6・1 想定外の状況

 気付いたらクローゼットの隅に追いやられていたフレアスカートを手に取っていた。昨年、休日に履こうと買って、二、三回しか着なかったもの。ブラウンの膝丈。

 可愛いというよりは大人系デザインだ――。



 急に冷静になる。

 私は何をしているんだ。



 帰宅してスーツを脱ごうとしただけなのに。スカートを戻して代わりにハンガーを手に取り、クローゼットの扉を閉める。だけど気力が湧かず、ベッドに腰かけた。ハンガーを握る手を見る。何もしていない、ただの手だ。


 最後にネイルサロンに行ったのはいつだっだろう? 派手な爪には出来なかったけれど、以前はピンクベージュ一色のジェルネイルなんかはやっていた。


 黒いパンツスーツばかり着るようになったのは、面倒だからという理由だけじゃない。だけど面倒なのも事実だ。

 営業なのだから信頼感と清潔感が第一で、可愛さなんて必要ない。

 それにそもそも私には、ゆるふわ可愛いなんて似合わない。

 いや、似合わなくていいのだ。似合う必要なんてない。


 頭の中を、直視したくないことがぐるぐる回っている。


 と、突然、上着のポケットでスマホが震えた。社用スマホを入れっぱなしにしていたらしい。

 取り出し確認すると、木崎からのメッセージだった。心臓が跳ね上がる。


 なんてタイミングだ。間の悪いヤツめと悪態をつきたい。でもきっと、仕事に変更でも出たのだろう。

 アプリを開く。目に飛び込んできたのは


『週末、一緒に走らないか?』


 というシンプルな一文。


 何これ?

 仕事の話ではないよね?

 休日のお誘い……で、いいんだよね?


 他に意味があるだろうか。私が自分に都合良く、解釈しているだろうか。

 そう考えて何度も読み直してみるけど、やっぱりただのお誘いに思える。


 スマホを持ったまま固まっていたら、新しくメッセージが届いた。『また具合が悪くなるとマズイだろ』と。

 なるほど、気遣いの鬼は心配してくれているらしい。嫌いなはずの私を。




 ――どうしてこんなに気持ちが浮き立つのだ。

 相手は木崎だ。入社以来の犬猿の仲で、どうにもこうにも反りが合わないと思っていたじゃないか。

 木崎も、何で急にこんな対応をするんだ。最近あまりに、優し過ぎる。



 しばらく考え、それから『週末は母が上京するから、走らない』と嘘のメッセージを返した。

 立ち上がり、鞄から私用スマホを取り出すと、ゲームアプリを立ち上げる。『トゥエルブスターを撃ち落とせ!』。私の推しキャラ、真面目で誠実、寡黙で質実剛健な黒騎士に癒されたい。


 だけどその麗しきご尊顔を見ても、玲瓏な声を聴いても、気分は晴れなかった。





 考えたくない。あいつとは八年も犬猿の仲だったのだ。今更、好きになるなんて、あり得ない。

 修斗にフラれて以来誰にも惹かれなかったのに、ようやく好きになった相手が木崎なの? アホすぎるでしょ、私。


 ちょっと気遣いされたくらいで、こんなになるなんて。私、チョロいにもほどがある……。





 ◇◇





 店員が私の目の前のテーブルにまとめて置いたジョッキを見ながら、

「生ビール誰? あとハイボール、ウーロンハイ」

 と声を上げる。


 金曜夜。全国チェーンの居酒屋、半個室。久しぶりの同期会。当初予約していたお店が今朝、なんと食中毒で営業停止になってしまった。延期にするか店を変えるかで意見を募り、後者となった。急な変更を藤野が頑張って対応してくれたから、開催できた。


