3・1 先月の想定外事件

 外回りから戻りエレベーターホールに向かうと、ちょうど一機の扉が開いていた。ふたり乗っていて、上階のランプがついている。

「乗ります!」

 そう声を掛けてから中にいる人が誰だか気づいた。第三営業部の綾瀬。変わり者の木崎信者だ。


 バチリと目が合う。


 そのとたんに綾瀬は、ものすごい勢いでパネルのボタンを連打し始めた。扉がしまり掛ける。

「何をしてるんだ」

 と綾瀬の後ろにいた人物が彼の頭をはたき、反対の手をパネルに伸ばす。と、扉は開いた。


「ありがとうございます」

 と言って乗り込む。綾瀬を叩いたのは第三の課長だった。扉が閉まり、上昇する。

「悪いな、宮本。綾瀬は悪いヤツじゃないんだが、時々バカになる」

「ご心配なく。嫌われているのは分かってますから」

「だって!」と声をあげる綾瀬。めちゃくちゃ不満そうな顔だ。「何で宮本先輩が木崎先輩と組んでいるんですか! 部署が違うのに! あなたたちは誰もが認める犬猿の仲でしょう! 僕だって先輩と組みたいのにズルい! 代わって下さい!」

 課長がまた綾瀬の頭を叩く。

「係長と呼べ、か・か・り・ちょ・う!」

「『係長』っておじさんくさいじゃないですか。木崎先輩には似合いません! 先輩に使わない以上、宮本先輩にも使えません」


 課長がため息をつく。

「……これでも仕事はできるんだ」と、私に向けて言い訳するかのように呟く。

「ご苦労、察します」

「木崎のことさえなければ、普通なんだがなあ」

「木崎先輩は僕の神なので、『無い』なんて可能性を考えるだけ無駄です」

 世間では可愛い系と言われる綾瀬が、キリッとした顔でのたまう。なかなかに残念なヤツだ。


「とにかく僕は断固抗議します。木崎先輩と組みたい他部署の人間はヤマといるのに、よりによって宮本先輩だなんて!」

「羨ましかったら、第三のエースになるのね。そうしたら木崎も指名してくれるかもよ」

「っ!」

 綾瀬の目の色が変わった。

「なるほど、先輩に認められる実力を付けるのが一番の近道ということか。そうだ、エース級になれば第一に転属させてもらえるかもしれない。――分かりました、頑張ります!」


 な、なんて単純なヤツ。

 課長は、

「おー、がんばれ」

 と冷めた口調で応える。


 チン!と音がして扉が開いた。第三営業部がある階だ。

「宮本先輩、首を洗って待ってて下さい! 木崎先輩と組むのはこの僕だ!」

 綾瀬はそう捨てゼリフを吐いて、降りていった。


「その頃には、水族館の仕事は確実に終わっているよ」

「それはな」と課長。「でも案外、あいつがエースと呼ばれるようになるのは、そう遠くない日かもな。綾瀬の木崎にかける情熱は命懸けだから。良い発破のかけ方だった」

 課長は笑いながら綾瀬の後を追った。


 扉が閉まる。

 命懸け、というのは比喩ではない。


 先月、営業部合同で三十歳以下の若手向けの研修があった。四年に一度(オリンピックか!)に行われる大規模なもので、二泊三日の宿泊を伴う。研修も宿泊も同じ施設だ。

 この研修でボヤ騒ぎがあったのだ。二日目の夜遅くで、ほとんどの社員が仲間内で飲んでいるか、寝ているかという時間帯だった。


 幸いすぐに火元が分かり施設の職員が消化してくれたけれど、全員が外に避難し消防車が何台もやって来るような大事だった。

 このとき綾瀬は、いったん外に出たのにまた中に入ろうとしたらしいのだ。その理由が、木崎にもらったお守りを部屋に忘れたから。

 一緒にいた第三の社員数人で綾瀬を羽交い締めにして、やめさせたという。


 営業部のみならず、会社中がこのことを知っている。

 何がどうあったらそこまで上司、しかも他部署、に心酔できるのか不思議すぎる。





 ――それにしてもあのボヤ騒ぎは怖かった。火事を知らせる非常ベルが鳴りだしたとき、私は打ち合わせの最中だった。

 集まっていたのは研修実行部と、参加社員の中の役職付き。


 私を含めみんなが動揺するなか、研修の責任者である課長が言った。『酔いつぶれて火事に気づかない者がいるかもしれない。ここにいる者で分担して確認しに行き、避難誘導を行う』と。


