5-4
気がかりな夢を見て目を覚ました。
夢の中で、僕は大きな公園にいた。夜中らしくて辺りは暗い。街灯に照らされたベンチに腰をかけており、隣にはショートヘアの女性が座っていた。
僕らは親しげに会話をした。なにについて話していたのか、正確に思い出すことはできないが、どうやら「結婚」について話をしているようだった。
やけに現実的な夢だった。夢を見ているというより、実際にあった出来事を思い出しているような感覚に似ていた。
ただ、一緒にいた女性に見覚えはなかった。夢の中で僕らは単なる知り合い以上の関係であるようだったが、その人が誰なのか、目覚めた後にいくら記憶を遡っても思い出すことはできなかった。
昨日の夕方、芽衣子と結婚に関する冗談を言い合ったから、このような夢を見たのだろう。僕はそれ以上その女性について考えるのをやめた。
それよりも、気分が重たかった。朝から強い雨が降っていた。
気圧が低く、窓の外はどんよりと暗い。
時折吹く風に煽られて雨粒が窓を勢いよく叩く。そのたびに僕の心は、ハンマーに打ち付けられる釘のようにどこか闇深いところへ押し沈められていった。
とても仕事をする気にはなれない。
案件はいくつか抱えていたが、どれも急ぎの仕事ではなかった。
予定を変更し、今日は一日、ぼんやりして過ごすことにした。
フリーランスは自分の体調に合わせて臨機応変に生活リズムを変えられるからいい。会社勤め時代はこうはいかなかった。たとえ気分が悪くても、満員電車に揺られて出勤しなくてはいけなかったのだ。
フリーランスになって本当によかったと思う。フリーランスになることを僕に勧めて、背中を押してくれたのは、当時同僚の芽衣子だった。
芽衣子には感謝しかない。芽衣子がいなければ、僕はいまだにあの会社で働き、鰹節のように日々精神を削り落としていただろう。
雨脚は徐々に弱まっていった。昼過ぎ頃には窓を叩く音はしなくなり、いくらか気分も楽になった。
カップラーメンで昼食をとる。
一口目を一気にすすり込むと、右上前歯がキンとしみた。この冬頃から、少々歯の調子がおかしい。熱いものや冷たいものを口に入れるとやけにしみる。
虫歯にはなったことがないのではっきりとは言えないが、どうも虫歯の痛みではないようだ。耐えようと思えば平気で耐えられる程度である。
とはいえ、食事のたびに歯がしみるのは不愉快だ。
「歯医者に行ったほうがいいかな」
僕は歯に刺激を与えないよう、カップラーメンをふぅふぅ入念に冷ましてから口に運んだ。
夕方頃になると、雨は小雨になった。表の道でも、傘を差している人と差していない人の割合がほぼ半々になっていた。
多少気分も上向きになった。
しかし、ここで調子に乗って仕事に手を出してはいけない。ポジティブシンキングがしっかりと食いつくまでは、竿先をしっかり見て、針を合わせるタイミングを見計らう必要がある。
僕はネットサーフィンをしたりギターを触ったりして、気分が上ずるのを待った。
気分は順調に快復していった。
ここまで来ればもうあとひと息だ。気の置けない友人と会って話でもできれば、もうほとんどメンタルは元通りになる。
しかし、今から呼び出して飲みに行ける友人は近所に住んでいなかった。
最も近場に住んでいる友人は、八幡山在住の行田だが、彼は交番勤務で夜中も働いていることがある。試しに連絡をとってみたが、案の定、夜番だった。
ひとりで夜の町を散歩した。雨は完全に上がっていたが、昼間と比べるとかなり気温が下がっていた。
なんとなく、駅とは逆の方向へ行ってみた。
仙川が流れている。橋の欄干から川面を見下ろした。川幅は狭く、水深も低い。背後を車が通り過ぎていくこともあって川のせせらぎは聞こえてこない。
夜の仙川を初めて見たが、おもしろみのない景色でガッカリした。
それからすぐに帰宅して、冷凍チャーハンを食べた。
食べ終えると気分は快調になり、今日手を着けるはずだったネット記事案件をひとつやっつけてから、床に入った。
その晩も夢を見た。
僕は海にいた。女性が僕にサーフィンを教えてくれている。彼女には恋人がおり、彼は波打ち際で波乗りを楽しんでいる。
その二人は僕の友人らしいのだが、どこの誰なのかはわからない。サーフィンなどしたことがないし、してみたいと思ったこともないのに、顔に当たる潮風や、手に触れるサーフボードの感触には、妙な現実味があった。
目が覚めた後も、しばらく頭が目の前の現実を拒否し、夢の残像を追いかけていた。
これで、三日連続で不思議な夢を見たことになる。内容自体は平凡だが、やけに現実的で、見ず知らずの登場人物に対して強い親近感を抱いている。
なにか珍妙怪奇な現象が起こっているのかもしれない……。
僕はわくわくしながら台所へ行き、冷たい牛乳を飲んでつい、顔をしかめた。
歯がひどくしみた。
午前中から、昨日休んだぶんを取り戻そうとギアを上げてネット記事執筆にいそしんだ。作業自体は軽快に進んだが、歯の違和感は続いた。
昼飯を食べながら我慢できなくなり、僕はついに歯医者へ行こうと決意した。
横山奈々子に電話をかけてみた。せっかくだから友人が働いている歯科クリニックに行こうと思った。
昼休み中だったのか、奈々子はすぐに電話に出た。
「やっほー神市くん」
「あ、奈々子ちゃん? 今休憩中?」
「うん、もう戻るところだけど。神市くん元気?」
「それなんだけどね、どうも最近、歯の調子がおかしいんだよ」
「それはダメだね。歯はとっても大事なんだよ。歯のかみ合わせが悪いだけでスポーツ選手は成績が悪くなるくらいなんだから。私も虫歯治したらダンスのキレがよくなったよ」
「そう、だから歯医者に行こうと思ってて。歯がしみるんだ」
「それだったらうちに来なよ! 私いるし、多分、今日でも予約とれるよ」
「それを確認したかったんだよ。何時頃ならいいかな?」
「四時頃ならあいてるよ。私が予約入れとこうか?」
「できるの? それじゃお願いしようかな」
「オッケー。じゃあ、四時で予約入れとくね!」
「どうもありがとう」
「ははは! お礼なんて興ざめだよ! ……」
電話を切って、僕は念入りに歯磨きをした。
歯医者に行ったことがないから作法というのは知らないが、口の中を見られる以上、できる限り清潔にしておくのが礼儀だと思った。
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