確かだ。しかし、カムライールの動機はいまいち分からない。彼女も妃になりたいという野心を持ったということなのだろうか?するとハーマウェイは困ったような顔をした。


「カムライール様が殿下のために出来ることは無いかとお悩みだったので、殿下の御子を産むのが一番では、と私が口を滑らせたのです。申し訳ございません」


 いかにもカムライールらしい動機だった。ちなみにハーマウェイの話では、カムライールは自分が妃になれるとは毛頭思っていないらしく、今でも私に妃が出来たらお屋敷を出なければいけないから、と屋敷に私物を増やしたがらないのだとか。


 彼女にそんな不安を抱かせている自分が腹立たしい。私は一刻も早く彼女を妃にして彼女から不安を取り除きたかったが、急ぎ過ぎて貴族達からの反発を招くと元も子もなくなる。順調にカムライールが貴族界に受け入れられているのだから、このまま何年か彼女の存在を浸透させるか、それこそ私とカムライールに子供が出来るかすれば彼女を妃にしても反対は出なくなるだろう。


 私はカムライールに自分も子作りに協力することを告げ、日々の食事で女性を妊娠させ安くなると言うものを積極的に食べるようにしたり、カムライールと打ち合わせて妊娠に最適な日に房事を行うなどした。もっとも、私はこの時は自分の子供を作る能力に半信半疑であったから、カムライールの不安が少しでも無くなるなら、くらいの考えだった。


 ところがお披露目から一年ほど経ったある日、朝起きるとカムライールの様子がおかしい。カムライールは元気で早起きなので、大体は先に起きて私が起きるのを私の腕の中で待っているのだ。ところが、その日は私が起きても起きない。というよりぐったりして動けないようだ。私は思わず叫んだ。


「誰か!医者を!カムライールがおかしい!」


 慌てて医者が呼ばれた。医者は男性なので基本的な診察だけをし、身体に触れるような診察は医者の妻がやるようだ。服を脱がしての診察もあるそうなので私は部屋の外に出た。心配でそわそわしながら待つことしばし、終わったと告げられ部屋に戻った私に告げられたのは意外な事実だった。


「カムライール様はどうやらご懐妊なさったようです」


「は?何だと?」


 ハーマウェイの言葉に私は間抜けな言葉を返してしまった。とても信じられない。私は眉をしかめつつつい迂闊なことを口走った。


「本当に私の子か?」


 それを聞いてカムライールは涙ぐみハーマウェイとカムライールの専属侍女は激怒した。迂闊な事を言ったと後悔しても後の祭りだった。私はカムライール達に平謝りに謝るしかなかった。


それにしても、私に子を成す能力があるとは思っていなかったから嬉しい誤算だ。勿論、カムライールが一生懸命色々調べてやってくれたからなのだろうが。私達に子が生まれればカムライールを妃に迎えるのも容易になる。私は喜んだのだが、ハーマウェイに「危ないから別室で寝るように」と言われて渋面になった。こんなに辛そうなカムライールが別室で苦しんでいるかと思うと気が気では無くなりそうだ。不眠症が再発してしまう。結局、私はベッドを並べて用意させ、離れて寝る事で妥協する事にした。


 しかし、私はその判断を何度も後悔する事になる。カムライールの悪阻は物凄くきつく、一時期は何をしても吐いていた。夜中にも起きて吐いていたほどで、私はその度に彼女の背中をさすってあげるくらいしか出来ず、無力感に苛まれた。


 食事の匂いも耐えられないとの事で、私は別室で食事をするようにした。一人で摂る食事は実に味気ないもので私まで食欲が落ちてしまった。しかしカムライールがげっそりと痩せて目の下にクマを作ってぐったりしているのを見れば自分に出来ることは何でもするべきだと思える。


 カムライールがこんなに大変そうなのに、父母を含めた私の周囲はカムライールの懐妊にただ喜び、出産を期待し、男であれば言うことないなどと言っている。私は少し怒りを覚えた。私はカムライールがこんなに苦しむのなら彼女を妊娠させるのではなかったと後悔していたのに。


