3・想定外の木崎
すっかり遅くなってしまった夕飯。デリバリーのインドカレー。木崎は珍しく、腹が減ったと言ってナンを食べている。普段は遅い時間に炭水化物は取らないのに。
ヤツはかなり機嫌がいい。私といえば、激情に流されていらぬ約束をしてしまった。婚約指輪。土曜に買いに行く。そんな、『私、結婚します!』を具現化したものなんて、必要ない。だって社の人間はみんな、私の相手が木崎だと知っている。その状況であえて指輪をつけるというのは、アピールが強すぎると思うのだ。
でも木崎はどうしても、つけてもらいたいといって引かなかった。 いつだったか藤野が、木崎は私限定で独占欲が強いと言っていたけど、そのとおりなのかもしれない。そして私はそれがやぶさかではない……。
「そういや翔太に結婚いつかって訊かれたって言ってたな」
「うん。元々は紗英子さんと太一郎さんが話していたみたいで。――実はきのう、紗英子さんに木崎と結婚してほしいと思っている、って言われたの」
「『爽真』。次にまた木崎と言ったら、もう一回寝室行きな」
「無理!」
「じゃあここで」
「遠慮する。本当は仕事を持ち帰っているんだよね」
「なんだよ」顔をくしゃりとして満面の笑みを浮かべる木崎。「そんなに俺にプロポーズしたかったか」
「まあね」
きざ 、じゃなかった、爽真の機嫌は最高潮のようだ。そんな姿を見せられたら面映ゆいよ。
「姉貴が礼にディナークルーズと言ったのは、多分」と爽真。「そこで兄貴が姉貴にプロポーズしたからだよ。遠回しに俺にプレッシャーをかけたんだな」
「そうなの?」
肩をすくめる爽真。
「でね、紗英子さんがそう思う理由のひとつが、爽真はなんでも自分だけで完結させちゃうからということだったんだけど、どういう意味か分からないんだよね」
「それは俺も分からん」
上機嫌でサモサをパクつく爽真。もうひとつの質問をするか迷う。せっかくのいい雰囲気を壊してしまわないだろうか。パートナーだからって、何でも打ち明けあわなければならないわけじゃない。だけど――。
「どうかしたか」と爽真。
「あのね、もうひとつ気になることがあるの。爽真、闇落ちしたことがある?」
すっ、と爽真の顔から表情が消えた。見たことのない表情。それが何よりの答えだ。心臓を鷲掴みにされたような怖さが私を襲う。この話は事実で彼の禁忌だったのだ。
「ごめん、言いたくないのなら話さないでいいから」
「――いや」爽真が長く息を吐く。「たいしたことじゃない。カッコ悪いってだけ」
いやいや、全然そんな雰囲気ではないよ。
私を見る爽真の表情は複雑だ。
「大学でも陸上部に入ったんだよ」
うん。出身大学が陸上が強いところだもんね。爽真からは聞いてないけど、同期の誰かが話していた。
「なのに入学翌月に事故に巻き込まれて、右足骨折。歩道で信号待ちをしてただけなのに。で、紆余曲折あって俺は走れなくなった。そこから引きこもって自堕落な生活送って。――ああ、そうか。その時、誰も頼らないでひとりで復活したから『自分だけで完結』って話に繋がるんだな」木崎が微笑む。「すごいだろ、俺。何があっても自己コントロール完璧。ーーそんな顔をするなよ、莉音。競技者レベルのトレーニングができないだけで、趣味で軽く走るのはできる。知ってるだろ?」
忙しい仕事とプライベートの合間を縫って、彼は走りに行く。短い時間ではあるけれど、気分転換に必要なんだと言っている。
「知ってるよ。――木崎のプライドの高さも、負けず嫌いも、走るのが好きなことも」
木崎の表情が一瞬崩れる。
紗英子さんは、木崎が闇落ちしたら私が助けてくれそうと言ったらしい。それは自己完結してしまう木崎が、私には支えさせてくれるという意味なのだと思う。
「安心して。私の目の黒いうちは、木崎を闇落ちなんてさせない」
木崎がゆっくりと笑顔になる。
「ライバルがいなくなると張り合いがないでしょ? それにこれからは、……パートナーでもあるし」
「そこで照れるか。さすがアホ可愛い喪女」