 その時、館内放送がかかった。恐らく施設の人か守衛かによるもので、全員速やかに建物外に出るようにという指示だった。


 アナウンスを聞いた課長は、どうするか迷っているようだった。そこに木崎が

「外に避難した社員の点呼が必要ですね。逃げ遅れが何人いるのか、消防に伝えたほうがいいはず」

 と言ったのだ。


 それで誘導は無しになった。幸い逃げ遅れた社員はおらず、火事も火元の厨房が一部焼けただけで済んだのだった。


 あの時の木崎の一言には正直、感謝している。私は点呼も消防隊のことも頭になかった。自分で思っていた以上にパニックになっていたのかもしれない。肝の座り方は、さすが木崎と認めない訳にはいかなかった。





 エレベーターの扉が開く。降りると下り待ちらしき木崎がいた。

「おう、宮本。お疲れ」

 そう言ったのは木崎の隣に立つ第一の課長で、木崎は

「出掛けに宮本かよ、縁起が悪い」

 といちゃもんをつけてきた。


 課長に挨拶を返してから、木崎を睨む。

「綾瀬に絡まれたんだけど。弟分ならちゃんと指導をしてよ」

「簡単だ。宮本が俺を崇めれば一発で態度を改める」

「木崎が私を敬えば、ならうんじゃないの?」

「絡まれたのは、水族館の件でか?」と課長。

「はい」

「話題になっているもんな。お前たちが組んで、吉と出るか凶と出るか」


「吉です! 木崎は嫌いですけど!」

「大吉以外あり得ない。宮本とは合わないですがね」


 木崎と私の声が重なる。いや、発言内容も丸かぶり。


 ふはっ、と課長が吹き出す。

「確かに、上手く行きそうだ。息がぴったり」

 ぴったりじゃない、と抗議しようとしたけど木崎も言いそうな気がして、やめる。横目でヤツを伺うと、バチリと目があった。

 すかさず、

「宮本とぴったりでもな」

 との言葉が飛んでくる。

「そっくりそのまま返す」

「6:4で木崎に軍配」と課長。

「何がです?」

「自信。木崎は大吉なんだろう?」


 と、チン!との音と共にエレベーターの扉が開く。下りだ。


『行ってくる』と言う課長に、『行ってらっしゃい』と頭を下げる。木崎は私を一瞥もしないでエレベーターに乗っていった。




 ◇◇




 代打で水族館の仕事をした翌々週の夕方。木崎と私はふたりで銀座のギャラリーに来ていた。

 入っているのは細い路地に面した古く狭いビルで、華やかさも銀座感もゼロ。ここ七階まで上がってきたエレベーターは四人乗ったら隙間がなくなるというくらいに小さく、しかもぎこちない動きをしていた。




「……これ、分かる?」

 隣の木崎にこそりと囁く。

「いや、全く」

 囁き返してくる木崎。

 目の前には赤茶けた色をした金属のオブジェ。ドロドロに溶けたスライムにしか見えないけれど、タイトルは《虹》だ。全く意味が分からない。


 そっと背後を見る。五人の大学生らしき男女が歓談していて、私たちには目もくれない。それはそうだろう。スーツにビジネスバッグの三十路は場違いだ。



 何故こんな状況になっているかというと――。





 今日は約二週間ぶりに水族館に打ち合わせに行った。仕事は順調。何の問題もなく終わり、最後に雑談をしていたときだった。先方の部長という人がふらりとやって来た。最初は水族館に関することや世間話をしていたのだが、『さて我々はそろそろおいとまを』と私たちが腰を上げたときに、部長が『そうだ!』と声を上げたのだ。


「君たちの会社は新橋だったね。銀座九丁目に近い側かな?」

 そう訊く部長に木崎と私は、はいと答えた。すると部長は相好を崩し、

「それなら帰りにぜひ寄ってくれ」

 とスーツのポケットからポストカードを取り出した。五つの写真が載っている。

「愚息が芸術系の大学に通っているのだがね。ちょっとばかり縁があって、友人と一緒に初の個展、いや、グループ展を開いたんだよ」

 部長は写真のひとつを指差した。

「これが愚息の作品だ。面白いだろう?」

「……心を揺さぶってくる造形ですね」と木崎。

「君、素晴らしい審美眼を持っているじゃないか!」





 ――ということなのだ。私も木崎もこの後に、それぞれ来客と会議がある。

 だけど『展示をしているギャラリーは狭い一間で数分で見終えることができるから』と部長が言うので、社に戻る前にここに立ち寄ることにしたのだ。


 ギャラリー入り口には芳名帳があったので、しっかり名前を書いた。これで見に来た証拠はできた。

 ただ、部長のご子息の作品は、私にはちょっと意味がよく分からなかった。


「これ、買えるんだな」と木崎。

 木崎の指がさすものを見る。それには、タイトルプレートに赤い丸いシールが貼ってあるのは売約済み、と書かれていた。ということは隅にある数字はきっと値段だ。学生の作品として高いのか安いのかは分からないけど、買えないことはない金額だ。だけど。


 部長子息の作品は四点。どれも赤シールはついていなかった。


 木崎が背後の若者たちを見る。

「すみません。買いたい場合はどうすれば?」



 ◇◇

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る