第2話 金沢~『主計町茶屋街』

 民宿『二見館』は、親不知駅から5分ほどの県道525号線沿いに、ひっそりと建っていた。

出迎えてくれたのは、電話に出た年配の女性であった。迎えに来てくれた男とは、夫婦であるらしい。部屋は四室ほどの小さな宿である。

「良くいらっしゃいました。でも、あなた達は運がいいわ。普段はめったに満室なんかにならないんですよ…、でも、今日はこの雪ですから…」

「良かったわ。ほんとに助かりました。あのまま列車の中で過ごすなんて、考えて見ても………」紗月は、安堵した表情を見せると、達也の顔を見た。

「ほんとですね・・・」

夫婦とは思えない達也の言葉に、女将は二人の顔を見比べている。

「きょうは、この雪で大したお料理は出せなくて……」

女将が申し訳なさそうに説明をした。

「いえ、温かい風呂と布団さえあれば、それだけで・・・」

達也の言葉に、さも安心したかのように、女将は相を崩した。


 部屋は、十畳ほどのごくありふれた設えであった。低い座卓と、座椅子が

二脚、そして小さなテレビがあるのみである。しかし、列車の中で過ごすことに比べれば温かい部屋は、天国であった。

使い込まれた座卓の上に、宿帳が置いてある。達也は、気が付くと少し戸惑いながらも書き始めた。それは、決して厭な感情ではなく、ある種の恥ずかしさを伴うものであった。 住所を、神奈川県湘南市富士見台2丁目****、名前を、上条達也と書いた。 

「この横に、あなたの名前を書いて下さい。本名でも偽名でも構わないと思いますが・・・」達也は、気を使いながら女にペンを渡した。

「カミジョウ タツヤさんて、本名かしら?」

「ええ、本名です」

「では、私も本名を書きますわ、萩原紗月って。……でも、名前だけにしようかしら…、名字を書くと夫婦に見えないでしょ」

「そういえば、そうですね」

二人して男と女の名前が並ぶ宿帳を眺めていると、不思議な感情が湧いて来る。


「何か不思議なご縁ね。知らなかった二人が、突然夫婦みたいになったりして」

「ほんとですね。これも運命のいたずらというか・・・」

「ほんとうに…。だったら達也さん、女将さんの前では、もう少し砕けた言葉遣いでも良いと思いますけれど…」

「確かに、・・・そうですね」

「可笑しい…、男の人ってこういう時に、急にかしこまるんですもの…」

紗月の気遣いに部屋の空気が一気に綻んでいく。

「僕は、食事の前に風呂に入ってきます。あなたも遠慮せずに入るといい・・・」

「そうさせて貰います。私も今日は朝から色々あって、疲れましたから………」


 温かい風呂と、温かい食事に二人の心は満たされて行った。窓の外には変わらず雪が降っているようである。温かい部屋の空気が窓ガラスを曇らせている。カーテンを閉め切ると、取り残されたように二人だけの静寂な空間が生まれてくる。

 達也は、テーブルをはさんで、両脇に二人の布団を敷くことにした。手を伸ばしても届く距離ではない。急激に距離を縮めた見知らぬ二人が、再び目に見えないものによって引き裂かれるようでもある。                       食事の最中は大いに学生時代の話題で盛り上がった二人であった。しかし、お互いが意識して二人の素性には触れずにいたのだ。明日の朝には、再び見知らぬ他人として別れる運命にあるのだ。旅の思いがけない記憶として、美しいままの形で残したいと、達也は思ったのである。いつも女の心を傷つけるのは、男の身勝手な思い込みであるのだから。 

やせ我慢であるのは明らかであったが、これが大人の男の人生を少しはかじった所作なのだと思い込むと、達也は朝まで目覚めることはなかった。

しかし、未明には、夢の中の出来事なのかはっきりとはしないが、女のうなされた悲鳴に近い声を聞いたような気がしていたのだった。


 朝方、達也が目覚めた時にはすでに、紗月の寝ていたはずの布団は部屋の隅に片付けられていた。紗月の姿は見えない。                         しかし、ハンガーにかけられている女物の薄紫のウールコートが、夢ではなかったことを証明している。

「あら、達也さんお目覚めでした?….よく眠ってらしたわ」

すでに化粧は終えており、朝日の注ぐ部屋で見る紗月は、魅力的な女であった。

「ええ、よく眠れましたよ。 紗月さんは?」

「私は、少し早めに目が覚めてしまって………」

「無理もないですよ。隣に、素性の分からない男が眠っているのですから・・・」

「いいえ、達也さんのせいではないですから、お気を悪くなさらないで…」

「分かってます、今のは冗談ですから」

「良かった~。わたし達也さんを信じていましたから、心配なんて………」

 