「うるさい、厚顔」
木崎が椅子を引き、
「こっち来い」と膝を叩く。
「食事中」
「襲わないから」
本当かな。
席を立ちテーブルを回ると、木崎の膝に横向きに座った。とたんに抱きしめられる。ヤツの顔は見えない。
「あのときの俺は、人生終わったと思った」
「うん」彼の手に私の手を重ねる。
「だけど陸上をやめたから今の会社に入って、莉音に会えた。結果オーライなんだよ」
「うん」
身動ぎをしたけどやっぱり顔が見えないので、木崎の手を取ってキスをした。
「木崎が好き」
恥ずかしい! けど素直は大事だからね。
「ん。俺も。莉音が好き」
彼の頭が動き、ちゅっとキスをされる。
「で、寝室行きでいいんだよな」
「なんで?」
「木崎って呼ぶなと言ったばかりだぞ」
「あ……」
ふたたびちゅっとされる。
「でも仕事があるんだよな。仕方ねえから、明日に延期してやる」
「それならいいよ」
「予約」
ちぅっと首筋を吸われる。いつもならあとをつけるなと怒るところだけど、今日はがまんしておいてあげよう。
◇◇
結局、爽真もやりかけの仕事があったようで私はダイニング、爽真はリビングでやることになった。爽真がノートパソコンを開くのを後ろからなんとはなしに見ていると。画面上部に大きく出ていたのは『プロポーズ体験談』の文字。慌ててブラウザを閉じる爽真。私はとっさに視線を自分のパソコンに向けた。
今見たものと状況を考える。私が帰って来たとき、あのノートパソコンはダイニングテーブルに出ていた。慌てたような物音もした。まさかとは思うけど、爽真もプロポーズしようと考えている真っ最中だったのだろうか。
『先に言われて死ぬほど悔しい』と言ってたし。
自己チューで好き勝手にふるまっているように見えるアイツが、わざわざ体験談を読んでいたなんて。
複雑な感情がうずまく。嬉しい。でも爽真のプロポーズも受けたかった。なんて言ってくれるつもりだったのだろう。
◇◇
夕方、一息を付こうとカフェコーナーに向かうと、藤野がひとりでコーヒーを淹れていた。
「お、宮本」
「お疲れ、藤野」
「コーヒー? 淹れようか」
「ありがと。お願い」
「おめでと」
「何が?」
藤野が振り向いて意味深な顔をする。
「もしかして木崎から聞いた?」
きのうのプロポーズのこと。
「聞いた。まさか宮本から言うとは。予想外だよ」
「そう?」
「俺と高橋のアプローチにこれっぽっちも気づかなかった、激ニブ宮本と同一人物とは思えない」
藤野、にっこり。
「ごめん」
「なんてな。宮本の態度は一貫してるよ。良くも悪くも木崎しか眼中にない」
「そんなこと――あるか」
「ついに認めたぞ」笑いながら藤野ははいりたてのコーヒーを渡してくれる。「悔しいから御祝儀袋には二万円を入れてやろう」
「陰険!」
「横からかっさらっていった木崎のほうが悪い」カップを口に運び、ひとくち飲む藤野。「でもまあ、今回は面白かった」
「今回?」
「木崎がプロポーズの先を越されたって、しょげている」
しょげ!?
「あいつはずっと、俺が鈍感宮本にスルーされるのを楽しんでいたからな。ようやく俺があいつの残念具合を楽しむ番が来たってわけだ」
「木崎はしょげているの?」
「ほら、そこしか聞こえていない」
「え?」
「いや、いいよ。――だいぶな。もちろん宮本からプロポーズされたことには大喜び、というより有頂天だよ。地に足がついてない」
それほど!?
「でも」と藤野。「宮本の心に残るプロポーズにしたくてシチュエーションからセリフまで、相当考えていたらしい」
きのう木崎越しに見たサイトを思い出す。
「速攻即決がウリのくせに、もだもだしてるからだよ。――宮本がうまく対処してやって」
「藤野」
「俺は『いいヤツ』がウリだから」
藤野は笑顔のまま、『じゃ』と片手を上げて踵を返す。
「ありがと」
藤野は答えず、ひらひらと手を振って歩き去っていった。
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