忠告の第9話

 「それは災難だったわね」


 紅茶の入ったカップを渡しながら、美亜さんがクスリと笑った。


 「笑い事じゃないですよ~。結構傷ついたんだから」


 自分が座った跡を徹底的に消臭されたってことは、つまり僕が臭くて汚い生き物だ

と認定されたということなのだ。この年頃で、もうすでに臭くて汚いのか、僕は。


 「潔癖症なんじゃない?」


 「いやいや、あの顔は絶対的な悪意がありましたよ」


 美亜さんがフォローを入れるが、僕は相変わらず不貞腐れる。


 「ほら、紅茶でも飲んで落ち着きな」


 「あっ、はい…」


 適度に調節された温かい紅茶が、喉から胃へと落ちるのを感じる。優しい味と温度

に、少しだけ心はリラックスした。


 「で、今日も上がってくの?」


 「ええ、もちろん!」


 今日の『不幸』もなかなか強烈だった。今度こそ、レイラに喜んでもらえるかもし

れない。


 「レイラが、ちゃんと大人になるまで、来てくれると助かるんだけどね」


 「え?」


 意味ありげな発言をする年上の女性に、僕は首を傾げた。


 すると彼女の口調も疑問形になった。


 「あれ、言ってなかったっけ? レイラ、大人になって、感情のコントロールがで

きるようになったら、あのフワフワした状態じゃなくなるんだよ」


 「そう…、なんですか?」


 「あと三年くらいかしら。あの子がしっかりしだすのは」






 「どうしたの~?」


 「い、いや、なんでもない」


 「ふ~ん」


 慌てる僕をよそに、いつものように、レイラは笑う。


 この屈託も陰りもない、今の夕陽のような笑顔が失われていくのだろうか。そう

考えると寂しくもなる。


 でも、レイラの色んな顔を知ってみたいという好奇心も、ないわけではなかった。

ずっと笑っているままだと、本心なんて分からないし。


 しかし、彼女の本心がわからない方が僕にとっては幸いかもしれない。こんなに可

愛い子なら、きっと僕のことなんて良く思っているはずがない。


 三年くらい。美亜さんが言っていた期間。


 時間が経てば、『邪飲み』をしなくてもレイラは『幸せボケ』をすることなく感情

をコントロールできる。


 それはつまり、僕は用済みになる。


 「じゃあ、本日もレイラが例のごとくはじめま~す。礼」


 いつものように正座し、『お客さん』の僕に深くお辞儀をするレイラ。


 そしていつものように、僕の『不幸』は抜け落ちて、浮かれ気分に陥った。






 翌日の放課後。


 上田にしつこく絡まれてうんざりしていた僕は、それでも図書館へと足を運んだ。


 努力して少しでも今の生活を変える。そしたら向坂も、何かを頑張ってくれると希

望を持ちながら勉強に励んでいるが、目的がもう一つ生まれた。


 それは僕自身に関すること。僕が少しでも有能な人間になり、感情をコントロールできるようになったレイラに少しでも嫌な顔をされないように。そんな気持ちで努力を始める。


 十分すぎるほど、原動力になった。


 図書館が閉まる午後8時の、20分前までみっちりと勉強した。意識が遠のいて、

声をかけられるまではずっとテキストの問題のことしか考えていなかった。


 「ねえ」


 声をかけられた。


 女子の声だった。


 振り向くと、つやのある黒い髪をした女の子が、僕を睨みつけるように見ていた。


 「あっ…」


 喉が詰まったような声が出る。この人も、この時間まで図書館にいたのか。


 僕はすぐさま立ち上がる。


 「ごめん! ここも君のだったよね?」


 椅子を指し示し、またしても彼女のテリトリーを汚してしまったことを悔やむ。ま

た嫌みのような消毒行為を目の当たりにするのか。


 「私の、じゃないよ?」


 「へ?」


 素っ頓狂な声が出た。


 ではどうして彼女は声をかけてきたのか。


 シンプルに僕の存在が目障りだとか? だって、未だに表情は真剣みを帯びている

し、それにある程度の女子が僕を目障りだと思っていることだからきっと彼女も…。


 「ほら」と指をさす方向に目をやると、壁に時計がかかっていた。


 「もうすぐで8時でしょ? ここの職員さんで、ちょっとうるさい人がいるから」


 控えめに、遠くの女性に指をさす彼女。


 「あなたも急がないと絡まれちゃうよ」


 淡々と業務的な口調で忠告をした彼女は、そう言うなりさっさと自分の荷物がある

席へと戻っていった。

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