ファーストライン 初動警邏 3
珈琲を飲み終えた西峰の前に一枚の紙が冷泉から差し出された。
日本地図を釘抜き紋で囲った検非違使のシンボルマークの下に「機密事項守秘誓約書」と表題があり、下には延々と小さな文字が読む事を拒絶するかのように紙面を埋め尽くしていた。
「さて、署名してくれるかな」
西峰に冷泉がペンを差し出した。その口調は妙に恫喝まがいに西峰には聞こえる。
「何に対して署名するのです?」
「この喫茶店で見聞きしたこと全てに対して」
捜査資料すら閲覧する権限がない一介の女警など話を聞けば用済みということだろうか、と西峰は思った。
「サインを終えた後、私はどうなりますか?」
冷泉を睨みつけた西峰に向けられて揺れていたペンが止まった。目深に被った制帽の下の表情は窺い知れない。
「・・・そうだね。どちらが良い?」
「どちらとは?」
「警察官として交通課業務に戻るか、それとも、見廻警邏と行動を共にしてみるか」
そう言って冷泉はタバコを取り出して火をつけた。西峰にとってはどちらとも究極の選択と言えた。交通課業務に戻れば先輩の事件に関与する事はは難しくなり、あの最後の願いすら叶える事は不可能になるだろう。その点、見廻警邏に同行すれば事件に関与はできるだろうが、行動を共にする事は警察官として最も慎むべき行為とも言える。検非違使と警察との連絡官となる業務は警察官服務規程にある。
しかし、規定と感情は別物だ。
警察内部では検非違使と行動に共にする者や共にした者を尻尾と呼んで蔑んでいた。
「私を連絡官にという事ですね」
その言葉の重みを自覚して西峰が身震いする。
「そういうこと。でも、今回は通常とは異なるからしっかりと考えた方がいい」
「異なる・・・ですか?」
「もし、行動を共にするなら西峰さんを指名することになる。指名は検非違使から信頼を得ているというお墨付きに等しい。この意味はわかるよね?」
「はい・・・」
検非違使から指名されたと言う事になれば、警察官としての未来に暗雲が立ち込めることは間違いない。
その覚悟はあるかと冷泉から問われているのだ。
「それでも構いません。私を指名してください」
一瞬の迷いを振り払うと西峰は冷泉の目を見て返事をした。その気持ちにはしっかりとした意志が篭っていた。
「じゃぁ、そうしよう」
懐からスマホを取り出した冷泉が操作をすると再び西峰の警察電話が妙に甲高い音をあげた。取り出して通知を見ると、課長からで検非違使より「連絡官」へと指定があった旨とそれを受諾するかとの問合せで、迷う事なく受諾すると「連絡官業務を命ずる」と命令がきた。
「指定をお受けしました」
念の為に画面を冷泉へと見せると、冷泉は深く頷いた。
「こちらも確認したよ、さて、ではさっそくだけど。今から署に戻って最初の事件現場の鍵を借りてきてくれるかい?現場は未だに県警察が押さえてると記録にあるからね」
「あの父親を殺した現場のですね」
「そう、あの女性警察官が言っていた言葉から調べてみよう。私はもうしばらくすることがあるのでここに居るから、署まで取りに行ってくれるかな?君が連絡官に任命されたのは捜査本部の全員に周知されているから大丈夫、一言、こう言えばいい。介入の為に現場の鍵を借りたいと、もし嫌がらせでもされたら直ぐに教えてください。対応します」
「わ、分かりました。では、取りに行って参ります」
「よろしく」
西峰が席を立ち上がって頷くと足早に外へと出ていった。10分ほどのこの場所なら署まで歩いていけることを冷泉は計算に入れている。灰が繋がったままの煙草を灰皿に捨てると、新しい煙草に火をつけて一息吸うとしっかりと吐き出した。
煙は再び冷泉に纏わりつくように辺りを漂っている。
「そろそろ、どうだったか教えてほしいのだけど」
西峰が座っていった席に向かって冷泉が声をかけた。
「あら、お早いお呼びね」
どこからともなくか弱い女性の声が聞こえてきた。
彼に纏わりついていた煙がゆっくりとそっちらへと流れてゆく。それは徐々に徐々に煙の濃さを増してゆく。
「うん、早めに知っておきたいからね」
それに独り言を呟くかのように返事を返すと煙の形が更なる変化を見せ始める。
