5-3

 翌日、午前中はネット記事の執筆を行った。

 それほど大きな案件はなく、三記事を書くのに二時間もかからなかった。

 執筆後はギターを弾いたり、ネットサーフィンをしたりして、昼飯を食ってから出かけることにした。

 永田町へ向かう。

 さすがに自転車で行く気にはならないので、電車に乗った。電車に乗ったのはいつ以来だろうと思い返し、二月に「オシリサワリ」について調査をするため横山奈々子と両桜線に乗ったのが最後だと思い当たった。もう二ヶ月以上前だ。

 永田町に到着し、早速、国会図書館を目指した。いろいろと情報収集をしたかった。

 館内に入り、呪術関連の書物をあさる。藁人形から黒魔術に関するものまで、さまざまな書籍を抱えて閲覧テーブルに向かうと、見慣れた顔が目に飛び込んできた。

 岩島だった。

 テーブルいっぱいに本やノートを広げ、集中してペンを走らせている。

「おい、岩島」

 書籍をテーブルに置き、岩島に声をかけた。岩島は顔を上げ、鋭い視線を僕に向けた。

「なにやってんだ」

「ああ、神市か。なんだ、おまえこそこんなところでなにしてるんだ」

「ちょっと調べごとをしようと思って」

「わざわざ国会図書館まで来たのか?」

「うん。たまに来たくなるんだ」

「そうか。俺は今、動画のネタについて勉強してたんだ」

「今度はなにやるの?」

 岩島はそこに置いてあった文庫本を一冊取り、僕のほうへスライドさせた。そこには「ラッセルのパラドックス」と書いてあった。

「パラドックスを調べてんの?」

「いや、ラッセルについて調べてる」

「ラッセルって、イギリスの数学者だよね。都市伝説と関係あるの?」

 岩島は首を横に振った。

「ラッセルの『世界五分前仮説』について取り上げるんだ」

「『世界五分前仮説』?」

 どこかで聞いたことがある。

「それって、たしか、『世界が五分前に誕生したという仮説に論理的な不可能性はない』ってやつだよね。十分前の記憶とか、昨日の記憶とかも、五分前にそういう記憶を持った状態で生まれたんだとかって」

「そう。まぁ、正確にはラッセルは『世界五分前仮説』を真面目に提唱したわけじゃなくて、違う時間に起きた出来事の原因と結果を論理的かつ必然的に結びつけることはできない、という自分の説を補強するための例え話として、この話を用いただけなんだけどな」

「へぇ……」

「なかなかおもしろいよな。過去ってのは結局、思い出すという作業でしか再現できない。もし、世界中の人間が全員記憶喪失になったら、昨日の出来事でさえ、それが確かに起こったことだと言い切れる人はいなくなっちまうんだ。その場合、過去は存在したと言えるのだろうか」

「思考実験だね」

「そう。最近、思考実験系の話に凝ってるんだ。都市伝説の紹介とあわせて取り上げていこうと思ってる」

 僕は「ラッセルのパラドックス」を開いてちょっと読んでみた。数学的な話が多く、文系の僕にはほとんどなんのことか理解できなかった。

「神市は、なんについて調べてんだ?」

「ああ、俺は藁人形とか、黒魔術とか」

「どうして急に?」

「うん、なんとなくなんだけどね」

 岩島はイスの背にもたれかかり、腕を組んだ。

「そうか。呪術とかもおもしろいよな。なにか、おもしろい話があったら教えてくれよ」

「ああ、おもしろい話があったらまた、教えるよ」

 それから僕らは、お互い集中するために、別々の席でそれぞれ調べごとに没頭した。

 十五時を回った頃に、岩島が帰宅した。

 芽衣子たちとの約束は十八時だったのでまだ時間があった。僕は本を読み進めた。

 結局十七時前まで読みあさったが、特にこれといって興味をひかれる話はなく、単純に呪術関連の知識が増えただけに過ぎなかった。

 僕は渋谷に向かった。

 ハチ公前につき、芽衣子が来るのを待った。

 渋谷にはたくさんの人がいる。誰もが活き活きとしており、街全体が生命力で満ちている。

 ふと、思った。

 この大勢の人間の中に、この世の者ではない存在がありやしないだろうか。生きているように見えるだけで、本当はすでに死んでしまって、魂だけになった存在がないだろうか。

 僕は注意深く、周囲にいる人間を観察した。

 僕にしか見えない存在が紛れ込んでいるかもしれない。幽霊はなにも、人がいるはずのない場所ばかりに出現するわけではないのだ。

 と、そこでスマホが鳴った。画面を見ると、氷山芽衣子の名前があった。

「もしもし?」

「もしもし、神市? 私の声が聞けて嬉しいんじゃない?」

「ごめん、電波が悪いみたいでなにも聞こえない」

「あんたの頭にアンテナぶっ刺すわよ」

「どうしたの? 俺、もう渋谷にいるよ」

「ええ? 本当に?」

 芽衣子の声が裏返る。

「どうしたの?」

「ごめん神市、私、今夜都合が悪くなって、食事会を延期にしてもらおうと思ったのよ」

 珍しく芽衣子の声がしおらしくなっている。冗談ではないらしい。

「都合が悪くなったって、なにがあるの?」

「営業の尻拭い。ほら、塩谷しおたにっているでしょ。あいつがまたできもしないことをできると言って営業かけてたの。弁護士による監修なんて、うちでできるわけないのに。そのことで急遽会議をすることになったのよ。日曜の夜に。冗談じゃない」

 あの男やあの会社ならやりかねないことだ。

「だから、今夜の食事会、来週の日曜に延期してほしいのよ」

「そりゃ仕方ないね、了解」

「あら神市、私と会えなくなってガッカリしたんじゃない?」

 声の調子がいつもの芽衣子に戻る。

「落ち込んじゃった?」

「そりゃ、氷山芽衣子と二人きりで食事をするのは、全世界の男の夢だからね」

「うんうん。男の世界の中心にいるのはいつだってそう、私なの」

「早く結婚できるといいね」

「黙らないともう仕事も人も紹介しないから」

「ごめんよ。謝るから今度女の子紹介して」

「私の友達はみんな結婚してる」

「じゃあ芽衣子でいいや、結婚しよう。式場押さえといて」

「神市と結婚しても、神市だけは結婚式に呼んでやんない。……」

 会議が始まるとのことなので電話を切った。

 拍子抜けで肩の力が抜けた。

 しばらくハチ公前に居座り、おそらく生きているのであろう人々が磯の魚のように行き交うのを、夢を見ているような心持ちで眺めていた。

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