蚊の第10話

 「じゃ、今日も授業が始まる前に余談でもしようかな」


 2限目の理科。教室にやってきた生物教師の岩橋が、いつものように軽い口調で余談を始める。


 10分も満たない余談は、生徒からは意外と好評で、勉強が苦手な生徒たちも、こ

の先生のこの時間だけは興味津々で耳を傾けていた。


 「養豚場で豚の世話をしてる時に、職員は頭を含め全身を覆いつくす服を着てるん

だけど、どうしてだと思う?」


 今回は、養豚場についての余談。丸っとしたお腹と脂肪分を含んだ顔で生徒たちか

らは『ハムちゃん』と呼ばれている岩橋が、生徒たちの考え込む反応を見て、自分の

思惑通りだと言わんばかりに喜ぶ。


 僕は知っていた。


 それは、蚊がいるから。豚の血を吸った蚊が、人の血を吸ったときに豚の血が混ざ

って、そこに含まれる雑菌が人に入ったら危ない。だから、首や足元までを蚊に刺さ

れないように分厚い服装でしっかりと覆う。


 小学生の時に母とよく行っていた肉屋のおばちゃんがそんな話をしてたっけか。


 「はい、ハムちゃん!」


 上田が大人の前でする優等生然とした態度で手を挙げる。


 「臭いから!」


 「まあそうだな、糞尿の臭いがきついから…、ぶっぶー」


 子供のように不正解の効果音を声で鳴らし、両手で×を作る岩橋。


 「な~んだよ、絶対正解だと思ってたのにな~」


 楽しそうに残念がる上田。


 「俺もおんなじこと思ってたわ」


 「俺も俺も」


 盛り上がるクラスのトップ層たち。


 あははは、と本心からなのか作っているのか分からない笑い声で教室を盛り上げる

その他。


 間違えた回答をした上田だが、しかし彼は要領がよく、テストの成績も普通に学年

の中でも上位に食い込むほどだ。


 不公平だ、と思わずにはいられない。悪そうな風貌をしているくせに勉強ができる

んじゃあ、それは大人からも人気があって当然。彼がおもちゃのように扱う僕や向坂

なんて、教師からも見放されているというのに。


 今に見てろよ。


 机の下で拳を固めて、今日も図書室と図書館で勉強してやるからな。


 いつかレイラの『幸せボケ』が終わった時のために。


 努力は無駄なんじゃないと、向坂に言いたいために。


 …最近、なんだかすっかりガリ勉になってしまったな。






 というわけで、今日も今日とて昼休みの図書室。


 昼ご飯を食べる時間がもったいないので、最近は購買でパンを買うと母に噓をつ

き、こうして食事の数分すらを確保して勉強に充てる。


 授業の時よりも、自分一人のペースで進められる分、あまり堅苦しくならないのが

いい。自由かつ、周りとの差を付けられることへの期待感を感じる勉強は、苦しいと

いうよりは楽しい。


 数分やっているうちに、意識は没頭の渦に巻き込まれて、いわゆるトランス状態の

ようなものに陥る。


 レイラに『邪飲み』してもらってる時とは別の方向の愉快感。頭の中がボーとして

いるようなすっきりしているような、よくわからない感覚。肩を軽くたたかれるよう

な感覚。


 …。


 …。


 肩をゆすられているような感覚。


 それは次第に大きくなっていって。


 …。


 頭を軽くたたかれた。


 「おい」


 後ろを振り返ると、きれいな顔をした女の子が、女王様然とした顔つきで僕を見下

ろしていた。


 「それ、スペル間違えてる」


 「え」


 ノートに殴り書きしたアルファベットの羅列に指をさす。覚えるために10個書い

た 『misstake』。


 「正しくは、『mistake』。わざと間違えてるの? その単語の意味とかけてる

の?」


 「そんなわけないだろ…」


 『mistake』、和訳すると『間違い、誤り』などを意味する。だから、その意味を

踏まえて僕がスペルをわざと間違えて遊んでいるのか、という新手の嫌味を言う。


 「ふうん」


 と、彼女が出会って初めて、うっすらとだが笑みを見せた。


 ていうか、冗談も言える人だったんだ。


 「それで、なんか用事?」


 僕は、急に近づいてきた彼女に目的を問う。


 「それを指摘しに来ただけだけど」


 「え?」


 それだけ? という言葉を出せないくらい驚いた。彼女の風貌や雰囲気、過去に行

ったことからして、英単語のスペルの指摘だけで終わるようなタマか? 


僕は怪訝そうに目の前の美人を見やると、彼女が言った。


「良い目してたから」


「僕が?」


「あんた以外に誰がいるの?」


色白の顔を歪めて冷笑めいた表情を浮かべたのち、顔つきが柔らかくなる。


「必死にやってるやつを見てると、ちょっと助けたくなるのよね」


「え」


「だって損じゃん? 報われない努力なんて」


僕は驚いた。あんなに僕の座った後を消毒していた彼女が、こんなに親切にしてくれ

るなんて…。


 それ以上に、驚く発言を、このあと彼女は口にするわけである。


 「あんた、名前は?」


 「僕のこと、知らないの?」


 不思議なものを見つめるように彼女を見る僕。


 これまた不思議そうに僕を見返す彼女。


 「なに、あんた? 芸能人か何かなの? 知ってて当然、みたいな存在?」


 「いや、そうじゃなくて! 蓮見…、蓮見壮也」


 「ふうん、蓮見くん。よろしく。私は、三宅(みやけ)涼子(りょうこ)」


 淡々と、本当に僕のことを知らない様子で彼女は自己紹介した。


 それからというもの、僕と彼女は、来たる期末テストに向けて誰よりも早く猛勉強

を始めた。ライバルたちに差をつけるために、上位の成績に食い込むために、僕は必

死にペンを早める。


 昼ご飯を抜きにしてまでする勉強は、楽しかった。


 小説ばっかりのんびり眺めていた僕だが、意外と思考が浅かったり語彙力の少ない

僕だが、三宅さんが時折、公式の使い方や長文の読解などのコツを教えてくれたこと

もあり、理解が深まった。


 三宅さんは、意外にも優しかった。


 それから二週間が経っただろうか。


 相変わらず上田達からいじられることはあったけど、努力による没頭がそれを勝っ

た。


 そういえば最近、レイラのところに行ってないな。


 まあでも、この間まではいつものように通っていたし、少しは休ませた方がいいか

も。身勝手に不幸を吸わせすぎるのもよくないだろうし。


 美亜さんが言っていた、レイラの『幸せボケ』とやらも、別に直ちに影響が出るわ

けじゃあるまいし。


 他の『お客さん』がいたらどうしよう…。


 しかし、そうなったらそうなったで仕方がない。見なければ、気づかなければ、無

いものと同じなんだから。


 「どうした?」


 向かいの椅子に座る三宅さんが怪訝そうに僕を見る。


 「ああ、ごめんごめん…、で、どうすんだっけ、こっから」


 二次関数の応用問題を丁寧に解説してもらいながら、にこにこと笑う彼女が頭をよ

ぎった。

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