「ふふ、せっかちさん」
やがて霞のような煙に包まれた店内にしっかりとした女性の声が響いた。
それが合図であった。
西峰が座っていた席に霞がまるで竜巻のように渦を巻いて集まってゆき一本の柱を形成した。そして、その柱が文字通りに霧散するように一変に散ると、そこには権田原三等査察官と同じ背格好をして検非違使の制服を着た細面の美女が姿を現した。
「マスター、私にも珈琲を頂けるかしら」
姿を現した彼女は呆然としてるマスターへと注文をすると、冷泉から差し出された煙草を咥えて、差し出されたライターで火をつけた。
彼女も深く煙を吸うと煙をしっかりと冷泉の方へと吐き出すと、その煙も纏わりつくように辺りを漂う。
「さて、なにから言ったらいいかしら?」
彼女が和かな笑みを浮かべながら煙草を咥えてそう言った。
「そうだね・・・。先ずはかすみの珈琲が来てからにしよう」
「分かってるじゃない。それからじゃないとね」
両手で仕方ないといった仕草の冷泉にかすみと呼ばれた彼女が相槌をした。
警邏部長が冷泉を指定した理由がこれである。
科学技術がいくら発達しようとも説明のつかない不可思議な事件というものは存在する。
検非違使の対応部隊の手練れとして名前が知られている1人が冷泉だ。
所謂、物の怪や宗教絡みの事件を扱う場合、そこに必ず不可思議な現象が発生することがある。通常の対応ではとても解決が難しく手に負えないことが多い。対応にしくじれば殉職や怪我や死人がでる。それらを解決する為に京都本庁の第一警邏課と第二警邏課に対策人員が配置されていた。もちろん、警察も同様の部隊があり、特に名高いのは警視庁第一機動隊(通称:近衛の一機)にある警杖隊だろう。
そして冷泉には「かすみ」と呼ばれる精霊が、煙のように、霞のように、近くで常にたゆたう。
煙草を灰皿に置き、マスターが持ってきた珈琲を口にしたかすみは、カップを持ったままで冷泉に微笑んだ。
「で、何を聞きたいのかな?」
「西峰巡査のこと」
「ああ、あの子ね。冷泉はお手つき前と言ったけど、あの子、すでにお手つきよ、残念ね」
「そうなの?」
「ええ、お店には出てないけれど、関係を持った人はいるわね」
「間違いない?」
「入り込んだもの、間違いないわよ」
かすみはそう言って冷泉に万遍の笑みを向ける。その笑みには惚れ込んでいるというよりは、病的なまでに想い澱んだように歪んで見えた。
「そうか・・・」
視線を落とし顎に手を当てて考える姿勢とった冷泉を見ながら、かすみはつまらなそうにして再び珈琲を口元へと運ぶ。
煙や霞がどこにでも流れて入り込んでくるように、物であろうが、人であろうが、かすみはどこにでも入り込むことができる。
もちろん、心の隙間にも。
霞から逃れる事はできないように、かすみの前では一切の隠し事はできない。
「でも、よかったわね」
「何が?」
「だって、あの子、お手つきだったのよ。祓紙(はらいかみ)が本物かどうか調べる事に使えるじゃない」
かすみはそう言って再び微笑んだ。
精霊にとって所詮ヒトは駒である。
その存在に、ましてやその死にも、大して興味を示す事も殆どない。手を差し伸べてくれたり助けてくれたなどの話が伝わることがあるが、それは気まぐれを起こしただけにすぎないのだ。
「ああ、それもそうだね・・・」
あまり気乗りのしない意見ではあるが、それしか今のところは真偽の程を確かめる術もない。これが祓紙です、などと直接書かれていることはないだろう。
「でも、祓言葉までは分からないわよね」
「そうなんだよね。その言葉が分からなければ、本当に意味での祓紙にはならない」
祓紙には書かれていた祓言葉があるはずである。
それは仏教に経典があるように、神道に祓詞などがあるように、キリスト教に聖書があるように、決まりがあるのだ。それは法則であり規則である。それ通りに執り行われなければ解くことはできない。
「犯人に決まり事はないの?」
微笑んで可愛らしく首を傾げたかすみが尋ねた。
「妙に気にしてるね?」
普段なら介入に対してそれほど感心を示さない彼女がここまで興味を示すのも珍しいと冷泉は思い、煙草の煙を吸い吐き出しながら聞いた。
「ええ、入り込んだ時にね、妙な御呪いだったのよ」