 しかしカムライールも懐妊自体は大変嬉しかったようで、何回もその喜びを語り、出来れば男の子を産みたいと言っていた。男だろうが女だろうが構わない。元気で、カムライールも無事なのであれば。


 幸い悪阻が終わる時期になると彼女は随分と元気を取り戻していた。一時期は鵞鳥の卵しか食べられないと言ってそればかり食べていたが、やがて普通の食事も出来るようになり、子供のためだと言って常にも増してたくさん食べて私は安堵した。


 お腹も大きくなり、触ると動くのが分かるようになった。こんな小さなカムライールのお腹に、更に小さな子供が入っているというのは実に不思議な気分だった。しかもそれが私の子供だと言うのだ。とても信じ難い。


 しかし戸惑ってる内にすぐに臨月になった。カムライールは立ち上がるにも難儀していたが、運動が必要だとのことで、侍女に両脇を抱えられるようにして散歩をしていた。カムライールは妊娠してから本当に頑張っている。私はこの頑張りが報われれば良いと祈った。


 その日、私は普通に出勤した。カムライールは重いお腹を抱えながら私を普通に見送ってくれた。しかし、仕事を始めて直ぐに屋敷から使者が来た。どうやらカムライールが産気づいたという知らせだった。私は驚き、慌てて屋敷に蜻蛉返りした。


 馬車を降りて屋敷に駆け込むと、私はカムライールの部屋へと向かった。しかし扉は閉じられ、入室は禁じられた。


「まだ産まれないのだろう?カムライールを励ましてはダメか?」


 出てきたハーマウェイに言ったのだが、彼女は首を横に振った。


「出産は穢れと申します。お止め下さい」


「どのくらいで生まれるのだ?」


「あの様子では夜になると思われます」


 夜?まだ午前中ではないか。私は驚いたが、この時はまだカムライールがどうかなった気配がないので、私は特に慌てる事は無く、とりあえず自室に戻って仕事の続きをし、何か異常があったら呼ぶように言っておいた。夕方になるまで特に何も起こらず、私はカムライールを心配しつつも自宅で出来る職務をこなしていた。


 夕方になり、なかなか産まれないので心配になった私は入れないのを承知でカムライールの部屋の前まで行ってみた。侍女が出てきたら様子を聞くつもりだった。


 ところが、部屋に前に来ると、中からカムライールのうめき声が聞こえてくるではないか。私は仰天し、出てきたハーマウェイにどう言う事なのかと尋ねた。


「出産の時は皆こうですよ。生まれるまで物凄く痛いのです。医者の奥様のお話ですと、おそらく夜半過ぎにはなるだろうとの事です」


 とんでもないことを聞いてしまい私は呆然とした。これから出産までカムライールはこうして苦しみ続けるということか。今更ながら私は出産の過酷さを思い知った。カムライールを迂闊に妊娠させた事はもちろんだが、今まで誰に子が出来ても構わないと多くの女性と寝てきたのだが、それがあまりにも不誠実な、女性に危険を強いる行為であるということを思い知ったのである。父母があれほど怒り、女性達が怒り狂ううわけだ。


 私は内心で今まで関係を持った女性に謝りながら、ただひたすらにカムライールの無事を祈った。


 カムライールのうめき声は次第に悲鳴に似たものになっていった。ハーマウェイや侍女、医師の妻が励ます声が聞こえるが。なかなか産まれない。難産なのだろうか。貴族にも難産で妻を失った者は少なくない。何とか無事で。カムライールが無事ならば子供などどうでもいい。


 しかし、本当に日付が変わりかけただろう真夜中、カムライールの悲鳴が一際大きく上がったと同時に「おぎゃぁぁぁ!」と子供の鳴き声が響き渡った。「お生まれになりました!」医師の妻が喜びの声を上げるのが聞こえた。う、産まれた?


