6・2 告白の想定外

 修斗が私の悪口を言っている。

 どうしてそこまで、私を嫌いになってしまったのだろう。悪態の端々に、私が仕事バカすぎるという内容が出てくるから、余程そこが気に入らなかったのかもしれない。けっして修斗を蔑ろにしていたつもりはなかったのだけど。


 止まらない悪口に空しくなるけど、もうかなり昔に終わったことだ。

 水族館のときのようにウザ絡みをされたくないから、みつからないよう、ここを出ないようにしよう。







 ――と思ったけど。私の名前を連呼しながらの悪口は悪化して、作り話だらけの聞くに耐えない下世話なものになった。修斗の連れたちが『莉音が可哀想だろ』、『店内だぞ』と注意してるが、止まらない。


 左隣の子が私に顔を寄せ、

「後ろ、ひどい話してるね。最低」

 とささやく。

「そうだね」

 と答える。けど、我慢の限界だ。ちょっと一発殴ってこよう。


 立ち上がろうと椅子を引いたら、誰かにぶつかった。木崎だった。目が合う。

「ちょっとトイレ」と木崎。「ついてくんなよ」

「誰が!」

 木崎に続いて暖簾をくぐろうとしたら、何故か押し戻された。

「お前はあとにしろ」


 まあ確かに。文句をつけるなら木崎が去ってからがいいか。

 ひらひら揺れる暖簾の隙間から通路を見ると、修斗は一番近い卓にいた。木崎がその横を通り過ぎようとして――


 突然、木崎は卓上のビールジョッキを取り上げると、修斗の顔に勢いよく中身を浴びせかけた。


 バシャリという盛大な水の音。


「ああ、悪い。酔いすぎて足がもつれたわ」

 しれっとした木崎の声。

「なにやってんのよ!」

 慌てて通路に飛び出ると、木崎が振り返りもせずに

「いや、ぶつかっちまった」と、しらじらしく言う。「お前はあっちで飲んでろ」


 びしょ濡れで呆然としていた修斗が私に気付いて我に返り、血相を変えて立ち上がった。

「何すんだっ!」

「悪かったって」

 そう言った木崎はズボンのビスポケットから長財布を取って中のお札を抜くと、卓上にバン!と置いた。一万円札が数枚ある。

 修斗の目がそれに釘付けになった。


「クリーニング代」低く抑えられた声。「これ持って、さっさと帰れ。下品なんだよ。こっちは楽しく同期会してんの。あんたの連れだってどん引きしてたのが分かんねえの?」


 前からはタオルを持った店員がふたり、駆けてくる。後ろからは同期がふたり顔を出して、

「どうした? 木崎か? 何があった?」

 と尋ねてくる。大丈夫、私が対応するからとふたりを押し戻していると、更に木崎が


「あれ、あんた見たことあるな」と言い出した。「先週、ドームのヒーローショーに家族で来てただろ。凄まじい夫婦喧嘩を始めて、警備員に外に出されたヤツだよな」

 振り返ると修斗の顔が強ばっていた。

「嫁さんに今度こそ離婚だって叫ばれてたけど、回避できたのか? あの時もずいぶん下品なののしり合いをしてたよな?」


 『嫁さん』? 木崎は嫁さんや奥さんという言葉を使わないはずだ。きっと彼なりの嫌味だ。

 店員がオロオロと修斗と木崎を見比べている。


「酔っぱらいは席に戻って。後の対応は私がするから」

 木崎を押しやり、店員とかつてのサークル仲間に、すみませんと謝る。それから修斗を見た。

「お店が開いているうちに、着替えを買いにいったほうかいいですよ」

 他人のフリをして、限りなく冷淡に言い放つ。

 修斗は険しい顔で私と木崎を順に見て、それから卓上の紙幣を乱暴に掴むとふいっと踵を返した。タオルを貸してくれた店員にお礼も言わない。


 サークル仲間も他人のふりをしてくれるようだ。何も言わずに気まずそうな表情で私に頭を下げて、伝票を手にした。それを私が押さえる。

「うちの者が失礼をしたので、こちらは私が」

「いや――」彼は私の背後に視線を向けた。まだそこに木崎が立っている。「こちらも迷惑を掛けた。彼は多分、俺の足につまずいたんだろう。すまなかった」


 どうやら、そういうことにしてくれるらしい。お互いに無言で頭を下げ合う。彼らが修斗に味方しなくて良かった。そうしてサークル仲間も帰って行った。


 濡れたテーブルや椅子、床を拭く店員たちに、木崎が迷惑をかけたと謝っている。私も並んで謝る。店員は硬い笑顔で、『お怪我がなくて何よりです』と言ってくれた。あの瞬間を見たのかどうかは分からないけど、出ていけと怒られなくてほっとする。


