噴な第8話

 「おい」


 昼休み。


 図書館へと足を運ぼうと廊下を歩く僕に、向坂が声をかけた。


 「本当に解決してくれんのかよ。お前にはそんなに期待はしてねえけど」


 「うん」


 と僕は答えて、


 「君の努力もいくらか必要だけど」


 と付け加える。


 「俺の努力?」


 「そうだよ!」


 首をかしげる彼に、言った。


 「今度の期末テスト、今のうちにたくさん勉強してあいつらにぎゃふんと言わせて

やろうぜ!」


 どうだと言わんばかりに僕は声を張る。


 「冗談で言ってんのか?」


 「いやいや、マジだよ! マジ中のマジ!」


 僕は感極まる。


 「ほら、クラスで何かしら出来るようになったら自分の自信にもつながるし、周り

からの評価も高まる。いま直接あいつらに立ち向かっても歯が立たないから、時間を

積み重ねていけば、きっといつかは…」


 「お前に!」


 言葉は、さえぎられた。


 「お前にちょっとでも期待した俺がバカだったわ。この底辺野郎!」


 「お、おい…」


 檄を飛ばし、踵を返して自分の教室に戻る。


 分かってた。


 彼は限界が来ているのに、少しずつ積み重ねよう、なんていっても意味がないこと

に。


 でも、事実として、彼には上田や自分のお兄さんの悪意に逆らう力が足りないか

ら、そして僕も他人を助けられるほどの人間じゃないから。


 少しずつ、努力を積み重ねるしかない。


 それしか道は、ないんだ。


 人間、落ちるときは一瞬だ。上がるときは少しずつ頑張らなきゃいけないのに、彼

や僕のように、一度やらかしてしまえば、一瞬で底辺に叩き落される。




 『お前、気持ち悪いな』


 『こっち見ないで』


 『止めてよ…』




 突き刺さる記憶。


 突然帰ってきたそれは、僕の心を少しずつ黒く浸食していく。


 …。


 ダメだダメだ。


 首を横にぶんぶん振り、頬を両手でたたく。


 「よしっ!」


 意気込んだ僕は、数学の教科書とノート、筆箱を持ち、図書室へと歩みを進めた。






 夕方。


 昨日、向坂がいたのでできなかった『邪飲み』を、今日も笑顔な彼女にしてもらっ

た。


 上田主催の、あの地獄のようなボーリングの鬱憤や、向坂に提案を却下された悔し

さが、指先を伝ってレイラの口に流れ込む。例の痛みもズキッと、心に刺し込む。


 レイラの唇が、僕の指先につながることに大きく緊張することはなくなったが、や

はり少しくすぐったい気持ちになる。


 女の子の唇が僕にくっついているという現実が、少し前まではありえないことだっ

た。


 …。


 昨日、どうして僕は向坂の『邪飲み』を、レイラに頼まなかったのだろうか。


 上目遣いで僕を見上げて、目を細めるレイラ。にこやかで、優しい笑み。


 「独り占めにしたい…」


 「ん~?」


 黒い液体をすすりながら首をかしげる。


 「あっ、いや、こっちの話! …『邪飲み』中にごめん!」


 声に出てしまっていたようだ。僕は慌てて誤魔化す。手汗が分泌されたらどうしよ

う。


 「んっ、んん」


 レイラは、僕の指を自分の喉に垂直になるように掲げ、ゴクン、と音を鳴らすと僕

の手を離し、笑った。


 「ごちそうさまでした」


 夕日に照らされる笑顔。


 向坂にも、誰にも、この笑顔だけは見せたくない。


 『邪飲み』されて浮かれ気分でありながらも、一抹の緊張を感じた。






 「ねえ、昨日のドラマ観た?」


 「ああ、あれ、面白かったよね」


 昼休み。


 当然のように僕の席を占領する女子。僕が君たちの席に勝手に座ったら腹を立てる

くせに。


 「ちょっと…、ごめん…」


 これまた情けない態度で、僕は机の引き出しに手を伸ばし、教材を取り出す。


 何か文句を言われるだろうか。不安だったが、今回は言葉を一つも発さず、すっと

自分の位置と引き出しの間隔を開ける。


 僕が教室を出たら、クスクスと笑うんだろうな。


 それでまた、テレビ番組の話に戻る。


 テレビか。


 教室を出て、僕は声にならない声を発する。


 ここ数年、テレビなんて観てなかったからな。テレビなんて、観たくもない。


 図書室にたどり着く。テレビにはあれだけの興味を示す人間は多いが、小説や活字

には全く関心がないらしい。よって教室よりも広いこの部屋は、カウンター越しで作

業をしている大人一人と、大人しそうな生徒が三人しかいない。


 僕は早速、ノートと教科書を広げて勉強を始めた。


 英語の長文問題。


 意味が分かると、まあまあ面白い。特定の地域では黒猫は不吉なイメージがあった

り、緑色が悪魔や竜などを連想させる邪悪な色だったりと、面白かったりもする。


 最近解いた問題は、東京都のコンビニが一日に廃棄する飲食料品の量についてで、

まあまあ面白かった。


 これを、解答を見ずに読解出来たらもっと面白いんだろうな。


 頑張らなくちゃ。


 いまだ、大きな不幸が訪れていない今日は、勉強が捗りそうだった。


 なのに…。


 「ねえ」


 声をかけられた。


 女子の声だった。


 振り向くと、つやのある黒い髪をした女の子が、僕を睨みつけるように見ていた。


 「そこ、私の座るところなんだけど」


 「ああ、ごめん」


 いつものことだ。僕はとりあえず謝って席をどいてあげた。


 他クラスの人だろうか、上履きの色は僕と同じ青のラインが入っているので同学年

であることがわかる。


 僕のことを多分この人は知っているだろうな。きれいな顔をして、強気な女の子。

教室の中でも主導権を握るトップ層の生徒。


 「失礼しましたー…」


 僕は踵を返し、空いている席の方へ移動し始めた。


 その時だった。


 しゅっ、しゅっ、と水気の混じった空気を射出する音が何度か聞こえた。


 え、ええ…。


 きれいな顔をした彼女は、コマーシャルでもよく目にする衣類向けの消臭剤を、さ

っきまで僕が座っていた席に噴射していた。


 「~っ!!」


 さすがに、さすがに僕は、


 なんて性悪を極めた女なんだー!!!!!!!!。


 憤慨し、叫んだ。


 もちろん、心の中だけで。

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