 私の周りにいた侍従や侍女が「おめでとうございます!殿下!」と叫び、王国万歳の声も上がる。ほ、本当に生まれたのか?私は半信半疑で誰かが出てくるのを待った。


 ところが、様子がおかしい。赤ん坊の泣き声が止むと、部屋の中から慌てたような声が聞こえてきた。


「カムライール様!お気を確かに!」


「しっかりしてくださいませ!」


 ハーマウェイやカムライールの侍女が必死に叫んでいる。私は真っ青になり、部屋に駆け込もうとドアに飛び付いた。もちろん周囲が慌てて止めに入る。


「いけません!殿下!」


「うるさい!」


 私は一蹴して部屋に駆け込んだ。


 まず見えたのはカムライールに必死に呼びかけているハーマウェイの姿だ。そして何しろ出産直後だから多くの侍女がいてその一人がタライを持っていた。そこに真っ赤な血が溜まっているのを目にして私の頭は真っ白になった。まさか、あれがカムライールの血だとすれば致命的な量だと言えた。私はカムライールの枕元に駆け付けた。


 カムライールの顔色は真っ白で血の気がない。意識は完全に無く、呼吸も非常に浅い。私は戦場に何度か出て、人の死には何度か立ち会ったことがある。彼女の顔色は失血死する人間と全く同じ顔色だった。


「カムライール!」


 私が叫んでも何の反応も無い。ハーマウェイが涙を流しながら場所を譲ってくれた。


「出産の際にお意識を失ってしまわれて、それで出血がなかなか止まらなかったのです」


 ハーマウェイが涙声で言った。何とか血は止まったらしいが、通常よりもはるかに多い量の出血をしてしまい、意識も戻らないのだ。


 医師が駆け付け、私が許して身体に触れさせて診断をさせる。医師は沈痛な表情を浮かべた。


「出血があまりに多うございます。手の施しようがございません」


「何も出来ぬというのか!」


「出血は止まっておりますし、産後の経過としては問題ありません。ですから、失血に伯爵夫人が耐えられれば・・・。取り敢えずお目覚めにならないとお薬も飲ませられません」


 役立たずの医者め!私はそう八つ当たりしたいのをぐっと堪えた。失血を他人の血で賄う輸血という方法もあるが、失敗例があまりにも多く危険過ぎるとのこと。カムライールが失血に耐え切り、目を覚ませたら強壮と造血の効果がある薬を飲ませるしか方法が無いらしい。


 私はカムライールの冷たい手を握りながら絶望に心が狂いそうになっていた。その時一人の侍女がおずおずと声を掛けてきた。


「あの、殿下。御子でございます。元気な男の子ですわ」


 物凄く小さな赤ん坊が白いむつきに包まれてその侍女に抱かれていた。覗いている髪は私によく似た金髪。本来なら喜びに満ちているべき我が子との初対面だったが、私はとても喜ぶ気にはなれなかった。むしろこの赤ん坊のせいでカムライールを失うのかと思うとその存在が許せなくなりそうで、私は赤ん坊を乳母に預けるように言って部屋から出させた。


 カムライールは静かだが浅い呼吸のまま意識が戻らない。顔色は青白く死人のようだった。私は何とか彼女の意識を戻そうと手を握り、頬をさすり、何度も何度も呼び掛けた。しかし、夜が明ける頃になっても彼女の意識は戻らない。医師の見立てでは夜明けまでに意識が戻らないともうダメだろう、との事だった。


 私は泣きながらカムライールを囲んでいる侍女達に言った。


「・・・最後の別れを、二人切りでさせてくれいないか?」


「殿下!諦めてはなりません!」


 カムライールの専属侍女が薬の入った吸口を抱き締めるようにしながら叫んだ。彼女は先程から意識がなくても何とか一口でも飲ませられないかと奮闘していたのだった。しかし、少し粘度の高い薬らしく、無理に飲ませると窒息の危険があるらしい。


「頼む」


「分かりました」


 ハーマウェイが泣き崩れる侍女を抱えるようにして外へ出て行った。私はカムライールの手を強く握る。堪えていた涙が溢れ出す。別れと言ったが、とても別れなど言える心境では無い。私は震えながらカムライールの頬に手を伸ばした。