 木崎が私の耳元に顔を寄せ、

「詫びの菓子折りを買ってくる」

 と小声で言うと、私の返事を待たずに出口に向かった。

 急いで暖簾をくぐり半個室に戻る。と、私が座っていた椅子に藤野が座っていた。


「大丈夫か?」

「うん、なんとか。お店にお詫びの品を買ってくる。ごめん、騒ぎになって」

「木崎が転んだのか?」

「うん。座っていた人の足に引っ掛かったみたい」

「そう」

『あの木崎が?』なんて声が上がるけど、聞こえないふりをする。木崎がわざとビールをかけたとは、気づかれていないようだ。


「ごめん、足元いい?」

 床に置かれたカゴから鞄を取り、財布を出す。

「ちょっと行ってくるね」

「宮本」と藤野。

「なに?」

「悪いけど、頼む。俺、木崎とケンカ中で、もうずっと口をきいてないんだよ」

 そう言った藤野は爽やかな笑みを浮かべていた。

「……そうなの? 何で?」

「言っただろ、『多分、そのうち』って。ほうっておきたい気持ちは山々だが幹事として見過ごせないから、あいつをよろしく。ケンカするなよ」

「分かった」


 財布を握りしめて、小走りに木崎のあとを追う。



 ――木崎はビスポケットに財布を入れていた。普段、そんなことをしているのは見たことがない。明らかに無理やりで、落ちそうになっていたし。

 あいつは最初から、修斗に飲み物を浴びせてクリーニング代を出すつもりだったのだ。


 半個室を出るとき、私について来るなと言ったし、あれはただ下品な話に腹が立ったという訳ではないと思う。いくら酔っぱらったって、見ず知らずの人間に絡むようなヤツじゃない。

 今まで何度となく同期会や営業部合同の飲み会で一緒になってきたけど、そんなことをしたことは一度もないのだ。


 信じがたいけど、木崎は私の悪口を止めに行ってくれたのではないだろうか。


 だけどどうしてそれが分かったのだろう。修斗の声を覚えていた? 私の名前が莉音だと記憶していた? 私は木崎の下の名前なんて覚えていないけど。

 でも両方が揃っていないと、分からないと思う。

 それとも私がまた、変な顔をしていたのだろうか。


 だとしても、こんなのは木崎らしくないにもほどがある。嫌いな私のためにすることじゃない――。



 ◇◇



 店の入る雑居ビルを出たところで、人混みの中に木崎をみつけた。少し先を歩いている。

「待って、木崎!」

 叫ぶと足を止めて振り返る。いつもニヤついているくせに、今は無表情だ。

「ひとりで行ってくる。宮本は戻れよ」

「お金、私が払うから」

「菓子を買う金くらい残ってる」

「違う、クリーニング代!」

 木崎に追い付く。

「あれは俺がよろけたんだから、」

「嘘! テーブルにあったジョッキを木崎が取ったんじゃない!」

 木崎が眉を寄せた。

「……ついてくんなって言ったのに」

「見えたの! 隙間から!」


 木崎は顔をそむけて、ため息をついた。


「宮本、ほんとに男の趣味、悪すぎ。なんだよ、あのクソっぷり」

「……やっぱり私の元カレだって気付いてたんだ」

「……忘れるかよ、あのアホな顔と口調。先週のショーで見かけたばかりだしな」

「私が払うから」

「構わねえよ」


 木崎はくるりと半回転して歩き始める。


「待ってってば。――ちょっと、こっち」

 ヤツの腕を引っ張って、人気のないビルに隙間の細道に入る。

「払うから」

「いいって言ってんだろ」

「よくない。私が出す」

「あんなクズに宮本が出す必要はねえっての! もう切れているんだろ?」

「だって木崎、私にお金を使いたくないはずでしょ! 私だって木崎に使われたくないもん」


 手元を見て財布を開けようとしたものの、なぜか震えてうまくできなかった。

 涙がポロポロとこぼれる。


「宮本!?」木崎の焦った声。「そんなにショックだったのか」

「違う」

 顔を上げ、木崎を睨む。

「最近の木崎、おかしいよ。気遣いしすぎ。私のこと嫌いだよね? 私たち犬猿の仲でライバルだよね? なのになんでこんなに気遣いするのよ!」

 こんなんじゃアレの封印が解けてしまう。


「宮本……」

 木崎が困った顔をしている。そんな表情を見るのは初めてだ。


「優しくしないでよ」

 手の甲で涙を拭う。

「……木崎のこと、好きになっちゃったじゃない。どうしてくれるのよ」


 言ってしまった。心臓がバクバクし過ぎて苦しい。

 でも多分、大丈夫。最近の木崎を見ていると分かる。私がこんなことを言っても態度は変えないだろう。今まで通りに振る舞ってくれるはず。だから私も本心を口にするのは、これっきり。


「だから木崎に払わせたくないの。分かってよ」

 羞恥に耐えられなくて、再び財布を見る。

「幾ら?」

 視界に木崎の手が入ってきて、財布を開けようとする私の手に重ねられた。


「俺だって宮本に払わせたくないんだよ。気遣いの鬼ではあるけど誰にでもな訳じゃねえし、優しくなんて――」

 木崎の手が離れ、今度は目尻に触れた。

「――好きな女にしか、しねえよ」


 顔を上げると目が合った。


「……うそ」

「嘘じゃねえよ。そっちこそ。俺を騙そうとしてないか? 宮本は俺のこと、嫌いじゃん」

「今は違う」

「そうか」


 木崎は顔をくしゃりとした。心底嬉しいかのように。


「……私、ゆるふわ可愛くないけど」

「そんなのより宮本のほうがいい。好きだ、宮本」

「……うん」



 なんてことだ。フラれるつもりで告げたのに。

 あれ? 好きと伝えて、好きと返事をもらったらどうすればいいんだろう?