 一時間後、達也と紗月の姿は、親不知駅の待合室にあった。他に列車を待つ乗客の姿はない。雪はすでに止んでいて、晴天の空にはわずかばかりの白い雲が浮かんでいるだけである。

「私、いい想い出が出来ましたわ。達也さんと一緒で良かった。出なければ、私どうなっていたか………」

「僕の方こそ、滅多にない経験をさせて貰いましたよ。紗月さん、きょうは、どちらに行かれるのですか?」

「特に決めてはいませんけど…、実家に寄った翌日には、狼煙(のろし)の方へ向かおうかと……」

「狼煙って?・・・、能登半島の先端にある・・・」

「そうです。ある人との大事な約束があって………」

「では、もうしばらく高岡の辺りまでは、ご一緒出来るという事ですね」

すでに、達也の心は意識せずとも、紗月との別れを惜しんでいると言えた。



「……私、この後の列車にしようと思っているのですけれど……」

紗月は、何かを思いつめている様子でポツリと話した。

「紗月さん、僕はこれから金沢まで行く予定ですが、是非途中まで・・・」

「それは、やめましょ。だって…、私自信がないんです……」

目をそらした紗月の瞳にも、別れ難い感情の動きが宿っていた。

「そう言われれば、僕だって・・・」

もはや、達也にとっても惜別の悲しみを隠す必要はなくなっていた。


「達也さん、その代わりこちらを向いて下さるかしら…」

達也が、紗月の方に振り向くと紗月が近づいて来る。

「達也さん、お礼の印よ。目を瞑って……」


達也が目を瞑ると、紗月の冷たい唇が重なって来た。しかし、それは十分に柔らかく達也の望んでいたそのものであったのだ。思わず紗月の細い肩を引き寄せていた。

紗月は抵抗もせず、達也に身を預けた。

しかし、それは人生の中のほんの数秒のことでしかなかった。

これからの残りの人生の中でも、意図しなければ二人が再び巡り合うことなど奇跡に近い事であるのだ。映画のようにはいかない現実が、二人の前に立ちふさがっていた。列車は無自覚にも、二人の間を裂くように時間通りにホームに入って来た。達也は、晴天の空をこの時ほど恨めしく思ったことはなかった。

「紗月さん、どこかで・・、また会えたらうれしいけど・・・」

「…、………」

はっきりと言葉にならない紗月の唇が、かすかに震えているようだ。

「…どうぞ、いらして………」

 

 たった一人の乗客である達也が列車に乗り込むと、ドアは先を急ぐかのように閉まった。紗月ただ一人が、人気のない待合室の中に取り残されている。

 列車が動き出すと、紗月の心が達也の乗っている列車の後を追いかけ始めた。    しかし、『これで良いの…』と囁く声が未練を断ち切っていた。


 時刻表を見ると、金沢行は一時間ほど後であった。

紗月は、改めて振りかえる。昨日なぜ自分がこの『日本海ひすいライン』に乗ることになったのか、思い出せないでいたのだ。東京を離れ北陸新幹線で糸魚川駅まで来たことは、はっきりと記憶に残っている。そのまま金沢に向かえば、昼前には着いていたはずなのである。冷静に考えると、3時間ほどのタイムラグがあるのだ。

 糸魚川駅は、大きな駅である。駅前の海岸通りをまっすぐ進むと、国道8号線にぶつかり、そこにある『日本海展望台』に上がると日本海が見渡せるのである。かすかな記憶の中に日本海の白波を見ていた気がしている。自分は、ある目的を持って日本海に近づいたのだろうと、紗月は思った。しかし、事実は、それを成し遂げなかったことを物語っている。生きることを選んでいたのだ。もうしばらくは……。


 三時間ほど、彷徨い歩いた後『ひすいライン』に無意識に乗っていたのは、自分を救ってくれる何者かの存在を求めていたのかも知れなかった。それが、偶然に出会った達也であったとすれば、あのまま一緒に行くべきであったという気もしてくる。 しかし、達也とは別れたのである。自分の人生の中に、達也を引き込みたくはなかったというのが紗月の本音ではなかったのか。達也という男の存在を知った。それだけで十分な気がしていたのである。