「頼む。イール。帰ってきてくれ・・・。君がいてくれなければ、私も生きては行けない。頼む・・・」


 すると、涙で歪む視界に、カムライールが薄ら目を開けたのが映った。そして緩慢に瞬きをして、私の事を確かに見た。私は驚愕し、見間違えではないかと目を見張ったが、カムライールは確かに目を開け、薄らと微笑んだのだ。私は振り返って叫んだ。


「カムライールが目を覚ました!」


 扉が音を立てて開き、カムライールの侍女が物凄い形相で駆け寄ってきた。私が場所を開けると持っていた吸口をカムライールの口に突っ込みつつ叫んだ。


「カムライール様!これを、これを少しでも飲んで下さい。意識がおありの内に!」


 カムライールは聞こえているのかいないのか、ぼんやりと侍女を見上げていたが、確かにコクリコクリと喉を動かして薬を飲んだ。侍女が歓喜の声を上げる。


 カムライールは直ぐにまた意識を失ってしまったが、少しでも意識が戻って薬を飲んだのだ。俄然希望が生まれてきた。私と侍女の目に絶望はもうなかった。


 カムライールはそれから何日も意識を少し取り戻してはまた失う事を繰り返した。その度毎に薬を飲ませると、次第にカムライールは顔色を取り戻していった。それでも意識が完全にはっきりするまで一週間。声が出せ、動けるようになるのにまた一週間掛かった。私はカムライールの意識が完全に戻るまでは付きっきりで看病したが、その後は「お世話の邪魔になる」と部屋を追い出された。


 ようやく動けるようになったカムライールは自分が死に掛けた事を知ってびっくりしていたが、それよりも気にしていたのは子供の無事だった。私としてはカムライールが無事だったのだから子供などどうでも良いという気分だったのだが。しかしカムライールは子供の無事を喜び男の子であった事を知って更に喜んだ。


 二週間も名前を付けなかった事を軽く責められたが、私としてはそれどころではなかったというしかない。実際、二週間仕事を放り出してカムライールの看病に掛り切りになっていたため、挽回するのが大変過ぎてその後も子供の名前を考えている暇など無く、結局私は子供の名付けを父に丸投げした。父は喜んで母と初孫の名前を考えてくれたが。


 私はこの時のわだかまりが原因で第一王子のイーデルシアをあまり愛することが出来ず、後年、成長したイーデルシアと対立して大問題になるのだが、それはかなり後の話となる。


 カムライールは順調に回復し、イーデルシアも問題無く育っていた。父と母のイーデルシアに対する溺愛ぶりと、カムライールへの感謝ぶりは周囲が驚く程で、特にカムライールが死にかけながら子供を産んだ事に対しては涙さえ流して何度も何度も礼を言っていた。


 カムライールが少しづつでも社交に出られるようになると、父と母は社交の場でも口に出してカムライールへの感謝を伝えた。周囲の貴族達は当然それを見ている。父と母、そして私がカムライールに感謝と恩を感じていることは隠れもしない事実となったわけである。


 それと私がカムライールを溺愛している事。既にローデレーヨ伯爵夫人となって二年も経っていることと、彼女の父母も貴族身分に復帰して大過無くカムライールの領地を管理している事。カムライール自身の社交界での評判も良い事。そして何より王統を継ぐ男の子をカムライールが産んだということ。


 この実績があればもはやカムライールが王太子妃になる事に反対する者はいないだろう。私はカムライールが心配無くなると直ぐに、彼女を正式な妃とすべく動き始めた。勿論、もっと以前から根回しは始めていたから確認と補強が主だったのでそう大した問題は無かった。


 父と母は大賛成だし、父と母の側近にも内々に同意をとった。傍系王族の二公爵家と有力な侯爵家にも根回しをして同意を得ていた。全ての障害は取り払われた。ようやくカムライールを正式に私の妃とすることが出来る。命懸けで私の子供を産んでくれた彼女に報いることが出来る。そう思った。矢先。


 突然、隣国フロレン王国の王女、ヘルミーネとの縁談が舞い込んだのである。


 


 


 

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