 藤野はいい人だ。優しいだけでなく頼りになる。佐原係長の言葉を借りれば、優良物件なのだろう。しかも私が気まずくならないよう、以前と変わらない態度でいてくれる。

 高橋のほうは私の良心が疼くほど、見るからにしょんぼりしていている。


 もっとも佐原係長によれば、どちらも私の心に訴え掛けるための作戦らしいけど。




「いいよ、宮本。今日、全然じっとしていないじゃない。落ち着いて飲みなよ」

 腰を浮かせ掛けた私に左隣に座る同期の女子がそう声を掛けてくれる。

「でも急にお店、変わっちゃったからさ」

 答えにならない返答をしてごまかす。落ち着かないフリをして、藤野と木崎から距離をとっているのだ。なるべく視線が合わないよう、会話を振られないよう、気をつけている。

 だけど今、藤野は斜め左前、木崎はひとり置いた右側に座っていて、けっこうキツイ。


「ほんと、ごめんな」と藤野が私を見た。

 しまった目が合ってしまった。でもこの話では仕方ない。私の話題選択ミスだ。

「藤野のせいじゃないでしょ。むしろ今日の今日で店を取ってくれて、ありがと」

『さすが藤野!』という声が上がる。


「宮本」と藤野。柔らかな笑みを浮かべている。「魚の旨い店は他にもあるから 、来週行こう」

 やられた。この場でこれは断りづらい。無難に答えて――

「宮本、ドリンクメニューをくれ」

 藤野とは反対側から声がかかる。木崎だ。

「そうだね、そのうち」と藤野に答えてから木崎を見る。「知るか。自分で探して」

「幹事なんだろ、寄越せ」

「ほら、ケンカしない」と私たちの間に座っている男が仲裁に入ってくれる。「って、木崎、まだビール、半分あるじゃん」

「次のを選びたいんだよ」

 どこからかメニューが回ってきたので木崎に渡す。藤野はこの話題を終わりにしてくれたようで、隣の人と話し始めた。


「お前たち、今、組んで仕事してるんだろ? そんなんで大丈夫なのかよ」と間の男。

「仕事は別」

 木崎と私の声が重なり、彼が笑う。

「仲が悪いんだか、いいんだか」

 すかさず

「いいわけないでしょ」

 と反論する。


 木崎への態度は変わっていないつもりだ。細心の注意と最大限の努力で、認めたくないアレを封印している。

 目先が利く木崎でも、何も気付いていないはず。ヤツはジョギングの誘いを断ったことも気にしていない。そもそもその話題すら出ていない。


 そのまま隣の男と話し込む。

 私たちの背中側は暖簾が下がっているだけの出入り口で、通路に通じている。その向こうには普通のテーブル席が幾つかある。店に入ったときは空席だったけど、今は人が入ったようで話し声がけっこう聞こえてくる。ということは、こちらの話も向こうに聞こえるということだ。


 当たり障りのない、彼の四歳の息子さんののろけ話を聞く。スマホが出て来て写真披露が始まる。

「そういや木崎」と彼が木崎を見た。「日曜にヒーローショーに来てなかったか」

「ああ」とうなずく木崎。

「やっぱりか! お前、なんだよあの子供! 隠し子か!?」


 周りがざわつく。


「アホか。甥っ子だよ。姉貴の子。家が近いから時々頼まれるんだ。義兄が出張が多い人だから」

「なんだ、つまんね」


 笑いが起きる。『木崎なら隠し子がいそう』なんて声が上がる中、どっと力が抜ける。

 いや、別に子供がいてもいいんだけど。木崎はただの仲の悪い同期なんだから。


「木崎、子供なんて蹴散らして歩きそうなのに」と誰かが笑う。

「いや、めっちゃ懐いてたよな」と隣の同期。「だから木崎かどうか自信がなかった」

「俺は子供好きのいい叔父貴だぞ?」

「なら早く結婚しろよ、遊んでばかりいないで。自分の子供は可愛いぞ」


 木崎が子供好きなんて意外すぎて新鮮だけど、その後はあまり聞きたくない話題だ。さりげなく顔の向きを変える。と、藤野と目が合った。更にさりげなく視線を逸らして左隣の会話に加わる。


 彼女たちとしばらくの間とりとめもない話に花を咲かせていたら、通路のほうから聞き覚えのある声で『りおん』との単語が聞こえ、その瞬間に息をのんだ。


 自分の名前ではない、知っている声ではないと願いつつ、通路の外に神経を集中する。

 だけど私の願いはすぐに打ち砕かれた。

 外の席に修斗がいる。恐らくサークルの仲間ふたりと一緒に。

 そして私に偶然再会したことを、悪意満々で語っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る