 紗月は、一時間遅れの列車に乗ると、その眼はすでに遥か遠く、奥能登を見据えていた。


 *



 上条達也は、泊駅で『あいの風とやま鉄道』に乗り換え、金沢駅には正午前に着くことが出来た。目的地である元妻の実家の尾張町2丁目までは、歩いても30分と

かからない距離である。達也は、冬の古都の風情を楽しみながら行くことにした。

車窓から見た景色の中にも、例年に比べそれほど雪が積もっている様子は見えない。

 駅を降り、ガラス張りの大きなドームを抜けると、レンガ色の鼓門(つづみもん)

が迎えてくれる。伝統の鼓をモチーフにしたらしいが、その大きさには圧倒されるものがあった。駅前から続く通りをしばらく歩くと、右手に近江町市場が見えてくる。

そして、百万石通りをまっすぐ進むと、浅野川大橋である。達也は、橋を渡らず川沿いの小路に入った。ここが主計町茶屋街(かずえまち)と呼ばれる地域である。対岸にあるひがし茶屋街と比べると、ひっそりとした佇まいを保っている。


 浅野川に掛かっている木製の比較的小さな橋である『中の橋』を過ぎると、左側に

千本格子が印象的な木造の二階家が見えた。ここが明日香の実家であった。

格子戸の右側には、日本料理『貴船』の木製の看板が掛かっている。


「まあ、達也さんごめんなさいね。わざわざ来てもらって…、あの時以来だから… 約一年ぶりという事になるわね」                               義理の母であった貴船道子は、歴史のある料理屋の女将であるだけに、相変わらず凛とした美しさを保っていた。年齢は、70の少し手前であろうか。

「ご無沙汰しておりました」達也は、丁寧に頭を下げた。

「ご無沙汰と言っても、貴船とは縁が切れたのだし、達也さんには、本当に申し訳ないことをしたと今でも思っているのよ」

「お義母さん・・、まだお義母さんで良いですか?・・・」

「明日香と離婚したとはいえ、私は未だに、息子と思っているのよ」

「ありがとうございます・・・」

「達也さん、食事まだなんでしょ? 賄いで良いかしら?でも、美味しいのよ」

「はい、では遠慮なく頂きます」

「じゃあ、食事をしてもらいながらでも、もう少し詳しい話をするわね」

「ええ、お願いします」


 最初は、食事をしながらの雑談となった。  

賄い料理と言っても、老舗の料理屋のものである。忘れられない美味さであった。                

親権を明日香に渡した一人娘の紀香は、昨年の春から全寮制の短大に入ったと聞いてはいたが、大学生活を楽しみ健全に成長している様子が伺えて、達也は安心をしたのであった。妻と離婚をしたとはいえ、親子の縁は切れるものではないのだ。

「お義母さん、電話では聞きましたが、もう少し詳しく話をしてもらえませんか?」

「ええ、明日香が、突然いなくなったのは、今から一週間前のことなの。少し元気がなさそうに思っていたんだけど、明日香にはよくあることだから、あまり気にもしていなかったの。いなくなる前日の夜、『あした行きますから…』って、娘の声が部屋から聞こえて来たのはよく覚えているわ。そして、翌日何処へ行くのかも言わずに出かけて行ったのよ。出かけて泊まってくることは、良くあったことだから…、でも、必ず翌日のお昼前までは、ちゃんと帰って来ていて・・・。店の仕事もあることだし。とは言え、さすがに、翌日も帰ってこないとなると、心配になるものでしょ」 


「明日香が、僕に離婚を言い出した前後も、ちょうどそんな感じでしたね。精神的に不安定というか・・・」達也は、ため息をつきながら一年前を思い出していた。


「・・・そこで、心配になったお母さんが、明日香の携帯に一日中かけたにも関わらず繋がらなかった・・・。そこで、二日目の夜になって初めて金沢東警察に『行方不明者届』を出したんですよね!」 達也は改めて、念を押すように聞いた。

「ええ、でも警察からは、まだ何の連絡もなくて…、それで達也さんに…」

「分かりました。この後、東署に行って捜査状況を聞いてきますので・・・」

「達也さんは、きょう捜査官としてここに?」

「いえ、滅多に取れることはないんですが、たまたま三日ほど休暇がとれまして・・・。でも、緊急の場合は、すぐ戻って捜査に加わることになります」

「そうだったの……、忙しいのにごめんなさいね」

「いえ、紀香の母である以上、私にとっても放っておけない問題ですから・・・」


 旅行者としての達也の顔はすでに消え、そこには、湘南海岸署 捜査一課警部補 上条達也の姿があった。



 第3話に続く

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