 ええと?


 あまりに想定外の展開に、理解が追い付かない。私は恋愛経験が少ないのだ! 告白なんてしたのは、これで二回目。前回は……11年前だ。

 え?

 よろしくお願いしますって言えばいいの?

 頭の中がぐるぐると回る。


「とりあえず、菓子折りを買いに行くか。空いてる店を探さないと」

 と木崎。

「あ、そうだね」

 そうだそうだ、それが最優先だった。テンパりすぎて大事なことを忘れていた。


「宮本」

「なに?」

「今、焦ってるだろ。目がうつろ」

「そんなことない」

 木崎が楽しそうにくっくと笑う。

 更に言葉を継ごうと思ったけど、やめにした。木崎が楽しそうに笑うと私も楽しいと気付いてしまったのだ。



 ◇◇



 無事に菓子折りを入手し、居酒屋の入るビルに向かう。

「そういえば藤野となんでケンカをしてるの?」

「何で知ってるんだよ?」と木崎が私を見る。

「藤野が言ってた。ずっと口をきいてないって。菓子折りを買いに行くって伝えたときに。ケンカ中だから自分は関わらないって」

「……お前、ほんとアホ喪女だよな。劇的にニブすぎる」

「何でよ!」

「藤野にそれを言われて、俺とこうなって、何で分かんねえんだよ。原因は宮本に決まってるだろ」

「私!? あ、もしかして高橋のときと同じパターン!?」

「そうだよ、鈍感」

「だってモテたことないもん。分からないよ」

「絶対に違う。宮本が気付いていないだけだ」

「そんなこと、」

「あるね。お前ほんと、気を付けろよ。高級料理や酒をちらつかされても、ついて行くんじゃねえぞ」

「そんなことしないよ、幼児じゃあるまいし」

「今回の同期会」

「うん?」

「最初に藤野に『旨い店があるから、行かないか?』って誘われただろ」

「うん」

「藤野はデートに誘ったんだよ」


 そうなのか。全く気づかなかった……。

 でも美味しいお店の話なんて顧客ともよくするし、それだけでデートだなんて普通分からなくないかな?


「鈍感を自覚して、気を付けろよ」

 でもまあ、心配されるのは嬉しい。

「分かった」

 と素直に答える。

 木崎が『全くアホ喪女が』とブツブツと言っている。

 なんだか今までの関係とあまり変わらないような。


 居酒屋の入るビルに着く。店は階段を降りたところの地下一階。だけど木崎は降りずに足を止めた。


「宮本は二次会に行くのか?」

「行くよ、幹事だからね」

「出るのはそこまでな。終わったら撤収。絶対」

「いいけど」

「それと、飲みすぎんなよ」

「何で? 私、弱くないから大丈夫だよ」

「宮本の選択肢はふたつだけだ」

「何それ」


 木崎はニヤリと悪い笑みを浮かべた。


「俺にお持ち帰りされるか、俺をお持ち帰りするか。二次会が終わるまでに決めておけよ」

「……」


 お持ち……?

 木崎は階段を降りて行く。

 え、お持ち帰り!?


「ちょっと待って、木崎! 展開、早すぎない!?」

「言っただろ。三十はピュアじゃねえの。二次会は我慢してやるから、その間に覚悟しとけ」

 顔は見えないけど、声は上機嫌だ。

「待って、私、リアルな恋愛は八年ぶりなの! 急には心構えが!」


 木崎が止まり、私を見上げる。


「『リアル』ね」ニヤニヤ顔だ。「ゲームキャラより俺のほうが百倍いい男だから、安心しとけ」

「それは、」

『ない』とつい条件反射をしてしまいそうになり、言葉を呑み込む。


「あとな、今の言葉は俺を煽っただけ。宮本、アホ可愛いな」


 可愛い!

 私が?

 でもアホ?


 跳ね上がった心臓が邪魔で、咄嗟に切り返せない。

 ニヤニヤ顔の木崎は、

「めっちゃ楽しみ」

 と嬉しそうに言って、居酒屋の扉を開けた。


「ほら、早く来いよ。遅れをとりすぎだぞ。それでも俺のライバルか?」


 なんだそれは。木崎だって煽っているじゃないか。そんな風に言われて、私が黙っているはずがないと知っているくせに。


 ぐっと覚悟を決めると、ダダダっと階段を駆け降り、扉をくぐると振り返った。

「勝負は最後まで分からないものでしょ」

 木崎はまたも顔をくしゃりとして、

「やっぱ、宮本だわ!」

 と楽しそうに笑ったのだった。

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