「妙な御呪い?」
「ええ、 呪詛というよりは御呪いの類に近い気がするの、あの女の記憶を封じている蓋は出来の悪い癖にしっかりとしているのよ」
「出来が悪いのにしっかりとしているの?」
「ええ、普通なら穴が開くのだから、そこから入り込む事ができるし、それにちょっと弄ってやることもできるのだけれど、見る事はできても弄る事はできないの。どう言ったらいいのかしら・・・。そうね、石垣の隙間からむこうを覗けるのだけど石を引き抜く事はできないといった感じかしら・・・」
「施術者は素人ということ?」
精霊に出来が悪いと言われながら解くとことができないという事は、冷泉の経験上、素人仕事ということにほかならなかった。
「ええ、多分、素人よ。ヒトが奇跡と言うものに近いかもしれないわ」
「それだとすると・・・。祓紙で祓うしか記憶を聞き出す方法はないわけだ」
「そう?私なら無理に弄って壊してしまうけど?」
「ヒトまで壊れちゃうでしょ?」
「それは困ること?」
きょとんとした顔で言うかすみに冷泉は少し呆れ果てたがそれが精霊なのだと思い直した。
「そうだね。仕事上としては困るかな。今回の事件に指定された以上は、その裏側のことも調べるように考えるべきだろうね。例の教団には国策や政策、国防・警察関係の情報が流れている事があると検非違使の孤月教団レポート・・・、えっと、孤月教団報告書に書かれてたよ。どうにも君達を便利に使おうとすることも研究しているとも書かれていたかな」
精霊は横文字に弱い。冷泉は言い回しを変えてそう伝えると、かすみの興味を掻き立てたようで口元が三日月のように曲がり、美しい顔から美しい夜叉へと表情を変えた。
「ヒトの身でなんとおこがましいこと」
かすみの周りに薄墨色の霞が溢れ出て、あたりの空気がひんやりと温度を下げた。
「かすみ、漏れ出てるよ?」
「あら、ごめんなさい。でも、それは壊さなければならないわ。私達を使いにしようだなんて平安の陰陽師どもと同じくらい憎らしいことだもの」
「陰陽師ね・・・」
「どうしたの?」
「孤月教団ってのは、教祖が確か陰陽師を名乗ってた気がする」
タブレットを取り出して例のレポートを開いて教祖の項目を調べてみると「陰陽師:菰田龍美」と確かに記されていた。添付されていた孤月教団入信パンフレットの菰田本人の語りによれば、20代の頃に神が枕元に立ち、心迷える人々の救済をするようにと力を授けられたとある。病み痛んだ心を癒し、心の息吹を吹き蘇らせるとして、その下にはよく見慣れた信者のテンプレが記載されていた。
教祖の写真では山伏の出立で錫杖を持った菰田が滝行に励む姿があった。
「ほら、これが教祖さんだそうだよ」
タブレットを卓上に置くと興味津々と言ったようにかすみが覗き込んだ。
「かわいいお坊ちゃんね、遊びたいわ」
「壊すの間違いでしょ?」
「あら、私達では遊ぶと言うのよ」
深淵のような暗い笑みをかすみは浮かべてクスクスと笑った。
「話を戻すけどね」
「そらしたのは貴方よ?」
「それもそうだね、まぁいいや、西峰巡査が戻ってきたら、例の現場に出向くから、一緒に祓紙を探す手伝いをしてほしいな」
「どれが正しいのかは分からないわよ?」
「かすみが気になるものを片っ端から回収すればいいよ。あとは警察が追っている犯人が捕まった時に祓言葉を見て書いて、この際、しかたないから西峰巡査に見せる。それが正しいものであれば任務は終わりかな」
「ねぇ、気がついてる?」
「なにが?」
「貴方、私と同じような笑みをしてるわよ」
「え!?それはまずいね!」
タブレットのカメラアプリで冷泉が心配そうに覗き込んだ。それを笑いながらかすみが珈琲を飲み干した時、出入り口のドアベルが音を立てた。
「お待たせしました。鍵を借りてくる事ができました・・・」
西峰巡査が入ってきた時、2人はそちらに振り向いて薄気味悪い笑みで出迎えた。
心 死 や ど り 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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